私がLGBとTを別にしてお話するのは、LGBは性指向の問題でありながらも、「異性愛者がまず持ち得ない性嗜好」が大きなファクターを占める話である上、ほとんどのLGBが性自認には言及しないからです。
逆から引きますと、Tのトランスジェンダーは、ただひたすらに性自認の話であり、彼らは生物学的観点からはゲイやレズに分類されてしまいますが、性の自認性においては異性愛者(ヘテロセクシャル)でありトランスしているわけではありませんし、性嗜好はストレートです。
そこのところを大雑把にまとめて、全員まるっとセクシャルマイノリティと呼ばれたり扱われたりするのは、当事者にとって違和感や苦痛を伴うのではないかと思いますし、新たな差別や認識不足からくる誤解などで、トラブルが起きる可能性はあります。
そのような、一人の人間の尊厳やアイデンティティにまつわるデリケートな話ですから、呼び名、呼称、俗称や、その取り扱いにも各業界は相当慎重になっているようで、統一も出来ていませんし共通認識も出来ていません。あるいはこの先医学の認識次第で言葉の定義が変化することもあり得ます。
ですので私などは、この感覚的にも感情的にも理解が難しい上、当事者達でさえ捉えきれない複雑怪奇な問題を、今までろくに考えてもこなかった一般人が、この段階からどうにかしようというのはあまりにも無謀だと思われます。
先ほど医学用語のお話をしましたが、GIDのDisorderは、「疾患、不調、障害」を指しています。ですが、トランスジェンダー当事者が「病人である、足らずである」という認識を好まないため、当事者に対し「GID」「性同一性障害」という言い方は望ましくないというのが今の流れです。
近年「性同一性障害」に変わるコトバとしてはGD(Gender Disphoria)という言い換えが為されており、日本語では「性別違和」「性別不合」などと言われたりしています。
また、ここもややこしい話ですが、全てのトランスジェンダーが必ずしも「性別違和」に苦しんでいるかというとそうではなく、当然ながら現状を受け入れている人もいます。ただ、中身と外見の違和により精神的な健康を欠く場合、外科的処置により不合性を緩和します。要するに皆さんからしたら馴染みのある「性転換手術」ですが、これもまた近年では「性別適合手術」、SRSとも呼ぶようになっています。
もうこのあたりまでお話していたら、何故呼び名が変わったかはお解りだと思います。
「転換」ではなく「適合」といい、当事者の立場に立った語句になっているわけです。
現在の身体性に嫌悪感を持ち、性別適合を望む人、または既に外科的措置を受けた人のことをトランスセクシャルといいます。こういった方々は外見上限りなく女性(男性)で、普段の社会生活も見た目の性として認識されつつ生きている方も多数おられます。
ただ、カミングアウト(カムアウト)できるのは一部の業界の人とタレントくらいのもので、日本社会にはそんな寛容な仕組みはありません。
また、この様に書くと、トランスジェンダーとトランスセクシャルが並列しているような錯覚を覚えますが、大まかにいいますと、ジェンダーマイノリティが一番大きな枠で、そこにLGB(レズ・ゲイ・バイ)とT(トランスジェンダー)が入る。話がややこしくなるのでQは別枠として。そのトランスジェンダーの中で性別適合を望んで、外科手術を受ける人と受けたいと感じている人がトランスセクシャルという分類になりますが、それに忌避感を感じる人もいれば、現状の身体性を受け入れている人もいる。
だから一括りに、トランスジェンダーはすべからく性別適合を望むものだ、とするのは間違いです。
また、女性装をしているからといって、必ずしもトランスジェンダーな訳でなく、またはゲイやバイでもない。そういう趣味の人(クロスドレッサーまたはトランスヴェスタイトまたはコスプレ、男の娘)もいるというだけです。
現実の問題として、性の指向や嗜好等、人の心を明文化するのは非常に困難であり、その色や形はしれても、手触りや匂いや温度までわかり合えないのは当然です。男女ですらわかり合えないのですから。
ただ、だからといって感情的、感覚的に捉えるに任せれば、人々は無軌道に自身らの快楽的解釈を施して、都合の悪いモノを排除してしまう。そして、その過程で必ず不幸な事案や個体が発生してしまいます。
ですので、ある程度はその不幸な事案発生の抑制のため、法整備が必要になるのです。
自身らの権利を求めてセクシャルマイノリティが、社会を変革する運動の中心軸にくるのではなく、現状+アルファで、今不幸にあえぐ人を極力なくしてゆくことが、現行政治の使命なのだと、私は考えています。
ただし、堂々巡りになりますが、法が成立するためには、その国の国民が根拠になる諸問題を、感情ではなく頭で理解し受け入れられなくてはいけません。日本というほぼ単一民族で構成された保守的な国は、長らく人権というものに向き合わずに済んできました。
そのため、いつの時代においてもこのあたりの議論を疎かにし、目を背けるケースが非常に目立ちます。
性自認と身体性が一致している多くの人も、普通に考えれば解ることですが、何故生まれて数年の幼児が予備知識もなく最初に車輪の付いたものに興味を示すのか、あるいは花や人形に興味を示すのか、それは結果論的に男の子だから女の子だから、と我々は当然のように捉えますが、その不思議な現象こそが「ジェンダー」の存在を表している、ということにまず気付くべきです。
ジェンダーアイデンティティとは周囲の認識や養育環境により後天的に獲得してゆくものではなく、脳の性分化によって決まります。ざっくりいいますと、今現在の医学的見解では、人間の脳は基本的に女性脳として発生し、男性の場合はそこへアンドロゲン(男性ホルモン)の影響を受け男性脳として分化するそうです。これは胎生期の段階で行われる仕組みなので、男性も女性も生まれた段階からジェンダーは固定されています。
この事を決定づけるきっかけとなったのは、ブレンダ症例という大変有名なお話があるのですが、長くなるので割愛します。興味のある人は調べてみてください。
