大抵ゴールデンウィーク明けに発病するそうで、まあ、簡単に言いますと環境が変わりスタートする四月は期待と不安で満ち足りていて、疲れている暇もないところ、ゴールデンウィークで鬱積していたストレスが開放され突発的な適応障害に陥ることをさすことが多いようです。
もともとはどうも、受験生から発生した燃え尽き症候群みたいなものだったみたいですが、現代では社会人のレベル、特に新入社員などによく起こる現象として捉えられており、ひどい場合はそのまま退職してしまうケースなどもままあるようです。
「俺も昔はワルだったよ」オヤジのワル自慢というのはいつ聞いても快活ではあります。それはもう現在にはない、人や、状況が聞く人の想像力にゆだねられ、すでに過ぎ去った戻らない時間に思いを馳せるオヤジの憧憬が語る言葉一つ一つに尾ひれ・・・もとい脚色?もとい「物語」「伝説」がついてゆくからでしょう。
そういう意味では、歴史で語られる偉人伝なんて完全な物語かもしれません。
このようになぜか、オヤジはいつも自分のことをワルだと語り、オカンは昔はモテたんだといいはりたがる。
まぁそれはイイとして、「俺らの昔の頃はなぁ・・・」から始まる説教話、「近ごろの若いもんは」に遠からず近からず。次世代を憂う言葉はどの世代にもどの国にもあります。
最近の若い者はー、という言葉はどこの世代でも聞いたことは、いや、言われたことはあるんではないかと思います。まあ古くはエジプトの遺跡からそんなことを書いた落書きが発見されたくらいですから、人類は延々と次の世代の奴らにダメ出しをしてきたのですな。
日本では戦国時代は人生50年といいます。そこから考えると現在は倍近くに寿命がのびているのです。
当然昔の成人というのはもっと年令が若かった。元服というやつです(12歳ですね)これもまた形式ばかりの成人ではありますが、「今日から大人です」といわれる事には今も昔も変わりません。
ここでも寿命にてらして約二分の一の数値をたたき出しています。今の12歳なんぞガキもいいところではありますが昔は立派に大人だった訳です。
ただ、若いもんというのがいつの世代からみても「たよりない」とうつる背景にこの「寿命」は関係してはいないだろうか、という事も考えます。
おそらく平均寿命はこれからどんどんのびてゆくだろう、(戦争などが起こらない限り)そうすると人間はどんどん時間を多く使ってゆっくり育つようになる。(自然界でも高層の動物ほど寿命も長く成長が遅い)
そして、成人がおそくなる。だから、一見立派に見える20そこそこの人間の行動を見るにつれ「なんとまぁ、俺らの頃はあんな事なかったぞ」と嘆きたくもなるのでしょう。
無論、自分が十分すぎるほど大人になってしまったからどんな若者をみてもダメに見えるのは仕方ない事かもしれません。
ダメなまま育った大人ももちろんそのまま御活躍されていますけど、どうあがいても若いやつにはこれからの未来をゆだねなくてはいけないというジレンマが「おれたちの栄光」を持ち出させるのでしょう。
わたしとて過去は言われる側に立っていたわけですが、今では気づけば「俺たちの頃」と「最近の若い奴ら」を分別している自分の言動にはっとさせられることがままあります。
つまるところ若輩者のふがいなさを寛容的に見られない先輩諸氏のぼやきというか、愚痴みたいなものであるのだとまあ、理解しているのですが。先輩が出来るのは当たり前、後輩がふがいないのは当たり前、それに対してあたかも社会現象としてひとくくりにして異常事態だと騒ぎ立てるのは責任回避とも取れるのですがいかがなものでしょうか、と。
ただ、今は「ゆとり世代」というものをタテに自分たちの世代との乖離を表現しようと先輩たちは躍起になっておりますが、思えば20数年前は自分たちも「新人類」などと涼しい眼で見られていたわけでして、こりゃまたどうしたもんかなぁ、と思います。
さらに70年代に青春を謳歌した世代は三無主義(無気力、無関心、無感動、あるいは無責任、無作法、)なんていわれておりました。
