ワーゲン四方山話 その13 「ワーゲンとミッション」

2012. . 10


ミッションといっても、総統閣下から指令が下りてるわけではございません。

それはよいとして、いわゆる空冷ワーゲンの多くは一部を除きほとんどがマニュアルミッションと呼ばれる、手動変速装置によって駆動しています。この変速装置というものがなぜ車やバイクには装着されているのかと申しますと、すごく基本的なことを言うとエンジンだけでは車が走らないからです。

この話をエンジンからするとものすごく長くなりますから割愛しますが、エンジンというものは排気量によりますが、アイドリング時に一分間にだいたい500から1000回転ほどの速さで回っているもので、普通に考えると一秒間に13から16回転ほどまわっていることになるんですな。そういうものを仮に駆動輪であるタイヤホイールに直結すると、恐ろしいことになります。そのままタイヤが回るとしたら間違いなくウィリーしてまくれあがります。

そういった事がないように、というと語弊がありますが要するにまともに自動車として運用するにはエンジンと駆動輪の間に変速機あるいは減速装置というミッションが必要になるわけです。ミッションの正式名称はトランスミッションといいます。オートマだとオートマチックトランスミッションで、当然ながらオートマなりトルコンなりが出現するまではマニュアルミッションという言葉は存在しなかったんですな。

ミッションのことを減速機ということがあるのは、つまりエンジンの回転数を文字通り減速しているからで、少し難しい話ですが、エンジンから発生したパワーはたとえ減速してもロスはあれど、基本的には変化しません。
これをおなじみの馬力という言葉で表すと、とあるエンジンで50馬力を発生ものがあるとすれば、それは一分間に何回転かのエンジン回転数と、その軸にかかる回す力、つまりトルクというもので構成されており、回転とトルクを掛け合わせたものが馬力という形で便宜上示されているにすぎません。

ですから逆に言うと、同じ馬力の車体があっても必ずしも同じ速さで走るというものではなく、同じ性能であることとはノットイコールなのです。
少し脱線しましたが、ではエンジンから発生した馬力は減速機に入って減速されるとその分のパワーはどこへゆくのかと思いますよね。ちょうどこれは数学の因数分解のようなものです。
回転が減速されて減った分、その分はトルク(力強さ)として活用されます。結果は同じ馬力、というわけ。

まあ本来は発想は逆で、トルクを稼ぐために回転力を利用して減速機に放りこむのですけどね。それはなぜか?
車やバイクというものは停止状態から発進するときが最も力が必要です。ですから回転を殺してでもトルクでまず車体を動かさなければいけません。低速ほど回転数が上がるけどスピードが出ないなんてことはどなたも経験おありかと思います。

ですが力強く走りだしてもスピードが出ないのではなにをかいわんやでありますから、ここで変速機(減速機)が登場します。一速で走り始めた車体は停止状態よりも力は必要がなく回転数が高いレンジにシフトができるようになります。今度は1速よりもトルクが薄くて回転が高いギアにチェンジするのです。高速になればなるほどギアが上がってゆき、トルクはあまり必要がなくなってゆくので、本来のエンジンの軸出力の回転に近づいてゆくという寸法です。こういった事を段階的に行うのがシフトチェンジというものです。そしてそれをドライバーの感覚で変化させてゆく機構を持つ車がマニュアルミッション車というものです。

やっぱり難しい話です。

最近はオートマチックが主流になりつつあり、マニュアルを選択すると社会的に不器用な人か変態だと思われがちな世の中ですが、私的にはオートマ一辺倒に走ってゆく車の業界は実に危ういなと感じております。
オートマ特有の事故として、レンジがDに入っているとクリープ現象で無人の車であっても勝手に動き出して人を轢くこともあれば、単純にアクセルを踏むだけで前に進んでしまう機構はブレーキと踏み間違えて壁や店舗に突っ込むなんてことも起こります。それに国産車であればほぼ右手右足あるいは左手右足だけで操作するだけに余った手足でよからぬことをしてしまうことにより、運転に集中しない傾向が現れがちです。

オートマは誰でも簡単に操作できるのが実にいいところであり、回転数制御などが燃費に貢献していることも確かなので、あらゆる意味で車を多く売りたいと思えばオートマ化は避けられないのでしょうけど、その分車を運転する緊張感や高揚感、疲労感というものを感じさせないものになってしまった事は確かです。

そもそも楽して移動を旨とした自動車が、快適に移動を目指すようになって、さらにそれに付随するように安全に簡単に、と結びつき現在の車が作り上げられてきています。
今最も進化のスピードが速いコンピューターの業界からいいますと、究極のコンピューターとはコンピューターを操作している意識がない状態にまでシフトすることであり、道具とは人の一部のごとき自然とそこにあるという無意識レベルまでゆくことを求められます。それゆえに、道具の使い方を習得し、技術技量で操作をするという限られた人間だけしか扱えないものは過渡期にあると考えるのです。

 そういう意味でいくと、マイクロソフト社は常に遅れをとっており(もともとデスクトップアイコンなんて概念はマックの方が先、それ以前はコマンド入力をしてプログラムを操作してました)マックは常に革新的で、昨今のアイフォン、アイパッドなど商品を見ればわかることですね。

まして自動車においては操縦する人によっては事故がつきものという時点でまったくもってだめだめな道具であるとしか言えません。

これからこの先車は誰にでも乗れる乗り物になります。それこそスバルが採用している「アイサイト」といった自動的に障害物を察知し衝突を防ぐようなシステムが普遍化すれば、まずオカマを掘ることはなくなるだけに、極端なことを言えば居眠りしていても自動車に乗れてしまうことになります。

言わずもがな、自動化が進めば免許証なども必要はなくなりますし、ハンドルだって必要なくなります。最終的にはナビゲーションの情報だけを入力、しかもその頃になれば完全に音声認識だけで入力可能でしょうから、自動車に乗り込んで行き先だけを告げれば勝手に車が目的地まで運んでくれるという寸法になります。
 と、この記事を書いてる間にそういう車がモーターショウで発表されてしまいました。

ま、いわば、プライベートなタクシーであり、運転手つきの車を買ったみたいな状況が生まれるにすぎませんが。究極の車の形はそういうものになります。

ただ、人間は面白いもので、操作することに喜びを感じたり面倒事を克服することに意義を感じたり、他人にはできないことをやってのけることに甘美な快楽を感じたりする奇妙な生き物です。
それらがその人のアイデンティティであったり(つまり、買い物行きたいからお父さん車で連れて行ってよ、という)あらゆる意味で自己表現の一つであったりするわけで、高齢者がなかなか免許を返上して車を降りない(降りたがらない)というのも頷ける話ではあります。

 それでもここ最近から暫時的に自主返上数は増えてるようですが、そういった方々の経験の蓄積が生み出した技術の進歩が免許証の意義を薄れさせてゆくのは皮肉だなと思わないでもありません。
自動車の本来の意味は「自動で動く車」ですが、こういう時代になると「自分で動かす車」という意味で使いたくなったりもするものです。(ちなみに自転車は自分で回転させる、んですけど)
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