別にクリスマスだからといって、特別なことがあるわけではない。

クリスマスといえば思い出すのが1914年のイギリスとドイツの間で起きた、一部の将兵らによる『クリスマス休戦』です。
これ、何かといいますと、互いにクリスマスを祝おうと、この日ばかりは敵味方関係なく、戦死者の合同葬儀をし、歌い踊り、スポーツに興じたり、記念撮影をしたり、となんとも微笑ましい奇跡のような一日があったそうです。
それらは公式に画策されたものではなく、自然発生的に睨み合う両軍が休戦に入ったのです。
当然ながらこれは戦域全体に伝播したわけではなく、ごく一部で起きただけで、軍上層部はこれを厳しく批判しましたとさ。
無論次の日からは当然のように殺し合いを始めたわけですけども。
クリスマスは楽しいものだ。平和であるべきだ、という人々の思いが結実した形として、後世に語り継がれているのですが、後にも先にもクリスマスにより休戦が行われたのはこれだけです(のはず)
ま、なんですか。仕事とプライベートはきっちり分けるって言うんでしょうか。
しかし、交流している間、彼らは戦争が馬鹿らしいものだと感じたのではないでしょうか。
なぜ殺し合わねばならないのか、と。
塹壕に身を潜めて対峙している時は、ただの敵同士。その時彼らは相手を互いに打ち倒さねばならない相手だとしか感じていません。人間ではなく敵の人間だからです。
敵とは何か? それは主張の違う相手です。
戦争とは互いの主張が相反し、まかり通らなくなり、話し合いでは解決ができないと判断された時に発動する、外交手段です。
要は国と国、国家の主張同士の戦いです。
その戦力として、国土に住まう一個人が利用されます。
ただ、主張が通らず、主権を奪われるようなケースになった場合、最悪の場合侵略を受け、国家はもとより、個人にも被害がおよびます。ですから個人もその主権を奪う対象を敵とみなさねばなりません。
もしも全世界が譲り合い、互いを思いやり、慮る事ができたならば、戦争は起こり得なかったかもしれません。
それができればさぞ良いことでしょう。
そんな理想は起こり得ないでしょう。
奇跡のクリスマス休戦は、美談として語られますが、実際のところは「互いに嫌気がさして、兵士として自暴自棄になった」というだけではないかと思います。言い方を変えれば若い兵士らの「悪ふざけ」だったのではないかと。
しかし、そこに平和の可能性のようなものが見えるのは、やはり我々が同じ人間であるからだと考えます。
立場の違い、主張の違い、それはあります。あって当然です。
男と女ですら、絶え間なく諍いを続けます。互いを敵だとすら言い、罵りあいます。
これほど近くに、それほど近くにいる人間同士ですら、解り合えない。利害をもってしか妥協点を見いだせない。
これでは国家間の外交と、国家間の戦争と何が違いましょうか。
理解というのは難しいものですし、とても長大な時間がかかるものです。
それこそ、途方もないと言っていいほどに。私はそう思います。
そのためには何度も何度も話し合わねばなりません。
感情を殺し、議題を据え、議論を尽くし、理解し、認め合わねばなりません。
単に好き合っている男女が一緒にいるというのは、微笑ましいことではありますが、しばしばそれは単に都合の良い者同士がいるだけ、ということがあります。自身にとって心地が良い、だから好きなのだ、と。
しかし、私たちは、ただ好きを主張しても、何をどこをどのように好きかを主張しようとはしませんし、自身の立ち位置を変えることなく、また変化を想定することなく、同じ視点で、ともすれば非常に狭い視野でしか相手のことを見ようとしません。
そのような関係性の場合、双方の、あるいは一方の利害関係が瓦解すれば、その者達はもはや一緒にはいられないのではないかと思います。
私は思います。
互いの理解を深めるには話し合いが必要だと。
話し合いを続けるには愛が必要だと。
諦めない愛。我慢する愛。耐える愛。
人間はその愛をどれだけ相手に与え続けられるか、そしてその行為が継続できるか。
いつかはそれが報われるのか、というと、多分、永久に報われることはないと思います。
なぜなら、あなたの最も近くの人との理解が得られたとしても、次はあなたにちょっと近い人と理解を深める機会に臨むことになるからです。
もしも世界の人々が、それぞれ周囲の人々との理解を深めていけたとしたら、きっと世界は幸福になるでしょう。
そしてそれは、きっと楽しくて、とても希望的なことだと思うのです。
メリークリスマス。
我々はあと何度、クリスマスでこのようなことを考えるのでしょうか。
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