募金箱泥棒

2011. . 08
立場が違えば意見もまた変わるとは、玉虫色だとか風見鶏だとか言われてあまりいい印象を残さないことが往々にしてあるようでして。
私の記憶が正しければ、韓国もロシアも深刻な廃棄物の海洋投棄を日本海で行い、それについて日本に何らかの謝罪や報告をしたかといえば、なかったように思うんですが。

ま、人間やってれば一度や二度、あるいは三度や四度、自身の中でも移り変わることはありましょうから、自他共にあまり深く言及しないほうが身の安全を確保できるかとも思います。

ただ、あらゆる状況や立場を取っ払った時に個々人の芯になっている部分として、少なからず残る意思や信念や優しさや思いやりとでもいったものが誰にでもあるとは思います。おそらく今回の震災のような究極的状況に陥った時にそれらは現出するのではないかと思いますし、そういう心に人は感銘なり共感なりするのではないかなと。

こういった状況になるとそれらが元になる美談も生まれるが、昨今頻発する募金箱泥棒なり強盗なり、まるでそのような感情を持ち合わせていない不埒な輩も目立ってくるのはなんとも口惜しい限りであります。

ってんで、募金箱を盗むのと銀行から金を盗むのとが、なんとなく違いがわかるような話。



あくまで最初に断っておきますが、強盗や窃盗を正当化するつもりではないということで、お話として書きます。

震災直後から店頭に募金箱を設置した店舗は少なくありません。ヘルムでも備えておりますが、むしろ多いと思います。それだけあの震災のインパクトが大きく、少しずつでも皆がお金を出し合って助けられればいいと考えたからで、少ないなりにもそれらは被災地の復興に役立ちます。

お一人で100億円を寄付したソフトバンクの孫正義さんは実際すごいんですが、単純な話、日本人が一人100円ずつ寄付するだけで100億円という額は非現実的なものではなく集まるわけで、消費税というものが日々いかに収益を得ているかというのがよくわかる話なんであります。

たとえつり銭の残りに善意がなくともそれがいずれは大きな助けになるのならばそれでもいいです。無論ながらその募金を店舗の売り上げに補填するなどと言うのは論外中の論外ですが、通常はそれがどれほどの額であれそのような気持ちにはなりえません。いくら自分の店の売り上げが厳しくても!です。

私はですが、募金箱の募金はお金ではないと思っています。月並みな言葉でいえば「気持ち」です。善意とは言い切らないのは、それなりの理由がありますが、そこはそれお解かりになるのではないでしょうか。

募金箱というのは本来盗まれるべきものではないんですね。その証拠に盗まれても仕方がないような置き方をしているケースが非常に多く、ほぼ未管理状態でぽつんとそこにあることも珍しくはありません。それが小銭だからそうしているのではないと思います。まさかかっぱらう奴はいないだろうと心の底から信じているからだと思うんです。どれだけ心がすさんで本能により近い自己中心的な思考だけになったとしても、その一線だけは越えまいと信じているような気がします。

ところが、今回のように募金箱を持ち逃げしたり、募金している人間を脅して掠め取ろうとしたりする輩が横行するのは本当に情けないというか、二重にも三重にも人の気持ちを裏切る行為だと私は思いますし、食うに困ってやむなく目の前の物を盗んだのならまだしも、定職があったり、家庭に守られている身分の人間が遊ぶ金欲しさにやった、などと言語道断もよいところです。

これを銀行強盗になぞらえると、少しばかり話が違うのですが、妙なことを言うと思うかもしれませんが、銀行強盗のほうが罪の度合いはまだ軽いんじゃないかと思います。
銀行は盗られてはいけない金を取られまいとして防護を完備している施設ですから、そこへあえて挑戦してゆくのが銀行強盗という職業的犯罪者です。彼らはあえてそのリスクを犯し、今から自分たちは悪事を働くと決めて、悪事を働きに来たのだと宣言して実行に移すわけです。
そこには銀行側と強盗側の駆け引きがあり、秩序ある社会への挑戦に対して恒常性を維持しようとするホメオスタシスが発動するわけで、形としては天使と悪魔というか、イーブンな関係が形成されていると思うんです。

もう一度言いますが、強盗を肯定しているわけではありません。

思うに、募金箱を狙う人間は、動物並の頭脳しか持ち合わせていないからああいったことが出来るのではないでしょうか。本能に忠実、その前後の想像力はまるで欠如している。
自分がその立場だったらなどと思うまでもなく、ただ目の前に金の入った箱があるからその金で遊びに使おうと。
もしくは、募金という経済市場に乗らない金は失われても当面困る人がいないから、目の前で悲しむ人間がいないからあまり罪悪感を感じずに軽い気持ちで実行できるのでしょうか。

私は、司法制度は行為に対して裁きを与えるものではなく、その行為に至る心理や心情に対して行われるべきではないかと思います。もちろんその目に見えないものを立証することは困難なのですが、司法の不公平感や国民心理との乖離はそのような部分から沸き起こるのではないかと思います。

こういった罪人こそ、国民心理を汲んで、裁判員裁判で裁かれるのが良いのではないでしょうか?
被害者は、被災地を憂う全ての国民だと思います。声を上げて弾劾しても誰も文句はないと思いますし、情状酌量の余地など何処にもないと思います。

なんかエキサイトしてしまいましたが。


腹が立つので書いてみました。すみません。
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