FC2ブログ

手取り15万の幸福論

2019. . 21
てんちょのあやしいはなし


手取り15万って、給料として安いでしょうか? 
そういう人ってまあ普通にいると思います。
そして、そういう人の一部がネット上でよくぼやいているのを見受けます。
要するに「死なない程度に生きている、社会は残酷だ」といった類のもので、本人はギリギリ極貧生活で絶望的だとお嘆きな事が多い。もちろん五体満足で、ちゃーんと学校も卒業なさっている方々です。借金や障害がある訳じゃないっぽいです。

私いつも思うんですよね。独身でフルタイム正社員、手取り15万ってそんなに低いか? 働き始めの人なら当然。キャリア積んだ人からしたら低いですかね、というのが私の感想です。

総支給15だとちょっと絶望してもいいと思うよ? だってバイトしてる方がマシだもんな。それに手取りだけでボーナス支給額が示されてなければ年収の高低の判断基準にならない。

仮に、ボーナスが無かったとしましょう。私らの業界は延べて給料低いから麻痺しているのかもしれませんけど、それでも絶望するほどじゃない。
そもそも月給15万の職に就く以前に、ある程度の貯蓄だってあるから、いきなり極貧生活に転がり落ちることもない。
だいたい、一ヶ月で15万使い込んでしまうって借金でも無い限りありえんだろ、と。

そういう人達って、生活設計能力が低いのかなと、思ってしまうんですよ。
朝昼晩とコンビニにお世話になってるとか、コスパの悪いことをしている自覚がなかったり、家賃の相場をまるで知らなかったり、そもそも努力が嫌いだったり、体力使うことを嫌がったり、空腹に耐えられなかったり。さらにはネットは光通信の1ギガで、モバイルのキャリアは大手3社を無自覚に使ってたり、ネトゲに無意識に課金したり、腹が減ったら何時だろうが夜食に吉野家に牛丼食いにいくような生活してるような気がします。

そんな自分を棚に上げて、社会に文句を垂れる。
二の句には政治が悪いか安倍が悪い。

いやあ、どう考えたって、テメーが悪いでしょ。
好きな仕事でもなく、薄給でこき使われても文句すら言わないで、ただただ15万を手にする自分は、社会の犠牲者だって叫んでるだけなんですから。おまけに自腹切って経費肩代わりしたり、ってなんか脅されてるのか? で、そんな状況をせいぜいツイッターでぼやくのが関の山。

あれさ、、なんでツイッターみたいな匿名性の高い信頼性のない手段で訴えかけるんでしょうね? 
本当に困っているのかどうかすら怪しく感じるし、そもそもそんな事実ないかもしれない。情報ソースとしてはかなり怪しい。
なのに、私も含めてだけど、皆さん尻馬に乗り侃々諤々と議論じみたことをなさっている。

結論からすると、ぼやいてるくらいなら辞めて納得のいく給料がもらえる仕事に就けばいいじゃん。
ま、それが出来たら苦労はないとか言うだろうけど、今まで苦労しなかったから今その状態なんじゃないのかなとも思います。

当然だけど、そういう人は必ず「結婚も子育てもできない」って、未来が描けないって嘆きます。まるでその権利が当然あるかのように。
でも、出来なくて幸いだし、しない方がいいと思う。それに子供作るの義務じゃないしね。
だって、人のせいにしかしないんだから。自分の人生に責任持てない奴が、他人を養ったり育てたり出来る訳無いじゃん。

めでたく結婚できても、子供を養えないから共働き必須。どーするんだ詰んでるぞ、社会はコレをなんとかせぇ! 旦那もっと働け、家帰ってきて休んでるんじゃねぇよ! みたいな話もよくききます。

けど、私からすれば、じゃあなんで子供産んだの? ゆくゆく何千万もかかる贅沢なことなのに。知らなくて手を出したとしたら愚かとしか言いようがないです。それこそ変則的な20年ローン組んでベントレー買う、みたいな状況ですよ。

稼げないのは社会の責任、みたいな話が多すぎませんかね?

