巌流島の決闘

2017. . 13
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一時退避しております。とりあえずエンジン積んじまおうかと。

なんか平和すぎてネタにならんよなぁ。

という訳で、今日は何の日を探してみますと、旧暦の4月13日が、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘した日、とされておるようです。
ま、誰でも知ってる巌流島の決闘ですが、一部では『決闘の日』とされているそうです。

この巌流島ですが、もともと決闘までは舟島(現・山口県下関の無人島)と呼ばれておったそうで、巌流島となったのは佐々木小次郎が没してからだそうです。
というのも巌流島の巌流というのは、佐々木小次郎の起こした流派の名前であるとのこと。

ちなみに、決闘の時期が1612年という事で史実に合わせてみれば、当時宮本武蔵は20代、佐々木小次郎は60歳近かったも70を超えていたともと言われており、我々が思い浮かべる決闘のイメージは少し違うようなことになります。
当時の寿命を加味すれば、今の感覚で言うと30歳代の脂の乗り切った男が、棺桶に片足突っ込んだ老人とやりあったという感じで、かなり微妙な絵面になってまいります。

また、小次郎が一人だったのに対し、武蔵は弟子を加勢させたという話もあったりして、ますます怪しい話になります。

で、武蔵が著したと言われている『五輪書』ですが、オリジナルは焼失したらしく写本しかないそうですが、この巌流島での決闘に関しては、何の記述もないそうで、武蔵自身がかの決闘を恥だと思ったか、どうでもよいほど軽いものだった(要するに小次郎は相手にされてなかった)という風にもとれてしまいます。

宮本武蔵の話では、ハイライトのような巌流島の決闘ですが、我々のイメージはのちの伝記や演劇などによる創作の影響が強く、勝った方、つまり武蔵側が「正義」としなければお話にならないため、小次郎は『悪者』か『嫌な奴』に書かれることが多かったというのは、勝てば官軍という、もう仕方のない話です。

ま、私は舟島が、決闘後に地元の漁師たちから巌流島と呼ばれるようになったという事実だけでも、おそらく小次郎に『義』はあっただろうなと。でなければ勝った武蔵に関する名が冠されていてもおかしくないわけです。

ま、単に敗者を弔うという心意気がそうさせた可能性もありますが、いずれにしても武芸者として名を遺したことには変わりなく、命を賭した価値はあったかと、まあそんな風には思います。


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