こどもがほしい

2011. . 20
少し前ならこんなこと多分書かなかっただろうなって思います。別に私のところにコウノトリが来ないからというわけでも、来たコウノトリをその都度焼き鳥にしてしまっているからでもありませんが、今後子供を作る気はありません。
私のところは夫婦共々同じ考えなので何も問題はありませんが、子供がいる御夫婦からは「いるといないとでは違う」「やっぱり作ってよかった」「いなければこの気持ちはわからない」と言われます。

まあ、そりゃそうだろうな、と思います。
それを言えば、結婚だって趣味だってペットの飼育だって同じ事で、上記のセリフがまるでそのまま当てはまります。そしてそれに相対する当の意見も「めんどう」「金がかかる」「時間がない、よゆうがない」「自信がない」「重い」など、綺麗に当てはまります。

何かをやってみなくてはわからないことというのは世の中に随分あります。というかそのほとんどがそうであると言ってもいいでしょう。車を運転した事がない人に車に乗れというのと同じです。
ただ、こと男女関係、親子関係とはヒトとモノのような関係ではなく、相互に影響し合い変化してゆくものですから所有というのとはまた違うわけで、ある意味では気楽なものだとは思います、買ったら終わりというモノではないですし。

で、最近はよく不妊夫婦が増えているといわれる中、結婚したはいいけど子供がなかなか出来ないで家族親族までもを巻き込んで不和になるという本末転倒な現象も珍しくなく、そのような問題を回避すべく結婚前に「ブライダル検診」という主に女性の生殖器官を検診する動きもあります。要するに子供を生める体であるかどうかを最低限調べるということで、この場合卵子の状態であるとか排卵状況だとかなのですが、男性側の精子の質まではなかなか調べないようで、検診が無事だったからといって必ずしも子供ができるとはいえないのが現実です。この女性側だけを調べる動きという点を彼らはどう捉えているのかが今ひとつ私には理解しかねます。

ま、今回久しぶりに「だらだら長い&読む人によっては引く」ので従来からの読者で私の性質をよく御存知の方なら読むに耐えるでしょうけども、初めてこのページを開いた人はこの先は読まないでください。
昔は結婚と出産は本来は一つのものとして捉えられるくらい普遍的なものだったのですが、現代においては、「出来ちゃった」はむしろ喜ばしいことであると歓迎する向きもあります。ならばいっそ子供が欲しい夫婦になろうとしている二人なら「出来てから結婚」すればいいのではないだろうかとも思います。

ですからこれからは子供を生むか生まないかが最低限の結婚条件のひとつだと規定しなければならないかと思われます。無論ながらそんなもの結婚してみなければわからないとおっしゃる方は出来不出来のその覚悟もあるということなので問題はありません。
しかし、何が何でも欲しいっておっしゃる方はかなり真面目に考えなくてはその後の不幸が目に見えてしまいます。

では検診などで「不適」だと診断されたらそこで愛は冷めてしまうのでしょうか?
どう頑張っても卵子や精子に核がないとかいうのは子供ができる可能性がゼロなわけですが、そういった状況下でも結婚に踏み切る事が出来るのでしょうか?
無論現代のクローン技術を使えばいかにしても子供は出来ますが、今のところそれは認められていませんし精子バンクや卵子バンクで買えたとしても、それが自分の子供として認められるかどうかという点では大いに禍根を残します。

では、結婚とは一体何なのかと問いたくもなるものです。
わたしは、結婚はあくまで結婚であり、子供を作り子孫を残すための第一段階だとは考えないようにしています。無論ながら結婚する大抵の夫婦は子作りを念頭において結婚生活を営んでもおられるでしょうし、できることに対して抗うこともしないと思われますし、
おもえば懐かしい「明るい家族計画」なんて言葉は今思えば贅沢な話で、「出来すぎる」ことへの防御、警鐘だったわけです。いや、本当に明るいなぁ、と。

もっといえば、結婚相手が自分の意志とは逆に子供を欲しないという場合、結婚はするべきではありません。結婚したいというエゴイズムと子供が欲しいというエゴイズムが相克する場合、離婚や家庭不和というカタストロフィーを発症し、何らかの形で何処かの誰かがそのツケを払わなくてはならなくなります。

