かっこいい大人になろうぜ!

2014. . 31
もう、年末。

もう2014年が終わり。 早かったなぁ・・・(遠い目)

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塗り塗りしたあとのカルマンギアコンバーチブル。

永遠の憧れとも言うべき、ワーゲン界の美女でありますな。
「~の美女」などという場合、得てしてその世界でしか通用しないことがおおいにあるのですが、ことカルマンギアに至っては、車を知らない人が見ても「美しい」「かっこいい」と言わしめる芸術的なスタイルがある、と確信しております。

さて、いつもどおりほっておいたらブログの更新をサボる私が、年末恒例の年間振り返りボヤキをお送りします。

今年一年、うちによく来る人は聞いた話もあるかと思いますが、私の今年を振り返ってのテーマというか、心に引っかかったのは「かっこいい」とはなんだという話です。

近頃の若い人はとかく自信が足りないなと思うことがあります。それがどこか覚めた諦めにも似たものになっていると思えます。ですんで、今回は少し説教臭いですが、読みたい人は読んでください。

 そもそも、世の中にはかっこいいものとかっこよくないものがあり、それらは平等ではないことが多い。
当然ながら、かっこいいもののほうが高い地位にあり、称賛される傾向にあります。
たとえば、かっこいいものは頼んでもいないのにバレンタインデーにチョコなどをもらえたりします。
対して、かっこ悪いものは、頼んでも拝み倒してももらえません。

かっこいいものは人気がありますが、かっこ悪いものは人気がありません。

かっこいいものは羨ましがられますが、かっこ悪いものは疎ましがられます。

しかしながら、この「かっこいい」と「かっこわるい」はどこに線引きがあるのでしょうか?

 
以前にこういうことがありました。とある女性と街を歩いてデートしてた時です。小腹がすいたねと、とある店に入りました。

そこは、カウンターだけの老舗の店舗で間口も一間かそこらくらいしかない、とある餃子の専門店なのですが、昼間から営業しており餃子をあてに、ビールや焼酎など軽く呑めるような昔ながらのスタイルを踏襲しているお店で、がっつりそこで呑むというスタイルはありません。いわば一杯居酒屋です。
まあ今時でちょっと知っていれば「通ぶれる」飲み屋とも言えましょうが、大通りに面しているため意外にメジャーです。

我々が入った時に、奥の方で70代くらいの老夫婦と思しき男女が着席しておりまして、私の方もカップルでしたから「ああ、ああやって年を食っても夫婦で呑みに来るなんてのはいいよね」と話していたものでした。
私は呑みながら、ちらちらと老夫婦を観察していたのですが、婦人の方は呑んでいないのか上品で落ち着いた雰囲気、方や男性の方はロマンスグレーで赤い革ジャン。渋い爺さんだな、とファーストインプレッションでは感じました。
しかし、なんか不釣合いだなと、感じましたのでさらに観察していると、妙にその革ジャンが新しい。昨日おろしたのかとも思えるほど。しかもライダース。
革ジャンを着たことのある人なら御存じでしょうけども、特にライダースなどは着古して何ぼという所があります。着慣れていないと体にフィットしないので一朝一夕で革ジャンは着こなせません。長年愛用しなければ馴染んでくれないのです。
ところがその爺さんはそうではない。

爺さんは泡盛を頼んだ。少し酔っているように見えた。どうやらこの店に来たのは初めてで、気に入ったというような美辞麗句を何度か店主である中年女性に告げている。それを聴いて連れの老婦人は苦笑いをしている。
ここの泡盛は甕(かめ)の様な容器から注ぐので銘柄は判らない。だが私のいるところからはカウンターの中が見えるので、汎用業務用の無銘の泡盛であることは一目瞭然です。
通常、このようなスタイルの店で酒の質をどうこういうのは野暮で、別段ポリシーをもって提供しているわけでもない。そもそも餃子屋なのですから、酒は添え物なのです。
ところが爺さん、泡盛を口に含んだ第一声が「この泡盛はどこのだ?」です。戸惑う女性店主。
大体泡盛といえば沖縄だろう、と私は心の中で突っ込んだのですが、さらに爺さん言ってはいけないことを言う。
「この泡盛はいい泡盛だ、うまい。(俺には判る)」
少しろれつが回っておりません。
女性店主苦笑い、他の客も無言、じっくりそれを聴いていたワレワレカップルは顔を背けて笑いをこらえるのに必死。

爺さんが汎用業務用泡盛の評価をどのように捉えても別段構いはしないのだが、どうも爺さんの頭の中では「この店のような老舗の佇まいで提供される酒なら、よい酒なのだ」と考えている節がありありと見て取れる。

どうしても笑いが止まらなさそうだったので、我々は早々に席を立ち店を後にしたのですが、その後二人で背景を推理してみました。私の連れの女性が気になったのは老婦人の方で、眼差しやしぐさが長年連れ添った妻のものではないと断定。しかもさほどに知り合っていない。ほほう、女性ならではの視点だなと感心しました。
ならばあの老カップルはどういう関係? となる。

