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ワーゲン四方山話その19 「若者とワーゲン」

2015. . 01
早いもので8月でござんす。

この半期何にもなかったーというわけではございませんで、まあ、色々とありました。
それをいまさら羅列したとこでしかたないのでやりませんが。

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またバイク触ってる、とか言わんといてください。
これは仕事ではなく、趣味です! ……あれ?

というわけで、八月ぅ







えー、昨今よく言われる「若者の車離れ」ですが……もう、言うのやめます。
よく考えたら若者は車離れなんてしていない。

笑い話ですが、商売人は天気の話から仕事の話に入ることがあります。これは景気は天候や自生により左右されているということを暗に示唆しているのですが、たとえば五月なんかですと「月初にゴールデンウィークがあったから、行楽シーズンだし外に遊びに行っている。今月は厳しい」とか六月は「急に暑くなって体力奪われるから出不精になる」とか、七月は「梅雨で雨続きで」などと、お客が来ない理由付をしたがります。
無論、八月は「暑すぎて誰もワーゲンに乗らない」といいます。

まあ、自分は一生懸命やるつもりですが、仕方ない理由を何らか探さねばやってられないというのが本音なのです。

そういう理屈と同じく車業界でよく引き合いに出されるのが「若者の車離れ」です。

これには一定の説得力があるのですが、実際かなり危惧しています。
どのくらい顕著かと申しますと、新入社員が車の免許を持っていないということに最も顕れているかと思います。

我々の頃は、とにかく就職前には免許はとっておかなければ、のちのち取得する暇がないということもさる事ながら、企業に採用されるかどうかの瀬戸際で、同程度の評価で免許を持っている人間と持っていない人間ならばどちらが選ばれるか、ということを勘案してみれば運転する気がなくとも免許を取得することは必須と言えたわけです。

無論日本国内にいればレンタカーはもとより、カーシェアリングもありますし、公共交通機関を駆使すれば何ら移動に困ることなどありません。

ですが、車というのは単なる移動手段ではないからここまで成長できたのです。

で、冒頭に言いました、若者の車離れですが、そもそも若者は車に興味がないのだから車に近づいてすらいないわけです。最初から眼中にないといってもいいでしょう。
でなければ、「本来若者は車に乗るものだ」あるいは「車に興味を持つものだ」と暗に示しているということになります。

よござんしょ。

そこまで言うなら、なぜ若者が車を欲するべきなのかを考えましょう。

文明社会に生きている者ならばいずれなり乗り物には触れるわけです。乗り物でなくとも人は移動を欲する生き物です。生まれたベッドの上で老人になり死ぬまで過ごす人はいません。
ハイハイができるようになれば部屋じゅうを、歩けるようになれば家中を、走れるようになれば町内を駆け回り、自転車に乗れるようになれば隣町の友達の家にまで行き、バイクに乗れるようになれば隣の県、あるいは日本中どこにでも行きます。

つまり個人が所有する移動手段の最上級が車となります。この話は何度かしているので、聞いたことがある人もいるかとは思います。

少し違う観点から考えましょう。

自分で移動ができるというのは自立性を表します。一人で立つ、一人で歩く、一人で自分の判断で移動する、道のりや時間を計算する、と同時にコケても自分の責任、道を間違えても自分の責任、時間に遅れようがやはり自分の責任、事故などを起こしても自分の責任、乗り物の故障も自分の責任。

人間の自立性とはこの責任という部分に集約されるとも言えます。言葉を換えればリスクですが、リスクを背負う覚悟がない人間は何も出来ません。そもそも生きていることそのものがリスクなのですから。

ですから自身の責任下において運用する乗り物というのはリスクであると同時に自分自身の拡大した擬似身体とも言えるのです。
バスの運転手はあの巨体を自身の責任下で動かしています。
飛行機のパイロットも同じく、複数人の責任下で巨大な体を動かしています。

車というのは個人が所有し完全に独立して運用できる最大の体です。
それを動かし維持するのは相応のリスクとコストがかかります。
いわば、個人に許された可能性の範疇ということです。世間が個人に対し(ほぼ)無条件で認めている権利なのです。

車もバイクも運転しない人はその権利を行使していません。当然ながら経験できるその分野をしないわけですから、そこにおいての成長は望めません。

文明人である限り車には触れます、嫌が応でも。

それらをまるで知らない、知ろうとしない、知りたくもないというのであれば若者の将来が危惧されても仕方がありません。個人の可能性を追求してさらにその先の可能性を見据える。そうして文明人は進んできたはずです。
あまりに普遍的なものに対して、目先のコスト、目先のリスク、それを勘案する前に、まず経験したいと思うのが人間だと私は思います。

責任が発生したとて、負う気持ちがあれば何も怖いことはない。
コストにしてもそれ以上を賄えばいい、今よりも稼げばいい。
リスクに対してより慎重に回避するように心がければいい。

私は、車を所有し運用するということはいろいろな事を勉強できる、実に合理的な機会だと思っています。車は社会との接点でありますから、嫌でも付き合わされます。
例えば自動車税、例えば重量税、一体どこが徴収して何に使われているか?
例えばガソリンの値段、どうやって決まっているか?
どの道はどこにつながっていて、どれほどの距離で、どれほど走るのか、自分の実感として持っているかどうかは非常に大きな問題です。

家に閉じこもり、外に出るのは買い物くらい。お笑い番組をテレビで見ながら、毎月の給料と生活費をすりあわせてただ生きているだけ。
一生それでいいなら構いません。免許も車も要らないでしょう。

ですが、それではあなたは社会からも必要とされなくなるかもしれません。
ただただ、車が抱えるコストとリスクに怯え、殻に閉じこもり何も見ないふりをする。
100年以上の歴史を持つ自動車がこれほどまでに個人の可能性を提示してきているというのに、です。

まあ、それでも乗らない人は乗らないんでしょう。

いいです、車には乗らなくてもいいです。

ワーゲンに乗りましょう。



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