そもそも、文句言う前に、選択肢増やしてきましたか? 許容範囲広げてきましたか? 我慢してきましたか?

非常に強く、そのあたりのことは感じます。
勉強ってのは学歴に繋がり、学歴は社会における選択肢を増やすことになる。だから必要なことだと教わりました。
そして、経験とは人格形成の元であり、人格形成はあらゆる事象に対する許容範囲を広げることが出来ると知りました。
そして自分が実現不可能と知るなら、我慢は必要、無理してはいけない、皮算用も博打もダメって言われてきました。

極端なことをいえば、サバイバルの訓練受けてきた人は、都会が突然滅亡してもジャングルで生きてゆけるんです。

自分のレベルなど、ハイティーンになる頃には自覚すると思います。そこから積み上げても高が知れてることも。
ですから、いかに生きるかをクリエイトしてゆくことが、当面の生きる礎になります。今のスペックの自分で人生やってゆくという腹をくくるんですね。


そんな私は低スペックの低級国民ですから、当然裕福じゃないけど、色々欲しいものは手に入れてきた。
そのために苦労も努力もしたとは思っているし、何より工夫はしてきた。どうやったら買えるだろうか、手に入れられるだろうか、とか考えましたよ。手に入れられなければ自分で作ったりしました。(お金無くてプラモデル買えなかったから、段ボールとセロテープで工作してたのが今に繋がっていると思っています)
もしも、それらを欲望のままに金を使い、次々買って手に入れてたら、今頃私は破産してます。財産なんて残せてないと思います。

日本国憲法25条にある、『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。』という条文は、国民の有する最低限の生存権と、社会が負う使命を記していますが、そこに『全ての国民は幸せを享受する権利~』などとは書かれていません。

健康で文化的な最低限度の生活、とは人間らしい生活であり、「誰もが幸せになれる可能性を抱ける生活」、だと私は解釈しています。にっちもさっちもいかないような状況でない事が前提で、それぞれの個人が願う幸せを追うことが出来るという意味。
どこまで努力してどのあたりの幸せを得ようとするのかは、その人それぞれなんだと思いますし、それが自由意志を許されているということだと思います。
ですから、幸福を追い求めるための体力を使い切るような生き方をしてはいけませんよ、それは文化的ではありませんよ、と皆が心に刻むことではないかと思います。

月一焼き肉が食えたら幸せという人もいるだろうし、年に三回海外旅行に行って豪遊することが幸せという人もいる。
はたまた、自分の財力で都心に高層マンションを建てたいだとか、総理大臣になって国政を動かしたいだとか、月旅行に行きたいだとか。

人間の欲望に限りはなく、その種類も形質も多様であります。
それすなわち、欲望の数だけ幸せもあるということでありますから。

ただ、欲望を成就させるには対価と努力は必要です。コレは絶対だと思います。
欲望の先に幸せを据えている人は、あらゆる対価によって幸福を得ることでしょう。
しかし、幸福には必ずしも対価は必要ありません。コレも真理です。
なぜなら、幸福は人の心の持ちようで得られるものだからです。

あなたが幸福だと思えば、あなたはその瞬間から幸福になれます。 ……自己啓発セミナーみたいですね。

すなわち。

他人が見て、あなたのことを幸福だと思うかどうかはまた別の話であり、他人からも羨ましがられたいというような図々しい事を考えているなら、あなたは世間が定めた幸福の対価を支払い、幸福感を手に入れてゆくしかないでしょう。
なので、愚民は金を稼ぐしかなさそうです。

という、それほど裕福ではないけど、まあまあ楽しい人生やれてるなと感じてる私の幸福論です。



スポンサーサイト



comment

post comment

  • comment
  • secret
  • 管理者にだけ表示を許可する

trackback

trackbackURL:http://chelm.blog37.fc2.com/tb.php/1196-dc7e01d1