我々が河岸を変えて喧々諤々と話し合った結果、導き出されたストーリーは以下のようなものでした。

互いに伴侶に先立たれ、寂しいもの同士、いずれかの出会いの場で、あるいは老人会で知り合ったのかもしれない。
デートと洒落込んだ爺さん、普段話していた、かなり尾ひれの付いた武勇伝「昔は俺も悪かった」を裏付けるべく、ワイルドなチョイ悪爺を演出。
俺は通好みな穴場を知っているとばかりに、カウンター席のみの餃子専門店へと誘う。酒の事はよくわからんが呑み慣れていない事を悟られる、とワイルドの一角が瓦解するのを恐れ、ついぞ口にしてしまったのが先の台詞。

一生懸命さがひしひしと伝わっておりました。
そして、なまじ齢を重ねているだけに痛い。

その後にこの老カップルがどのような顛末を迎えたのかはわかりませんが、昼間の段階であそこまで酔っていたら、たぶんその後はダメだっただろうなぁ、と思います。

爺さんの最大の失敗は、自分の外形を外部の客観的価値に依存してしまったことにあります。
どのように見えるか、魅せるかという事を意識しすぎた結果、自分を見失ったのです。

無論ながら彼の中身がどの程度ワイルドだったのかはわかりません。ただ、少なくともにわか作りであったことは誰の目からも見透かされてしまったでしょう。

残念なことに、爺さん自身が客観的な審美眼を持ち合わせていなかった、そしてその経験や知識を積み上げてこなかった。
年齢を重ねると失敗や錯誤はより恥ずかしいものになる。例えば漢字の読み間違いなどはかなり恥ずかしい、と感じる人が多い。また、マナーやエチケットに関しても最低限押さえておかなければ笑われる。しかし困ったことに大人は同時にプライドも積み上げてきているから、容易に訂正できない。周囲から注意も出来ないのであります。

誰も何も言わないから正しいのだろうと判断するのは危険で、自身の立場が強固で上位にある者ほど気をつけなくてはなりません。誰からも何も言われないような立場の方はよほど立ち振る舞いに気をつけなければならないし、知らない判らないことははっきりきっぱり「知らない、わからない」と言わねばあとでドツボにはまります。
それを回避するためには勉強して経験をして、内外ともに充実させるしかありません。

別に何でも知っていなくとも構わないと思います。
出来ない事や知らない事があってもいいと思います。
かっこつけるのも悪くはありません。
けども、嘘はいけません。

だから実際に経験してみるのです。やりたいと思ったことをやってみる。それにより、やった人とやっていない人の違いが見える。やったからこそ言えることが見つかる。やっている自分の姿を客観視でき、その対象への審美眼が養われ、真贋が見極められるようになる。深く深く追求すればなお、経験値は上がる。容易に他からの追随を許さなくなる。

その結果、自信が付き、尊敬されるようになる。 これがかっこいいという事です。
かっこいいを得るには時間もお金も手間もかかります、故にそれらを惜しむ人はかっこいいの領域に到達できずに、中途半端と言われます。

かっこ悪いを何年も続けているうちにその分野でエキスパートになり、かっこいいに転じることも往々にしてあります。誰も最初からかっこいい人などいないのです。

もし最初からかっこいいと言われるのだとすれば、それはその人の本質に言及しているのではなく、その人の外形や社会的な立場という本人のあずかり知らない部分が見られている結果なのです。逆に言えばにわかでかっこいいと他人に
言わしめることも可能とは言えるのですが、できればやりたくはありませんね。あとで自分がしんどくなりますから。

私は男ですからこのような言い方しかできませんが、大したことが出来なくても自分に嘘をつかなければ自信を持ってもいいと思っています。すごい人だけが自信を持つことが出来るというのは間違いです。何か特殊な能力のある人だけが自信をもって大きく言えるというのも違います。

なぜなら自信とは人にひけらかすものではないからです。
それは、家屋における大黒柱のようなものです。外から見えることはありませんし、意識して生活するわけでもありません。
心にそっと据え置く、そのようなものです。

どんな美麗な外観を持つ家でも、倒れてしまえば元も子もありません。
そしてそんな家にはだれも住みたいとは思いません。

人の自信、それは長年の風雪にも耐えた実績という信用性が自ら相対的に生み出すもの。
人のかっこよさ、すなわちそれは培った信用をもとに未来への希望を託せると信じる心、つまり信頼。

我々は未来に進まねばなりません。立ち止まり諦めるようにはできていません。
だからこそ、自らを研鑽しよりよい人生となるべく努力し続けなくてはなりません。
そして、今しか出来ない事、今やりたいことを、極力実現できるように仕向けてゆかねばなりません。
いま、脚光を浴びている多くの輝かしき人々は特別な人ではないのです。やりたいことをやった結果、その思いが実現したに過ぎないのです。

私は、もっともっと多くの人が自信をもって生きていく世の中になればいいと思います。
そして、我々大人は、若輩から笑われないように、憧れられるような男、女にならなければならないと思います。
あんな大人になりたい、あんな男になりたい、あんな女性になりたい、そう思われるように、やせ我慢をしてでも頑張ってゆきたいものです。

本年もヘルムに関わっていただいた多くの皆様、大変お世話になりました。
これをもって、末のご挨拶とさせていただきたく思います。

また来年もココロの花が枯れないように、楽しいことをしてゆきましょう。
私はそんな皆様のお手伝いができることを切に望んでいます。

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