そういや、ずっとテレビ観てなかったんですけど、まだジャニーズ問題やってるんですね。しかも企業がCM撤退するとかそんな話にまでなってる。容疑者死んでるのに。結局書類送検もされてないから容疑者じゃないのだろうけど、まあ事務所はその私物みたいなモノだったから、そのレベルの扱いなんだろうね。
前にも書いてますけど、ジャニーさんってのは男色で有名な人だった。これは業界のみならず、世の中の常識なので、認めたくないのは良いけど、内部の人間が知らないとかいうことはあり得ないし、売れたジャニーズタレントが一度もジャニーさんに抱かれてないはずがない。そういう欺瞞があることをファンはもとより、各種の業界団体、企業、マスコミですら、みて見ぬ振りをしてきた事は事実で、今それらを必死になって隠蔽しようと画策しているのが、日本という国そのものなんじゃないだろうか。
こういった話の時、事務所、業界、マスコミ、三つ巴で世の中を騙していた、みたいな空気にしたがるけど、その空気作ってきたのは世間様だからね。
商売ってのは世間様のニーズに合わせて、商品をリリースする。実際はやや企業側が先行し、喧伝し、消費を煽動するのだけど、それとて事前に消費動向をリサーチした結果だから、騙したとは言えない。第一、ニーズに合致していなければ、まるでお門違いであったなら、商品もサービスも世間様には受け入れられない。
「そんなの関係あるか! 俺は俺のやりたいようにやる!」でやってしまうのはアーティストくらいのものです。ま、そんなアーティスト活動をマーケティングに載せたら、今みたいな世の中になったわけですよ。愚鈍に芸術的精神を謳っているアーティストなんて、今も昔も貧乏人のままですし、誰にも知られないままですから。
少し見渡してみれば、独創性が身近にあり、多様性の広がりを感じ、認知制が高く、承認欲求を満たしてくれる世の中が目の前に開けた現代は、なんだか文化的になったように思えるかもしれません。実際に自分もその中に参画できるとなれば、我が身も文化的で独創的な人間だと思うかもしれません。
でも実際は、世間の大多数が「悪いことじゃないし、問題ないから、別にあなたがそこで何しようとかまわないよ」というフォーマットの上で事を為しているに過ぎない。
社会に生きると云うことは、作られた世界の中で生きると云うことです。そこに純粋な創造性というのは生まれにくい。
社会に受け入れられなければ、その創造性そのものの存在が担保されないからです。
これは別に商品やサービスに限ったことではなく、社会通念と云う言葉があるように、世の中の常識や倫理観、慣習や因習、哲学や概念、または印象と云った思い込みに類するものも、一定の世間が認め、受け入れなくては、存在すら出来ません。
解りやすく言えば宗教などはまさにそれであり、事実存在しないものにもかかわらず、信者たちだけの通念で成立している思想と行為慣習です。当然これを生業にする者や、生活の一部、あるいは殆ど全てを捧げている人もいるのですが、その方達が存在できるほどには世間が認知している、という点は認識しておくべきでしょう。
蛇足ですが、一時前から、マスコミはマスメディアと言い替えることが多くなりました。べつに「マスコミのことを「マスゴミ」などと揶揄されるのが厭だったわけじゃなく、マスコミ=マス・コミュニケーション(大衆伝達)といった旧来的な一方向(単方向)のコミュニケーションではなく、これからは、インタラクティブ(双方向)のメディアとして機能するべきだという意味も込めて、大衆伝達という行為よりも、それを行う大きな枠組みの、媒体そのものを指すマス・メディア(新聞、テレビ、雑誌、ラジオ ネット)という言葉が使われるようになりました。無論従来的にマスコミと云う言葉も消えて無くなっていませんが、多くの業界ではマスメディア(メディア)の中にマスコミを内包しているような使われ方をしています。
マスコミ、マスメディアの名称について話をしたのは、そのどちらもにマス(MASS)がついていることです。マスとはマスターベーション……、ではなく(我々が中学生の頃ならいいかねませんが、今の中学生はそんなアホな事言わんのでしょうね)マスとは、「集団や塊」といった意味になります。よく「マッシブなデザイン」なんて形容するのは、密度感とか重量感、大きさを感じる、的な意味になってくるので、あながちチンチンに血液が集まってきて堅く太くなるのもマスといえなくはありません。
まあ、そういう意味のマス、つまり我々の事。大衆です。
先に、あらゆるものは社会が受け入れなければ存在できない、と書きましたが、まさに、マスメディアというのは大衆が支えているものです。マスに対して発信している存在はありますが、それはいわば合わせ鏡のようなもので、どこまで行ってもその実体に触れることはない。
どこまで行っても、何重にもなった、自分たち大衆の姿がそこにある。
多くの人は自覚がないから、マスコミが嘘をいっている、テレビは人を騙す、政治は国民を搾取している、などと云いますが、全て自分たちのことです。自分たちが求めているから、そのように動いているに過ぎない。マスコミ、マスメディアに主体などありません。はっきりいうなら誰の意志も介在していないのがまともなマスコミです。だからマスコミが人を騙すなどという意味がないのです。
ではなぜ過剰で過激で、演出過多で扇情的で、情動的なマスコミ、マスメディアによる報道や放送が行われるのか。
それは、我々が、そっらの刺激を欲しているからに過ぎません。
そんなものは求めていない、真実だけでいい。
そうおっしゃる人がいるかもしれませんが、私からしたら嘘です。
みんな、騙されたい。間接的な危機を感じたいし、悲劇を哀れみたい。時に正義漢ぶって正論を垂れてみたり、強い言葉で批判したり、暴言を吐いてみたり、自分より馬鹿で間抜けな奴をあざ笑って、優越感に浸ってみたり、愉快なことと笑い飛ばしてみたい。
ただし、自分のことではないに限る。
マスメディアが伝える世の中ってのは、ほぼ個人には関係のない話なんですよ。だからテレビもラジオも新聞も雑誌もネットも、どれも観なくても読まなくても良い。視力を使って頭に入れたところで頭がよくなるわけではない。元々不必要な情報で有り、必要だ、有益だ、興味深い、と自分が感じたものだけを取捨選択しているだけです。
つまり、世の中のマスメディアというのは、あらゆる人々の興味や好奇心、知的欲求や探究心、享楽や情動的欲求を満たすだけの情報がある泉のようなものだと思っています。
こんな話。
ある村に、神よりもたらされたという、伝説の泉がありました。人々は村のふもとに湧き出る泉に群がり、手桶に神水を汲んで家へと持ち帰って生活しています。泉の水は、それはそれは人々に豊かな生活を与えてくれました。
泉はいつまで経っても枯れることがありません。
人々の生活排水や、糞尿は用水路から川に流れ、谷を通って、泉へと流れ込んでゆくからです。
でも、村の人々は、神水が無尽蔵に枯れることのない、神様がもたらした泉だと信じて、今日もせっせと水くみに訪れます。
もちろん、その村の人々はみんな体調を悪くしました。でも、神水を飲んでいるのだから大丈夫だろうと、具合の悪い身体で今日も水汲みに出かけています。
天満は、リアルに神水の湧く村だぞ! 最高。
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