ちなみに私の世代でそのような分類がなされていたのかどうかはわかりません、あの頃はバブルだったし、世論も当たり所を探すほど暇ではなかったのかもしれません。
こうしてみると、つまるところいつの時代でも社会の反作用として、一部の若者がある一定のベクトルを持つムーブメントを自然発生的に支えていた、(と社会学者のような言い方をしてみたりして誤魔化してしまおうかと思いましたが)つまりいつだって出る釘は打たれるという程度のことなのかもしれません。
新しい可能性を模索するのは何も悪いことではありませんし、それが悪であっても社会の可能性としては精査するに値します、というだけのことかもしれません。
しかしながら、人間は社会動物である限り社会と決別しては生きてはいけません。自身が属す世界、すなわち日本という国土や、住まう町、働く職場、ルーツとしての眷属、そういったものを無視しては生きてはいけません。
日本人が日本国に帰属しているということは明らかなる事実であり、日本国政府は国が存続する限り税金という義務と引き換えに国民を庇護下においているわけですから、それらを根底から覆す理屈など到底認められませんし、はっきり言うと嫌ならどこの国にも属していない無人島(ありませんが)でも探してそこで自給自足でもすればいいということになります。
昨今教育現場では生徒と教師があたかも並列的に立場を共有しているかのような、あるいは親と子供が互いに友達のように接していることなどがありますが、事実上子供には満足な人権が与えられておりませんし同時に責任も回避できるといった側面がある以上、大人と子供との間には歴然とした垣根があるという大前提を認識しなくてはいけません。
子供は嫌がおうでも大人の庇護下に置かれていますから、そこで大人と同じだけの発言力を得て主張が通過するなどとは考えてはいけないわけで、聡明なお子様には大変もどかしいかとは思いますが「もうちょっと我慢して大人になるのを待とうね、そしたら嫌でも責任と義務はもらえるからねぇ」と説明するのが正しいと思います。
妙な誤解はして欲しくはないのではっきりと申し上げますが、個々の親御様たちがどれほど寵愛しているお子様で、能力、才能があると信じられているとしても、社会に出た瞬間からはただの石ころであり、ともすればクズ同然に扱われる、ということを理解しておかねばなりません。
同時にご子息にも常に「お前はクズなんだから役に立つ人間になるように努力しなさい」と教育することが肝要であります。
年々「精神的成人」の年齢が上昇志向にあることは由々しき事態でありますが、現代においてはおおよそ二十歳から三十くらいまでは人生において最も我慢が必要な、人間形成の期間としては重要な時間帯だと思います。
この機を逃すとかなりの確率で取り返しの付かない人生を歩むことにもなり、せいぜいこの間に「クズ、馬鹿、出来損ない、役立たず」と精一杯罵倒されることに耐えることで今後を乗り切る強い心をはぐくむのだと思います。
我慢するということ、耐えるということ、それはなかなか自身ではセッティングできない、人が与えてくれる好意なきプレゼントだと思って有難く受け入れることでしょう。
そういう若者にもひとつお伝えしておきますと、私は「驕るな奢られろ」(おごるなおごられろ)と言いまして、要するに、若いうちは思い上がらずに先輩面した人にご馳走になっていろ、という格言に従っていれば万事大抵のことは巧くゆくのであって、何も若いうちから「俺が俺が」と鼻息を荒くする必要はないんじゃないかと思うわけです。
ですから自身が属したのが無能な上司であっても、あえて自身を貶め、上司をいい気にさせるくらいのアホっぷりで若さをアピールすることは、精神修養であり、今後のストレス社会を生き抜く充電期間と考えるべきだと思います。続けていればイヤでも責任は課されるし、「結局できるの俺しかいないじゃん」的なヒーロー譚も書ける様になります。
今すぐ、お役に立ちたい気持ちはよくわかりますが、どうぞ気持ちにゆとりを持って、明けの五月から延々と続くサラリーマン社会でのご活躍を期待しております。
スポンサーサイト