どーでもいい話ですが。

2011. . 30
最近書いていないので、てんちょ通信。

大阪府知事選、市長選、ともに終了いたしまして実質上大阪維新の会の独壇場となったわけで、まあこれが大阪府民の民意だろうなということは想像に難くなく。

結構大阪という土地は古来から何があっても揺るがない土地でして、大規模な災害で壊滅したこともなく戦禍もあまりかぶらず、いわゆるお上(京都)の隣でぬくぬくと自主運営、独立採算的な体質の土地柄で今まで生き延びてきた都市でして。それゆえ妙に独立意識が強く、昔から民間レベルでも大阪は別の国みたいな言われ方をしており東京に対して対抗心といいましょうか、方や首都であるにもかかわらずどちらかといえば上から目線な姿勢でおります。

そんな大阪ですから、いままでかなーり危機意識が低く借金は商売人の甲斐性とも言わんばかりの経営でのんべんだらりとやってきておったのですな。今まで大した変化をきたさなかった大阪府の行政に加担してきたのが古い世代の経営陣で、結果借金を未来に残すという負の遺産しか生み出さなかったのですから当然新しい世代に期待をかけ革命を望むのは何もリビアやエジプトだけじゃあござんせん。

というわけで当たり前のことをまた書くようですが、最近思ったことをつらつらと。
最近ふと風呂に入りながら考えていたことがあるのですが、やっぱり「サルからヒトが進化したのは嘘だよなぁ」ってことだったりします。唐突ですが。

一応工業系の話です、生物学でも宗教学でもありません。

サルとヒトの遺伝子上の違いは実際のところ5,6パーセントほどで、これを多いと見るか少ないと見るかはアレですが、(初期の研究発表段階では1パーセント未満とされていました)このまま研究が進むともう少し違いが出る可能性は大いにあります。

と、いうのも、私は毎日猫と一緒に風呂に入っているのですが、もちろん猫は湯船にはつかりませんが、彼の肢体を見ていると同じ構造をもつ別の生き物として見れば、これって『工業規格』なんじゃねーの?と思うわけです。いわゆる哺乳類という規格の中ではほとんどの生物が同じ構造で出来ていて、動いていると考えても差し支えがないと思います。その下位規格として爬虫類や鳥類、両生類や魚類などがあるわけで、それぞれはどこかしら哺乳動物よりも機構的に劣っていたり、未完成で不都合だったりすることが多いです。もちろん彼らからすれば完成形で種を変えずに子孫を存続させるためには最良の選択肢上で生きている訳ですが、えてして下位規格の大型のものは生き残りにくくなっています。

これを古代生物あたりから見ると、それぞれの種には隆盛した時代があり、代表的なものでいえば恐竜なんかがそれにあたるわけですが、今現在はあれほどの巨大な生物は存在しえません。生物はそれぞれ最も栄華を極めた時に大型化する傾向にあるとは言えそうですが、これは捕食、被捕食という観点を鑑みた時に、大型ゆえにヒエラルキーの頂点に自動的に君臨する、もしくは頂点ゆえに巨大化するとしかいいようがありません(ちなみに大気中の酸素量や重力の問題においても大型化はしますが、その条件は地上の動植物すべてに適用されますので)

で、まあその話はさておき。

恐竜が栄華を極めた時代にいわゆる哺乳類や被子植物といった新世代の生物は小型で細々と過ごしていたのでありまして、恐竜が絶滅するきっかけは諸説紛々あれどそういう絶滅危機を乗り越えるのに適した機能を持ち備えていたのが哺乳類であったと、いまのところそういう説が有力であります。

ちなみに私が考えるに、おそらくは恐竜の時代というのはかなり温暖な気候で曇りがちであったため、植物も日光をあまり必要としないシダ植物が生えたのだと思いますし、現在爬虫類と考えられている恐竜も冬眠という習性はなかっただろうと思います。故、地球を覆う雲が晴れると急激に気温の差が生まれ、気候変動が起こり、それに対する恒常性機能を育ててこなかった恐竜どもは耐え忍ぶことが難しくなり絶滅においやられていったと思われます。一説によると恐竜の皮膚には体毛か羽毛があったとされていますが、それがはたして体温調整のためのものだっかといわれると違うような気がします。なぜならそれに代わる哺乳類の隆盛が必要なくなるからです。(つまり古い規格が破棄されて生産縮小されるにはそれなりの理由があるということ。)

で、ここからですが。

生物にそれぞれの進化はあったのかということなんですが、あったと言えばあったしなかったと言えばなかったことになると思います。
生物の進化というのは種を越えてまでは進化できないジレンマがあり、爬虫類が哺乳類にはなりえないということに尽きます。爬虫類の中では進化はしてより効率のいい爬虫類が生まれるのも確かなのですが、あくまでそれは爬虫類の中で優れていて生存率が高いのであり、様々な環境に照らした場合は限界が来るということを示唆しています。
つまり、カローラはマイナーチェンジでどこまで行ってもカローラであり続けるのと同じく、カローラベースでモデルチェンジをしたところでカローラ系統の新型セダンにしかなりえません。それがオールラウンダーのパジェロになるわけではありませんし、スポーツ志向の強いスカイラインになるわけでもありません。