ですから自ずとトランスジェンダーは、生まれたときからトランスジェンダー、ということになります。
蛇足ですが、アンドロゲン不応症とかクライフェルター症候群といった遺伝子疾患で、男性に生まれながら身体が女性化してゆくという方もおられ、これをして(彼、彼女らを)ジェンダーマイノリティの類型に嵌めるというのは、すこしどうかという気はします。
ところが、性分化の仕組みがはっきりしてきたことで、現在では従来型の親の思い込みによるジェンダーの刷り込みが(虐待にあたるのではないか、という)問題になったりしています。
幼児に対してもジェンダーを決めてかからない、多様性を尊重する、という取り組みが為され、子供がより自由に育つよう考えられているのは大変良いことですが、これこそ、政府やどこぞの機関の用意した指標を基準にするのではなく、親の肌感覚で子供を観察して、幸福感を認める、という思いやりが必要かと思います。
今回取り上げた「LGBとTにおける婚姻問題」ですが、実際の所これを議論するには、ここまでのお話を正確に理解し、想像力をフルで働かせなければ不可能であるということをお伝えしたく、書き綴ってきました。
その1の冒頭でも書いたように、永田町の老人らはおそらく理解が出来ないまま、この問題を議論しているとおもいます。不満を漏らしながら。
ご存じの方も多いと思いますが、2015年に世田谷区と渋谷区ではじまった「パートナーシップ制度」これは、各自治体が互いをパートナーとして認め、証明書を発行するなど、同性カップルを支援する目的で作られた行政サービスです。
この制度の実現がもたらしたものは、制度そのものの実効力というより、同性カップルの存在が表層に浮上し、世間に認識されるといった部分で、行政機関が導入したという点では意義が大きいでしょう。今現在もその同類の制度は全国の自治体に広がっていっています。
ただ、日本におけるパートナーシップ制度というのは、自治体が証明書を発行する等、自治体レベルで出来る範囲でだけで、法的に婚姻というものとしては認められていません。
現況、日本の自治体が独自に展開しているパートナーシップ制度がどういうものかといいますと、行政サービスが家族として受けられたり、公営住宅などに家族として住民登録できる、また全てではありませんが病院などで家族と同じ待遇が得られる、生命保険金の受取人として登録できる、といった動きが進んではいるようです。
しかし、婚姻のように、財産の相続、入籍、親族のみが行える手続き等、には関与できません。
では何故、日本における同性婚のハードルがそんなに高いのか、というあたりを掘り下げてみましょう。
で、その前に一応、知っておくと頭が良いと思われるので、是非覚えておいてください。
日本国憲法第24条1項で「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有する事を基本として、相互の協力により、維持されなければならない」
という、特にマイノリティでもない我々の身にもつまされる、文言が並んでおりますね。両性や夫婦とは無論男女のことを指しますから、解釈次第では「同性はダメ」「該当しない」ともいえます。
そして一方、憲法第14条1項で「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない」
とあり、全ての人は平等であると定められている。これが原理原則なんです。ですから日本の、「同性カップルの婚姻は認めない」、というあたりが憲法違反に抵触します。
そして極めつけは、憲法第24条2項の「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻および家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない」
と、少し難解ですが、「個人の尊厳と本質的平等に立脚して」という部分が重要です。
そして私の好きな、幸福追求権 第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
で、先ほどこの手の裁判で、「同性婚を認めないのは差別であり、憲法違反である」という主張に対し、東京地裁は「違憲ではないが、同性パートナーと家族となる制度がない事は、違憲」という変な判決が出ました。まあ私なりに解釈すると「現行法に不備はないが、早急に制度を整えるべきだ」という前向きさには聞こえます。
無論これは、憲法が制定された時点で同性婚という想定が為されなかったのが原因で、時の臨時政府やGHQに、同性婚を阻止しようという意図があったわけではないと思います。
ただ、日本という国は世界最長の家系である天皇家を頂くだけに、厳格に血族関係や家制度を重視する国柄で、それが男尊女卑の文化を発生させてますし、子を産めぬ家など無価値とばかりに切り捨ててきましたから、無論のこと同性愛やらジェンダーフリーなどあり得ず、いずれも非生産的な性など認める素地はありませんでした。
ちなみに江戸時代くらいに寺社や武士の文化がおりてきて、庶民の中で男色(衆道)が大流行した時期がありました。(歴史の教科書には載りませんが信長も家康も信玄も、もちろん掘ってます。ただ秀吉だけは好まず、やらなかったらしいですが、今年の大河の松潤みたいなのは問答無用で絶対掘られてます)とはいえ、忠誠や魂の契りのような精神的な関係性の上に築かれていた、武士や武将達の同性愛に対し、江戸期のこれは、あくまで性嗜好的な流行であったかと思います。
ま、江戸時代はめちゃくちゃ平和だったので、あらゆる者同士の性交渉、性行為に対して非常に寛容でした。まさに江戸全体で快楽に溺れていたんですね。
もちろん武家の奥さんなどとの不倫がバレたら、現代のように300万では済みませんで、修羅場の文字通りサクッと殺されたそうですが。
そんなわけで、というか話が広がっただけで何にも結論しないので、その3に続きます。
スポンサーサイト
trackbackURL:http://chelm.blog37.fc2.com/tb.php/1878-8d9a7e4e