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今月はまだ一桁なんだが

2022. . 19
ブログ全然書いてない。
ウチに来た人は解ってくれると思いますが、はっきり言って今月はネタ作っている暇がないです。

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オリンピックの傍らできな臭いウクライナ情勢ですが、五輪終わったらやるんじゃねぇかな、みたいな。だったら、なんのための代理戦争(五輪がね)か、って感じですけど。

我々ってのは一般的な尺度でいうと平和な世界に生きているわけです。
色々理不尽はあれど、そういった清濁も飲み下すことが出来るほどには、幸福感が勝っているといっていい。日本の国というのは、できるだけ多くの国民に、そのような幸福感を与えようと腐心しているのであり、それがお仕事であると。

無論そのために税金がっぽがっぽ徴収してるんですが、取り過ぎると不幸が上回るから暴動起きたりしますし、そもそもなんのためにお前らに国の運営任せてるんだか解らねぇよ、って事でクーデター起きます。

そういう意味では旧共産圏というか、いわゆる東側陣営ってのはソ連の崩壊と同時にドミノ倒しの如く総崩れになった歴史があるんですが、その象徴とされるのがベルリンの壁の崩壊と、ルーマニアにおけるチャウシェスクの演説かな、と。

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ただ、そういった東側陣営の終焉劇が、ほんとうに冷戦の終結だったのかというと、その後の歴史を見る限り、単にステージが変わっただけで鋭意継続中というか、まあそんなところか。
というのも、旧共産圏の指導者は打ちたおされ、表向きは革命が起き民主化の道を歩む、と外からは好意的に見えていたのですが、実際の所は長年の共産主義社会の腐敗した政治構造の中で、力のある者がその後釜についた、といった状況だったそうです。

ですから相変わらずロシアとも懇意にしていますし、その関係性もさほど変化するところがなかったのです。社会構造ってのは早々簡単には変わらなくて、完全な変化を求める場合、それは「旧体制を徹底的に滅ぼす」ことでしか得られないのだろうと思います。

今何が起きているのか、私達の目に映る分からは正確には解りませんが、どのような体制であれ、国民が安心安全、平和に過ごす事が出来れば何ら問題はない、というのは原則であり、国家は税金をはじめとする“国民の義務”の対価として、それを保障するというのは義務であり責任であるわけです。

多くの人が勘違いしているのは、実は平和などというものは一時の状態を指すのであり、人類の歴史においてその殆どが争いであった事に鑑みれば、かなり頑張らないと平和は獲得できないものであるということがよくわかると思います。

そんなところでウクライナ情勢ですが、対ロシア防衛戦を構築するにあたり、国軍の戦力が足りないということで、民間から補填、つまり民兵を募集して訓練しています。
それらの中には元軍人である予備役もいれば、普段はオフィスで働くOLまでいるといいます。いずれにしても国土を防衛する気概にあふれ大変勇ましい。
とはいえ、ウクライナというのは兵士の数だけは、ヨーロッパ第二位を誇るそうですが、それでも足りないというのは、さすが兵士を畑で栽培しているといわれるロシア相手の戦争です。

かつての日本もそうでしたが、結局有事になり、国家総動員体制にならざるを得ない事態に追い込まれるのは、本来国民の義務でなかった兵役を課さなければならない、という政治の失策と言えます。
ただ、それを単純に、“赤紙をもって駆り出される”、というのは少しばかり左寄りな思想に彩られすぎているかなという気はします。

このウクライナの民兵志願者は、けして駆り出されたわけではなく、自身らの国土を守る為に銃を手に取ると口々に言う。国土を守るとは、畑を住処を、家族を、子を、親を、自らの人生を守る、という意味であり、銃を手にするということを「戦争という狂気の殺人祭に参加すること」と一括りに言えるだろうかと、そのようには思います。

無論こういった国の人々皆が、国防に心を燃やし、銃を携え敵と刺し違える覚悟でいる、とは言えません。日本でも海外でも、戦争には行きたくなかった人がいるでしょうし、行ってからも、顔で強がって、心で愚痴と泣き言を垂れていた人もたくさんいたと思います。

よく言われる「一人殺せば犯罪者、百万人殺せば英雄」といった文言がありますが、これを戦争や殺人事件に当てはめるという、ナンセンスをやっているのをみる。
私がナンセンスというのは、オリジナルの文言を揶揄するものではなく、その文言を引用した日本のドラマや映画の左翼的語り口が、あまりに視野が狭くてショボいからです。
被疑者や被告の述懐で「一人殺せば殺人者として裁かれるなら、ボクはより多くの人間を殺せば良いと考えた」とか国の為に戦争に行った兵士に向かって「戦争に行って武勲をいくら上げても、あんたは人殺しに変わりない」とか。

まずその「一人殺せば犯罪者、百万人殺せば英雄」ありきで言葉を吐いている。
殺人と戦争は別問題であると考えなくてはいけない、というよりも、「人命が脅かされる事への問題提起としてこの文言を引用している」ことが、そもそもの問題だろうと思います。

これはチャップリンの映画「殺人狂時代」の中での台詞が有名で、広く認知されるきっかけとなったのですが、元ネタはベイルビー・ポーテューズという英国の牧師による言葉です。
そのチャップリンの映画の劇中での使われ方は、「戦争や殺人といったものは、一般人のあずかり知らぬところで実にビジネスライクに、密やかかつ大規模に、継続的に日々執り行われている。そのなかで小規模経営の私(主人公)は成功せずに、処刑台に送られるのだ」

意訳ですが、だいたいそういった使われ方です。別に人命尊重を盾にしているわけではなく、社会の在り方を揶揄している。「自身らの利益のために他者を踏み台にすることの大小」で正邪を問われるのか、と。ならば人の命とはなんなのかと、暗に世間に対し問いかけをしているわけです。

私は、したり顔をして戦争を非難する時、この言葉を使うのは間違っていると思います。
そうでなくては、自身らの生存をかけて、他者を殺すかも知れない覚悟をたずさえて、銃を手に取る人々に対し、あまりに失礼ではないかと思います。

ただ、そんな戦火の火種が目の前に点っていながら、以外に普通の市民生活をしており、緊迫感や焦燥感といったものはあまり見られないそうです。
このあたりは、まだ政治が機能しており、外交ルートで戦争を回避できる可能性を示唆しているとも言えます。もっぱら張り切っているのはアメリカだったりしますけど。

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午前一時のプラットホームにて。

ま、我々日本人が日常目にする絶望的な風景ってのは、この程度が関の山でしょう。






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