すんゲー、久しぶりに天頂痛心書いてます。
まずは近況報告をば。
えーと、ご存知の方もおられるかと思いますが、一人いた従業員が退職し、再び一人親方に戻ってしまいました。

とか言いつつ、「ハーレースポーツスター311号」ができました。調子いいっす。
日本最大級の災害から復活。 私に出来ることなんてこのくらいしかございません。ぽぽぽぽーんですよ。
ま、冗談じゃないんですが、実際問題被災地の復興というのは大きく遅延しておりまして、皮肉な話なんですが円安に転じて景気が上がり、デフレーションが解消すると資材関係、人工代の価格上昇が起こり、いわゆるお役所の予算と折り合いがつかない状態になり、工事が進捗しないといった事態に陥ります。
不思議なんですが、あの当初集まった莫大な義援金というのは、もう使っちまったんでしょうか?
三年というのはひとつの節目で、いわゆる三日、三週間、三ヶ月、三年といい、良い意味でも使われますが、三日坊主などというように、人が見切りをつける基準になることも珍しくはありません。そういう意味で、三年間というのがひとつの忘却の基準ともなり得るわけで、三年を節目として過去ともなるわけです。あとは同じようなものです。四年だろうが五年だろうが。
世間のお子達は夏休みに入ってウキウキしている真っ最中でしょうが、この三日くらいですべての宿題を終えて、あとは自由研究を残すのみとかいう出来過ぎな奴が漫画だけじゃなくているものですが、たいていの凡人は「三日で終わらせてやるぜ!」と息巻いて三日後には「ま、あと30日はあるし、ちょっとくらい遊んでもいいか」となるものです。
私なんぞは最後の三日間は常に缶詰でしたがね。
いやはや、仕事も段取りよく、先々見据えてゆかねば成すものもならぬと、夏は暑いなと、早く帰ってビールが飲みたいなと、誘惑にかられながら、もうひと仕事。「キャシャーンがやらねば誰がやる」と心に念じながら、私はキャシャーンではありませんが頑張っております。
でぇ、夏休みの宿題ネタで、こんなのあったのよ↓
夏休みの宿題代行業というのがあるそうです。夢のようですね。
ええ、夢のようにダメな教育環境が出来ちゃってるっていうか、現実にそんなことやってる奴いるのか? っていうと、これが大儲けらしい。
要するにええ歳こいた大人が子供の宿題を有料で消化してやるっていう仕事で、要するに金渡して他人に宿題やってもらうわけで、宿題という本来の意味を成さないことは明明白白と。
これ、まともな親なら絶対許さんだろう、と思うだろうけど、まあ私も思います。
面倒なので先に結論言うと、学校ごときの低レベルな宿題をやっている時間があるなら、塾や家庭教師に充てる、と。学習戦略なんですな。
なるほど、合理的だわ。金で解決ってのも綺麗でいいかもね。
いわば、我々の世界で言う“下請け”業者さんでしょ?
おしゃれな言い方したら、アウトソーシングでしょうか?
ただ、この下請けさん、受け取った宿題を名簿業者に売り渡すようなことはしませんで、きっちりがっちり仕事します。値段も相応で、小学生の宿題から大学生の卒論まで、お値段は上から下まで。現役の大学生や院生やプロフェッショナルが担当し、さらに個人の筆跡や癖までも再現するそうで、子供の質によっては程よく間違うという小ワザまで駆使するそうな。
ただまあ、ここまでやると詐欺っぽい空気も流れてきてしまいます。
なんに対する詐欺かっていうと、その子供の友達とか先生とかに対する道義的な罪が発生するんじゃないかなーと。
しかし、あれやね。それでも夏休みの宿題は「やり終える」ってところがお利口さんの考えそうなところで、宿題自身に「意味がない」としておきながら形式的に「終わらせる」ところに本当の意味のなさを私は感じます。
学校の宿題に意味がないのであれば、意味がないと感じているのであれば、そんなものはやらなければいいんですよ。意味がないからうちの子には宿題を出さないでくれ、と学校に直談判してもよろしかろう。正当な権利ですよ。
少なくとも、やってないのにやったふりをしているよりまし。
それでも宿題代行に頼みたいなら、「無駄なので代行業者に頼みました」と一言添えて提出すべきだろう。それで筋は通せる。
大体、学校の授業ですら「レベル低すぎて意味なし」と言っている家庭が多いわけで、それならじゃあ、学校に通わなくても最低限の単位取得で卒業証書を書いてくれる学校法人にかよえばいいんではないかとも思う。入学試験は試験なんだから、アタマさえ問題なければ大学には入れるんでしょ? で、いい会社に入って、幸せな家庭も築ける。
何度か言ったことですが、私は夏休みの宿題を終わらせることができない子供で、こんな量できるかっ! って思って毎年の夏を過ごしていました。量が多すぎるんですよ。もちろん四十日弱ある中で割れば相応なのでしょうけど、これをあと一週間で終わるわけがない(つまり、すでに夏休みは終わりに近づいているわけね)と、そこで私は思ったわけです。
先生だってこの計算ドリルの答え合わせをするわけがない! と。
つまり先生の見る量は、「個人の宿題量×クラスの人数分」 ということですから一週間徹夜したところで見られるわけがない。だから、結論「先生は細かいとこまで見ていない」はずだと。その理屈をモノにした私は、答えが合っていようが間違っていようが、とにかくマス目を埋めて、空欄がないことに専念して宿題を終わらせるという方法を編み出してしまった。
ですからこんな大人になったのですが、まあ、過去は取り戻せません。
宿題代行を頼むことができる経済的余裕のある親御さんは結構なことでありますでしょうし、せっかく大卒や院卒のキャリアがあるのに一般社会に出たら、クズ扱いされて学校の知識なんて屁の突っ張りにもならんってことなら、勉学に励むお子様のキャリアアップに助力していただくのも大人としての使命かもしれませぬ。
いやはや、合理的な世の中になったなぁ、と思い思い、子供には優しい時代になったなぁと考え耽る今日この頃。
頭も体も弱くなってゆく子供を見てると、こりゃあ大人の責任ってでかいぞっと思うわけで、現在年金やら保険料やらの維持継続のために産めよ増やせよと政府が推奨している子育て支援政策も、実のところ数十年後の国会議決で「役立たずの老人にはさっさと死んでもらいましょう」と、年金保険制度なんぞ消え失せてしまう可能性だってあるわけです。
なぜかって?
自分が生きてゆくために必要でも何でもない不合理で不条理な存在だからですよ、他人とは。
だから、前世代の我々大人は今のうちにお金を稼いで、せいぜい死ぬまでの蓄えをしながら、不合理と不条理の飽くなき消化に努め続けるべきかと。その後にはきっとお利口さんたちの平和な世界が広がっているのですから。
良かったですね。明るい未来に乾杯です。
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