何の為に子供を生むのか、などと考える人はもはや子供を生むべきではないと思いますので私などの元にはコウノトリは寄り付きもしないわけですが、実際私からすれば、「なぜ子供がほしいのか?」と非常に不思議に思うわけで、そりゃあまあ、お国のためにすばらしい人材を育成するだとか、老後の自分たちの世話をさせるのだとか、そういった明確な理由があれば私もなるほどと理解が出来ます。

自分の姪御や友人の子供を見ると確かにかわいいなどとも思うのですが、失礼な言い方ながら、そんな私は犬猫に対してかわいいな、と思うのと同じレベルで感じているのではないだろうかと妻に話したところ「あなたは人としてどこかで何かを欠落している」と罵倒されました。

いや、これはなかなかいい響きでした。身もだえするほどに。
欠落している、と。

なるほど、そういわれてみれば私は子供の時からそれほど咎められて育った訳でもないのに常にどこかで親に対して「申し訳ない」という気分がありました。
自分が常に邪魔なのではないか、迷惑をかけているのではないか、と。
小学校の勉強などでも大してできるほうではなかったせいで、その点に関しては怒られるほうが多かったわけですが、唯一技術分野に関してだけは秀でていた為今の自分を保つことが出来ているとは感じています。
ただ、それが自分を保つ為のエッセンスにはなっていたとしても、劣等感はぬぐえませんでした。なぜなら結局は社会に認められるのは、いわゆる四教科にはじまる一般教養、つまり数値化される学歴であり、いくら画や作文や技術が得意でも、社会にはサブとしてしか認識されない事がわかっていたからです。
だから、小学校から高校に至るまで図工、技術、美術、文章表現に関しては常にトップクラス(というか文字通りトップを取れていたと思います。)を維持していたにもかかわらず親に対しても社会に対しても役立たずであるという申し訳なさをぬぐえなかった訳です。

そう考えていると子供に対する感情にもなるほどな、と思う事はあります。

自分が生れ落ちてきてそれほど感謝の念もなければ、生への希求もないわけですから、当然自ら新しい命を生み落とそうなどとは考えないわけです。ああ、なるほど。


子供が居ない夫婦だと言うと、他人から決まって天気か気候の話のように「お子さんは?まだ?」と訊かれるのは常で仕方のない事ではありますが、少なくとも現在不幸ではありませんから、それを聴いて不幸な顔をして私を見るのはどうか止めていただきたいなと、素直に言わせていただきます。

むしろ結婚をして子供が居る夫婦に「子供が居なければ結婚する意味がない」などと言われるのは大変不本意であり、結婚の意味が子作り子育てに収斂されるという価値観などごく一部の考え方であると思いますし、大多数がそうしてその喜びを感じているから、それが正しいかのようないわれをするのは私のスタンスからして絶対に拒否したい姿勢であり、はっきりいって認めたくなどはないわけです。

もちろんそういった主張を強くされる方にはやんわりと話題を避けて、戦闘体制をとったりはしませんが。なにより、体質的にどうやっても子供が出来ない人というのが現実に存在するわけですから、それらに対してどうこういうのは野暮な話なんじゃないでしょうか?


子供が居ない夫婦というスタイルを実践できるのも、子供が居ないからできることであって、既に作ってしまった方にはできないという結果論なのですから、多分にそちらにも価値はあると考えるべきなのではないかと。

極論すれば自分ひとりで完結できる事もそれはそれで人生のひとつの価値観だとは思いますから、独身で一生を過ごそうとするのもまったくもってかまわないと思います。無論そういう人が増えればお国は確実に滅びの道をたどりますから、推奨もされませんし、自分が生きている間さえよければいいという勝手な考えの持ち主だと思われても仕方がありませんが。
少なからず私が達した結論としましては、子供を生み育てる気もないくせに夫婦(つがい)などになるという酔狂なことをする動物は人間くらいだということですから、それはそれで人間として可能性の追求の一つでしょうし自身も含めて価値としたいところです。
ま、良く言えば動物的な子孫繁栄のプログラムから離脱できているということでもありますから、なにがし意味も求めたくはなるものです。

逆に、子なし人生には何の意味もないということであれば、人生とは想像以上に選択肢がなくつまらないものなんだなとただ虚しく思います。
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