元来私はとても丁寧で紳士的な男だと常々自負している。
だから、やむなく人に苦言を呈する時も、とても丁寧に言い回すように心がけている。
先日、ヤフーオークションでこんなことがありました。
私は出品者だったのですが、落札者が落札したにもかかわらず、その後一切連絡が取れなくなり、無視。
この場合、こちらは落札手数料分丸々損するんじゃ、どないしてくれる! となるわけですが、正直落札手数料なんて被害としては微々たるもので、特に勘案しなくてはいけないほどの額ではありません。
それより、自動車バイクの車体など高額で目立った商品は一度落札されてしまうと、「キズモノ」扱いとなって敬遠されてしまうのです。次に落札される可能性が極々低くなるというのが本当に痛い。
最近いたずら入札なる行為が酷く、私も今まで何度か遭ってます。
これは気持ち的にかなり腹が立ちます。ですので、温厚な私でもつい声を荒げたくなり、落札者評価欄に、すごく丁寧に優しい言葉で「しね」とか書いてしまいます。
そしたら、ヤフーからアカウント停止されました。
最初何がダメだったのかわからんかったのですが、警告もなしにいきなり停止はないでしょうよ。しかも何がアカンのかは明言しない。
このメールが半日後に届いて、初めてぼんやり、「あの時のあれのことかな?」くらいに思う。
まあ、報復的に口撃したのはたしかですけど、なんで被害者の私が罰を受けねばならんのかと。
普段横行している不正ユーザーを取り締まることを怠っているから、この様な結果を招くんじゃねぇですか? と言いたいけども、そういや世の中だってそういうもんだよな、と。
世の調和を乱せば、それすなわち「悪」です。原因がどうであれ、結果自分が悪を実行すれば、断じられる。
よく言われる、「加害者の権利は守られるのに、被害者の権利は守られない」というのはこういった誤解から生まれるのでしょう。
司法の判断というのは、情状に鑑みて斟酌の余地あれど、別件。というのが、基本姿勢なんですね。
加害者の権利が守られているのは、容疑者、あるいは服役囚として人生に制限を付けられているということであり、そうなれば同じ世界の人ではないし、実は被害者とは過去に因果関係にあったものの、もはや無関係な存在である、ということになるのだと思います。
無論、心情的に割り切られないのが人間ですから、悲しみも憎しみも悔しさも怒りも、昔のことだと簡単に水に流してしまえることはないでしょう。
そういった気持ちがエスカレートすれば、復讐、報復、敵討ち、あるいは他者への攻撃、逆恨み、といった自力救済に発展する。
もちろん現代はそれをすると、社会秩序が保てなくなるのでやってはいけませんが、当人も同じように加害者(罪人)になってしまうので、これはこれとして別件で扱われて、別の容疑者となります。
そういうことなので、えてして被害者というのは、口を噤み、腹を据えて、その悔恨の情を押し込むしかないというのが現実です。事件事故によっては、ある一定の謝意として賠償金なるものが発生するだけで、何も金で溜飲が下げられるというものではありません。
なにより、強盗や詐欺、または戦争などに至っては、まずその殆どが賠償などされません。負った傷が治るわけでもなく、お金が返ってくるわけでも命が戻ってくることもありません。
そういったいたたまれなさが次の復讐を呼ぶことは想像に難くなく、パレスチナ問題や、ウクライナ侵攻を持ち出すまでもなく、負の連鎖を紡ぐことにしかなりません。
日本は江戸時代まで「仇討ち」という復讐制度が認められていたのですが、あくまで士族を対象に公儀が認可した制度であったため、恨みを晴らすというよりは、名誉を守る、という意味合いが強かった。
なので当然、庶民が武士に斬り殺されたといって、武士を殺せば庶民は死罪となったわけですから、庶民は黙って我慢した、というのが殆どのところだったと思います。狭小かつそこそこ豊かなコミュニティでは、命をかけ名誉を守るよりも、理不尽を飲み込む事の方がはるかに重要であったのだろうなと。
ですから、日本人は元来から水に流す、という文化を持っているのだと思います。
水が豊富な国であることも関係していますが、厄を海や川に流してしまう、あるいは身についた穢れを川や海、あるいは滝などで洗い流す、というのが呪術的にも、祭祀的にも、日常的にも行われて今に至っています。
穢れや汚れが、禍を呼ぶ、というのは風水にも通じる考え方ですが、日本人はこのあたりを強く意識していたため、よく掃除をし、身を清め、不浄なものを生活圏から遠ざけました。そういった歴史が部落や忌み場といった地域を作ったのはたしかです。同時に、臭い物に蓋をする。調和を重視する、本音を語らない、といった智恵でコミュニティを保全する癖がついた。
私はそのもっともたるモデルが、京都という千年都市で、京言葉といわれるやらしい言い回しに現れていると思います。無論、一般に京都以外の人からは「やらしい」と揶揄される京都弁ですが、まあ、そのまんま使っている人なんてごく一部です。癖はありますが、それでいったら地方の村落だって同じように癖だらけの、地元意識丸出しの排他根性で、余所者を困惑させているでしょう。
京都は国際都市の規模で、充分都会なのですが、とかく古い文化が残りやすい土地だから、顕著に出るだけだと思います。
どこに住んでいる日本人であっても、日本の何処の土地に行ったとてさほどコミュニケーションに困惑することがないのは、言語はもちろんですが、それより前提に文化や価値観、慣習といったものがさほどはなれていないからで、日本人同士で阿吽のように通じ合えるのは、同じ文脈で生きているから、ということがいえます。
これをハイコンテクスト(な文化)といい、日本語が主語や目的語を省略する言語形態にも表れています。別に「ハイ」だからといって優れているわけではなく、現代のように世界を相手に話をせねばならないシーンや、空気感の共有や、語感の聞き分けや、ジェスチャを織り交ぜたりが出来ないネットワーク経由のコミュニケーションにおいては、内容力が高く主語、目的語が明確に示される言語形態のローコンテクスト(主に多人種国家や移民国家、欧米人が好む)が歓迎される。
日本人も英会話などを嗜む方は、そのように頭を切り替えてお話ししているはずです。よね?
そしてメールの文末に、懲罰的で屈辱的な「同意する」「同意しない」という二択が。
これ、もはや二択ではなくて、一択なのだけど。
これで禊ぎが終わって、また日常に戻れるわけです。
一日だけのことですが、すっかり前科者気分です。
私は、このハイコンテクストな日本文化に日々イラッとさせられると同時に、救われてもいる。
軽妙な言い回しや、空気や行間を読む言語文化はとても面白いと思う。
だから、文章を書くのが楽しくて書いている部分もあるのだけど。
そのうち、日本語も、日本文化もまた変化してゆくのだと思いますが、いずれにしてもハイコンテクストに傾きすぎて、他人に対し過剰に情緒纏綿(じょうちょてんめん)となるのは人生において悪手でしかないな、と思う次第。
事の文脈を分解してみれば、あらためて、怒りも憤りも悲しみも、いわゆる負の感情とされるものは自分の中にしかない、自分が生み出した勝手な感情なのだなと、そう思わせられます。
日々、もう少し丁寧に、心と言葉を紡がねばなぁ、と、自分のために。
ちょっと反省。
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