
最近三日月を見上げるときれいに見えなくて、変な形に見える。
ああ、俺はついに異世界とコンタクトがとれるようになったのか、と。その事をお客さんに話したら「乱視ですやん」と言われてしまった。これだからロマンのない人は嫌なのよ、もうっ!
どうやら、月ぐらい遠くの物を見るときに具合が悪いようで、私生活には影響ありませんでして、まあなんですか、私がとち狂って航空機パイロットにでもなろうと思わない限りは問題ないと思います。
さてそんな不具合が発見された三月。
三月もこの末々になってきますと、にわかに慌ただしくなって参りまして、桜のつぼみが膨らみ始めるといよいよ春を連呼する声が聞こえてきます。ラジオから流れる音楽もどこかしら春を思わせるような曲が増え、揚々春をたたえる雰囲気に包まれて参ります。
そう考えると三月ってなおざりにされているよなぁ、と思います。
ちなみにですね、「なおざり」と「おざなり」は誤記ではなく、別の言葉です。大体同じ意味なので間違ってつかっても問題ないですけど、「おざなり」のほうが短期的で影響する範囲も小さいと思っておけばいいかと。
四月が近づくとはようはようと手招きする様は、じつはどの月よりも待ち望まれているような気もします。
実際、この時期を境に世間の景色も花が咲き始めるなどして、様相を変え、急に世界が明るくなったような気すらしますから、日本が4月を新年度初月としているのは、事始めの験担ぎとしてはいいものだなと思います。
これが巷に言われるような、海外に合わせて9月を入学式にするなどの流れになると、少し様相も変わってきますよね。
長らく親しんだ桜の季節に新しい生活と人間関係が始まるというのは、人がまるで季節とともに成長してゆく植物に例えることができるという点でも、日本人の情緒的な部分に密接に関係してきたはずですし、今更変えるとかどうもしっくりこないなぁ、とお思いになる方も多いと思います。
なんせ100年このパターンだったんですから。
え、その前ですか?
その前は9月入学だったんですよ。大正10年までですけどね。でもこちらも大学創立期からですから40年という歴史があって、結構長かったそうな。ですから明治時代なんかの学校入学(いわゆる学校とされる場所は皆9月でした)を映画やドラマで描写するときは春ではなく秋でなくてはなりません。なんか私たちの中では、入学=春=桜色、みたいなイメージありますよねぇ。
この秋入学、秋卒業がなぜ今になって取り沙汰されるのかと言いますと、ずばり「グローバル化」で海外とのギャップをなくそうということだそうです。(とりあえず大学だけね)
そのほかのメリットとしては、高校卒業から大学入学、大学卒業から会社就職までの期間に、ボランティアやインターンシップなどの経験ができるとのこと。まぁ、半年フリーな時間があれば普通はバイトにいそしむでしょうけどね。
しかしなにより社会制度との連携というのがなによりの問題でして、実のところこの春入学制が採用されたのも、政府の会計年度に合わせるという事からだったそうです。お国の事情に合わせたわけですね。
その感覚ですべてが――つまりあらゆる業界が春に納め、春に始めを踏襲してきたわけですから、今更それが変わるとなるとさあ大変なこと、とは想像つきます。
私としては、グローバル化することがそんなに有意義なのかと、単純に思います。
なんせ、まず、日本の教育がグローバル化してないんですから。
大学になって急に国際化だ留学だなんだと、いったところで、中学高校とまるで社会の勉強もしてないし、英語だってしゃべれるような教育を受けてきていない。
普通みっちり六年間外国語を勉強すれば、誰だって喋れるようになりますよ。
あれだけ日本史やら世界史やってりゃ、社会のこともっと知ってますよ。
世界共通だとか、国際基準だとかいう前に、まず日本人は世界に出られるのか? ということはよく思います。
無論私も含めてですが――いや、私は出ませんけどね。
私は、日本の独自性や箱庭的な情緒的趣味って好きですけどね。
なんなら、外国人が日本に来るために努力して、日本語を習得して日本の慣習に馴染んでほしいものです。
そういう特別な国であってもいいんじゃないですかね。
国花である桜を節目にすべてが始まる国
そういうの、国として大切にすべきことだと思いますよ。
外様だから暢気なこといいますけどね。だって、関係ないもん。
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