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世界は幸せにならなくてはいけない

2021. . 30
最近目にする、「五輪反対派は応援するな」という文言。
特に反対に偏っていたマスメディアに関しては、開催開幕とみるや掌返しで、オリンピック称賛に鞍替えしたもんだから、最初から「なんとかオリンピック開催して欲しいなぁ」といった淡い期待と希望と応援を抱いていた心優しき人々は、烈火の如く怒りたくもなるわけですが、ちょっと待ってくれ、というのが今回の話。

てんちょのあやしいはなし

このブログを読んでいる皆さんならご存じ、私も反対派です。反対派だったのではなく、今も反対派です。変わりません。

作家の百田尚樹が吠えてましたけどね、五輪に反対していたマスメディアは、アスリートにインタビューする前に、「私たちはあなたたちの活躍の場を奪おうとしていました、スミマセン」と謝罪してからにしろ、と。

一元的に考えるとそう。筋が通っていない。
でもさ、マスコミに筋が通ってないって、何いってんの? 状態なんですけどね。

誰がどの基準で筋を通すの? 局のお偉いさんが番組とか記事とかで発せられる言葉の責任をもって、筋を通すのか?
マスコミ、あるいはマスメディアに人格なんてあるわけない、ってのが私の持論です。だから筋なんて通るわけがない。

ワイドショーに出ている人間も、アレは全てスピーカーであり、人格などない。タレントにしてもアイドルにしても、テレビの前で「そのように振る舞うように」台本通りに動く人形でしかない。番組や週刊誌や記事がどうすれば面白く人々の耳目を引くか、ということだけに全神経が注がれているのであり、たまに役に立つ報道もする、といった程度に捉えるくらいが丁度良い。もちろん番組にもよるが。

不公平なのでオリンピック前に私がどう考えていたかを載せておこう

政府は着々と粛々と、オリンピック中止のプログラムを進めているのではないか。
つまり、
「日本はギリギリまで譲歩し、努力し、それでもやむなく五輪を中止せざるを得ないという苦渋の決断を下した」、というストーリーを練り上げている最中なのではないだろうか、と。

要するに茶番なんですが、政治というのは「相手を納得させることが出来る理屈」を述べられるかどうかだとおもうので、そこには真実も正確性も清廉潔白さも必要ないと思います。

だから今も水面下で、オリンピックは中止になる、という既定路線を進んでいるのではないだろうか。
どうもね、首相をはじめ政治家共がオリンピックを強烈に推している、という風には見えないんですよ。
海外からのオリンピックに対するラブコールも聞こえない。というか海外でオリンピックって話題になってるんですかね?


ドヤ顔で書いていたけど、見事に外れ。
ガースーはギリギリまで観客いれて強引に開催にもっていこうとしていた。「メディアを使って中止になっても仕方ないよね作戦」はいいアイデアだと思ったのだけどねぇ。

で、これは2020年の年末に狂ったように書いたブログの一部ですが、

ただ、現在では元祖マスコミ業界はご存じの通り、業界周辺の利害が優先されることで、受け手が必要としている情報が意図的に発信されない、あるいは歪曲、ねつ造されるなどして、情報源としてややお粗末だという現実を露呈しています。

もっとも、マスコミに属する連中が黎明期から散々ねつ造や印象操作やプロパガンダをやらかしてきたのは日本国内でも同じですし、風向きが変われば向きを変える風見鶏な気質もお馴染みで、これをマスコミ側から言わせれば、「我々は庶民大衆が求めているものを映す鏡でしかない」といったことを滔々と述べるのでしょう。

現に日本においては、終戦と同時にほとんどの新聞社が態度を一転、それまでの国家体勢を批判し、自由と平和と人権といった民主社会の担い手として標榜しました。そのため特定の新聞数社はコミーの温床となって久しいのですけども、まあそれはいいとして。マスコミが言うように我々もまた、卵が先か鶏が先か、まるでマスコミのいいなりかのように、彼らの言い分をトレースするようになって久しいわけです。

しかしながら表現の自由を後ろ盾にした、嘘やねつ造や歪曲も、個人や企業の利潤追求のために行われている事実は、それらがある程度看過黙認されている日本という国の、民主主義的側面を象徴しているかなとも思うわけです。


要するに、大衆伝達は本来の、広く人々に情報を伝える、という意義にひねりが加えられて、人々が知りたいことを流す、という流れになって今のマスメディアが成り立った。そうすることで雑誌や新聞、番組を多くの人が購入する。そこにスポンサードしている企業は費用対効果を実感して、さらに投資する。
たまに隙間で耳にする「電通」とかいう企業は、企業とマスメディアの間を取り持つ広告代理店で、面白いことに何処の業界でも、複数の利害関係者の間を取り持つ「仲介者」という仕事は、一定の規模以上になると恐ろしい権力を握るようになります。同じく人材派遣会社というのも昔風にいうと奴隷商人のようなお仕事ですから、大変旨みがあります。

