
なんだかこういうエンジンを見ると安心します。とても古典的でスタンダード。
久しぶりに普通の修理作業です。ベルト交換したり、ストラットのアッパーマウント交換したり。

もうエンジンなんて全部これでエエやないか、って思いますよ。シンプルイズベスト、いくらでも補修がきくし、流用も可能。
変に工夫を凝らしていないから整備性もよい。
と、私はそんな平和な一日を過ごしていたんですが、前から言ってるかもしれませんが、私「3.11」って呼び方嫌いなんですよ。
別に何がって訳じゃないですけど、ニューヨークテロの9,11と被るからなんですよね。
なんか災禍は災禍ですが、人為的で政治的で、怨恨による災禍と、自然災害を一緒のように言われるのがすごく気持ちが悪いというか、記号的に処理されてる気分の悪さがあります。
どうじに、あの日被爆した福島県沿岸部を指して、「フクシマ」と片かな表記をするのも一定の反対意見があるというのを目にしたことはあります。もちろんこれは「ヒロシマ」や「ナガサキ」に倣ったものだとは思います。それは記号化「Fukusima」とする事で世界に放射の被害、脱原子力を喧伝する目的があるととれます。
これを差別的である、と捉える向きもあることは理解できます。
現に未だ放射能汚染されているのではないかと誤解されるのが怖くて、福島県出身だと口に出せない人もいるようです。
あえてフクシマだけを協調した結果、人々の心の中にネガティブなイメージだけが残留することになった。
私は、こういった状況を国や東京電力は何故放置しているのか、何故被害者の救済に全力をあげないのか、と思います。
福島の人は放射能で汚染されてなどいないということを、どうしてもっと大々的にインフォメーションできないのか。なんなら職を失った被災地の人々を、東京電力が雇ってやれ、くらいに思います。
災害復興の話題も、いつも三月の頭に限り放映されるだけで、明日からはイベント終了の如く一切の震災関連放映が終わるのでしょう。聖火リレーは福島県からのスタートとなってましたが、福島県民がこれを歓迎したのかどうかは知りませんが、多大なリソースを用いて聖火が各地を巡ることを許せるのは、それは人々の心身が共に平和であるからだと思います。
今多くの人が不満や不安を抱えている中で、暢気に形だけの平和の祭典が何千億円も費やされて行われようとしていることに、人々が違和感を覚え、憤懣の情を搔き立てるのは、もはや仕方がないことなのではないかと思います。
震災から10年、未だ傷は癒えず
スポンサーサイト
trackbackURL:http://chelm.blog37.fc2.com/tb.php/1543-fdac6e69