うむ。
頭が固いと頭突きは強いはず。しかしながら頭突きという技を発動させるシーンなどそうそうなく、頭が硬くて得することはそれほどないといえます。

何をやっているのかって?
いや、ちょっと
頭の体操ですわ。
たまにこういうことして、発想の展開を試みています。アホとか意味なしとか無駄とか、そういう事言いたくなるようなことを真面目にやると新しいものが開けたりもするんです。
その前にビートラックはどうしたと?
ああ、近日中に進展予定です。
全てが全てとは申しませんが、老人になると頭が固くなる傾向にあり、けして頭の柔らかい若者は老人と喧嘩をしないほうが賢明であると最近よく思います。
というのも、あまりに長く生き過ぎるためか、その長い人生にあまりに抑揚がなかったせいか、普段と違うことや去年と違うことすることをかなり忌み嫌うというか、自分たちの常識と食い違う部分に嫌悪感を露にする方々をよくお見受けしまして、我々若者な世代からは煙たがられるというのが実情であります。
無論、そういう昔ながらな考えや知恵や継続性は歳を重ねてきたものだけが得られることでもあるのですが、戦後から60余年で世界はかなり大きく変わっているのに、そういった人々だけがいつまでも取り残されたかのように脳の機能を固定してしまっているのはどこか嘆かわしいという気もいたします。
自身らが年老いて社会から不必要とされてゆく実感があるからこそ、自分も何か一言言いたいと思う気持ちも解らないことはありませんが、実際問題戦中戦後で悲惨な青春時代を送って誰かのせいにしなければやってられないほど心がすさんだ青春時代を経て、ほうほうの体で手に入れた平和がもはや中年期以降だった世代や、かなり景気のいい時代に仕事が出来て子育てが出来て、未来が明るかった人々が現在年金暮らしをしている中から、現在死に物狂いで職探しや家庭生活をやりくりして、未来に対して明るい希望も持てずに年金も期待できないだろうなどと言われる世代にあれこれ言うのは無粋かなと思いますし、けして自分たちの頃と今を比べてはいけないと思います。
地域社会や縦社会が崩壊し、そういった一定のコミュニティに属したがらない人種が増えると果ては国家の崩壊へとつながるのですが、老人性のモラリズムや団塊的イデオロギーが現社会から乖離してきているという問題が少なからずあると私は思います。
少し前になりますが、「切れる老人」的な言葉が流行った時期があり、別に脳の血管が切れるわけではなく激昂し手が付けられなくなるという現象があり、今現在でもそれはどこかで起こっているのでしょうけども、そういった彼らとわたしら若輩者が対峙した時、えてして涼しい眼で見守るしかなく、「ああ、しょうがねーな」という言葉しか出てこなくなります。
だって、そのほとんどがたいした問題じゃないのに、ほかにいくらでも代替案はあるのに、自分の孫レベルの者がしでかしたことなんか少しは理解を示しても良いのではないかと思うようなことも少なくないからであります。要するに事の大小ではなく、腹がたったから切れたということを呈しているだけに過ぎないと取れます。
はっきりいいますと、老人が落ち着きをなくして若者の頭脳レベルを凌駕できないようでは無価値と断じられても仕方がないと私は思います。若者からすれば老人や壮年世代は人生の大先輩であり、そこはどっしりと腰を下ろして若輩者の行く末を案じ見守っていて欲しいというのが本音です。
都合のいい言い方かもしれませんが、私はただ歳を重ねただけでは人からは尊敬されないと思いますし、ダメな若者が歳をとってダメな中年になり老人になったなどといわれるようでは、「あんたの人生何のため生きてるのよ?」といいたくなります。
これを読んでいる該当年代の方々にそういう方はおられないかと思いますが、年齢が上だからといって威張るという行為を是とする人は、えてして老人になって「老人を敬え」だとか「老人を大切にしろ、いたわれ」だとか自分から発言しちゃうわけです。
どのシーンにおいても社会的立場に自身のアイデンティティを支配されることがどれほど不自由なことかよく解っている人ほど、自分のことを代名詞で呼ばせたり扱わせたりはしません。
この話しは終わりそうにないので折を見てまたお話はしますが、今回は身近にそういうお話があったので書いてみたまでのことです。
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