ですから、そのスポンサーから依頼を受けている広告代理店の意向は絶対、という構造が生み出しやすくなる。なんとなれば出資者の都合の悪い情報を流せば番組や紙面の存続脅しともとれる伝家の宝刀を抜く。
そうしてマスメディア操作を行えるようになる。
太平洋戦争時でいうなら、大本営発表以外の情報はまかりならん、とした、国家権力によるマスコミに対する検閲と、情報操作が行われていたのであり、前述の私が書いた「メディアを使って中止になっても仕方ないよね作戦」はそれに類するもので、実に非民主的手法です。

ただ、民主政治を唱えたところで、実のところ民が賢くなければそれは単なる衆愚政治に成り下がるだけで、民間から選出されたバカな権力者がバカな民衆を先導する。また権力者は自らの基盤維持の為に、愚かな民の意見を聞き入れ、政治を歪めてゆく。
その一端を担っているのがマスメディアであり、テレビが阿呆で、政治が阿呆なのは、結局民衆が阿呆だから、という三段論法で結論出来ます。

だから、優れた絶対権力者の下で行われる独裁政治が素晴らしい、という考えもあるにはあります。

半島の金豚が聖人君子なら、あの国は素晴らしい理想郷となっているでしょうけど、残念ながら地獄でしかありません。

話を元に戻そう。

オリンピック反対派だった奴はオリンピックを観るな、応援もするな、メダルとっても喜ぶな、とか幼稚な事を言っている奴がこんなに多いのかってのは絶望的な気分になりますね。

それはそれ、これはこれ、です。

例えば選挙があって、自分が応援している政党が敗退し政権が取れなかったとしよう。結果、敵対する政策を抱える政党が与党となり、政権を得た。

こういう場合に、

オマエはかつて○○党を応援していたではないか票も入れたのだろう。ならば現在の日本政府の福祉を受けることはまかり成らん、権利を主張することも許さん。

という中学生か小学生並みの理論展開と同じだということに気付かなくてはいけません。
マスコミは筋など通さなくてもいい、とは先に書きましたが、個人はさらにそんな責任を負う必要はない。そもそもの発言に責任がないのだから。
じゃあ、誰が発言に責任を持つのか? というと政治家や各種の専門家でしょうよ。
自分たちも民間人であるといういいわけは通用しない。

本来、政治家は失政を行えば、腹切りものなんです。そのくらいの責任が乗っているから、莫大な給料を得ている。
謝罪して、あるいは謝罪もせず責任もとらずに辞任して何もなかったことにするとか、どんだけ楽な仕事か。そして民衆から責められて責められて自殺に追い込まれた政治家なんて一人もいないってだけでも、面の皮分厚すぎると思います。

今回のオリンピック、アスリートの皆さんは開催に胸をなで下ろしているでしょうし、その充実感と高揚感に浸っておるでしょう。またオリンピックが今年まで延期されて開催されるまでの紆余曲折と、数々の問題も承知しておるでしょう。それらに対して言及するアスリートは一人としておりませんが、口にせずとも心にしっかり刻んでいると信じたい。

日本国民の莫大な血税と、限界ギリギリの我慢の上に自分たちの舞台は乗っかっていると。

だから結果を出せということではありません。
メダルなど取らなくてもいいが、公としての責任が既に発生している事は自覚して欲しい。

オリンピック人形になるのではなく、IOCや協会やスポンサーの奴隷になるのではなく、筋肉バカのアスリートとしてではなく、そこは一人の人間として、個人的な喜びや感謝だけではなく、今この世界に思うことを口に出して述べて欲しいと思う。世界に対して使命が発生していると言ってもいいでしょう。

我が身の半生を賭けて頂点に登り詰めたのなら、その言葉に重みもあろうが、何も語らない今の彼らはただの筋肉奴隷だと思います。

日本のアスリートが政治的な声明を発表すれば、おそらく各種の団体から除名されるでしょう。
選手はそんなことを考えなくてもいいし、考えている暇はない、という言い分も解りますが、じゃあなぜ、なんの為に、我々はアスリートの皆さんを応援せねばならないのか、と思うのです。ただ速く走ることに、高く跳ぶことに、ボールをゴールに入れることに、なんの価値があるというのか。

我々は傀儡的な価値に丸め込まれた世界に生きていて、それらを素晴らしいことだと信奉するよう仕向けられている。
それらは何も生み出してなどいないのに。
しかし、それに応えるアスリートやアーティストがもてはやされ、次から次へと大量に産み落とされてゆく。
そして我々はひたすら、それらに対しエネルギーを無為に消費している。

本当に大事なのはその先のことなのに。

スポーツでも音楽でも芸術でも、なんだっていいけど、そういうのってただのきっかけでしかなくて、観て聴いて喜んだり楽しんだりするという刹那的な感情行為が、「幸せ」というのではないとおもいます。

本当に大事なことは、そこで生まれた感情について考えることで、何故良いと思ったか、何故感涙したのか、何故不快に思ったのか、何故怒りを感じたのか、何故悲しんだのか、それらについて自分の頭で考えて理屈を導き出す事だと思います。

なんだか中途半端な話になってしまいましたけど、この事についてはまたいずれお話しします。





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