地球上の生物の進化なり進歩なりというのは、我々が普段触れている工業製品のようなものに置き換えて考えれば、ある時点から一つの規格が生まれてそこから研究されながらマイナーチェンジとモデルチェンジを繰り返した結果なのではないのかな、と思うのです。つまり、我々を含む脊椎動物らが『似ている』のは四肢があり、骨格と筋肉で筺体を支え駆動し、それに指令を与える頭脳があるという点で、つまるところ四輪車の大原則である、原動機が備わっておりその原動力で駆動する二輪と、操舵する二輪で構成されており、それを操作する人間が最低一名は必要とするといったことと同じなのではと思うのです。

そういう観点からそれぞれの種目を見てみますと、いわゆる水中活動に特化した単能型の脊椎動物といえば魚類にあたりますが水中のみで活動可能な身体能力は比較的簡単な構造で、人類も既に魚型のロボットを製作することには成功しています。彼らに四肢は必要ありませんがそれに代わる胸鰭、腹鰭、背鰭、尾鰭といった風に移動に必要な推進装置が付いております。

で、次の段階である両生類なんですが、こちらは幼生の間は水中で過ごし、成体になると陸上生活もできるという大変奇妙と言える構造をしています。思うにその当時の陸上環境が整っていなかったため、生存率を上げるために半水生のような生活をしていたとみられます。脆弱な幼生の段階では餌の豊富な水中ですごし、成体で陸上の動植物を捕食することで生物のヒエラルキーの頂点を極めていたと思われます。用途に合わせて可変機構をもつロボットのようでもあります。

次に来るのが爬虫類ですが、やっとこ水場から離れ本格的に陸上生活を営むわけですが、陸上を闊歩するには鈍重であっては捕食行動を制限される肉食系は脚力が発達し、被捕食者である草食系は巨体化し防御系の装備が発達、群れで行動するようになったと考えられます。しかしながらこれら大型爬虫類に共通するのはいずれも大型の尻尾があり、おそらくは陸上歩行するためにはこの大型の尻尾がなければバランスが取れず、歩けなかったのではないかと思います。その証拠に次世代の哺乳類には必ずしも尻尾が装備されてはいませんし、キリンのように首の長い動物でも尻尾は飾りのようなレベルでしかありませんから、明らかに身体機能が発達し、尻尾は不要になったのだと思われます。

ここで少しロボットの話をしますと。

人類もまた大昔からロボットというものを構想し、実際に制作を試みてきた工学の歴史がありますが、実のところほんの十数年前までは「二足歩行」が実現出来ていなかったわけです。今では人間と同サイズのアシモなどまるで着ぐるみのように自由に動いていますし、もう少し小型のロボットでも手のひらサイズのロボットでも二足歩行どころかダンスや格闘、サッカーまでもできるほど熟達しています。

一重にこれはソフトの問題と言えるのですが、何ゆえに二足歩行を目指すのかという点についてはあまり語られません。現在においても人型ロボットのメリットはあいまいで、人間に似たロボットが「なにか」をすることに価値があるという程度に収まっているような気がします。こういった技術が身体障害者の高機能義肢に応用されてゆくことも考えられますが、それが実現できるにはまず人間と同じ質量と重量のサイボーグが完成しなければなりませんし、反射速度反応速度も同程度のものが要求されるでしょう。

他に人型ロボットを運用するメリットとしては、人間が活動できない環境下で稼働することができるなどがありますが、これとて限りなく人体に近いスペックをもたなければ意味がなく、かえってその容姿がデメリットになる可能性だってあるわけです。つまり重量物をもち上げなくてはいけないような場面でも二足よりは四足、双腕よりは主腕二本に補助腕二本などといった昆虫のような容姿のほうが安定的ですし、パワーも出ます。要するに人間ができることをロボットができてもロボットの意味がなく、人間ができないことを効率よく人間の能力以上のことが可能という意味でしかロボットの存在意義がないということです。

いずれ研究が進めばソフト・ハードともにロボットの基本フォーマットが形成されてゆき、それを基本としたバリエーションのロボットが製作されるようにはなると思います。現段階はそれらがまだ統合されていないことと、ロボットを作るだけのコストとメリットが釣り合わないため低迷しているのだろうとは思います。

私が思うのは、生物もまたこのような「あるフォーマット」上で設計され制作されてきた産物なのかもしれないということで、進化の過程と見えるのは、技術の発展と言えるのではないかとそう思うわけです。

だからそれぞれの種に関しては一度ずつぶつ切り状態で連続性はないだろうなと推察しています。古い設計の生物は生存本能に従い環境適応しやすくするために身体を自ら変えていったというあたりでは進化ですが、爬虫類か哺乳類かはっきり判らないような中途半端なものは普通に生活するだけでもかなり生存率が低く、例えそれらがネズミのような小型のものだったとしても絶滅は免れなかっただろうと容易に考えられます。でなければトカゲの卵からいきなりネズミが大量に生まれたとしか考えられません。

だから、サルもまた壮大な同一フォーマットで設計製作された一つのモデルであり、その後の続く猿人や類人猿もまた一つのモデルで、最終的に覇権をつかんだのが現在のわれわれの祖先であると思われます。

いったい何がいいたいのかって?

いや、いつか人間よりも優れた次世代の人類が突然大量に現れて、世代交代させられるんじゃないのだろうか?なんてこともあながち否定はできないかなぁ、と。

人類が創ってきた機械や装置や道具の行く末を考えると、不要になったり代替品ができたり、小型化したり、自動化したり、しているものがほとんどだと思います。それって過去の古い規格の生物と同じような扱いなんだなぁ、とおもうわけ。

神はいるかって?

もしいるなら、たぶん古い世代の我々が淘汰されようという時でもあっさり見捨てるでしょうね。

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