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高校野球賛歌

2019. . 23
てんちょのあやしいはなし

さて、夏の風物詩、高校野球が終わりました。
若人らによる爽やかな一夏の熱闘、という側面は相変わらずですが、昨今ではアンチ高校野球なる側面も垣間見られる次第。

言わずもがな、投球数制限を設けない高野連はクレイジーだ、虐待だとかいうアレに端を発し、熱中症に命の警告が発される世情に反して、真夏の炎天下での試合。時代錯誤な同調意識、根性論、恣意的感動の押し売り、そこから飛び火して応援団がうるさいだの。(いくつかは甲子園やめてドーム球場でやれば解決するような問題なんですが。)

まあ、言い出せばでるわでるわ。
というか、こういう声は別に以前からあったのだろうけど、表出しなかっただけで、新聞やテレビなどという巨大なメディアの「大きな声」が多数意見、多数感想であるとされていたからに過ぎませんで、常に少数派の意見は顧みられることが無かった訳です。

少数意見が通らないのは、今に始まったことではなく、古今東西いつだって同じです。
ただ、今は、たった一人の個人の呟きですら、ネットの海では平等に扱われてしまう、というだけです。

私は高校野球は嫌いではありません。
みていてドキドキもしますし、感動もします。
これを、趣味の悪いエンターテイメントだと揶揄する人もいます。
つまり、高校球児が苦しんでいる姿を、無関係で無責任な大人達が、冷房の効いた部屋でビールを飲みながら喜んでみていると。虐待じみた映像をニヤニヤと眺める変態ドS趣味であると。

まあ捉え方は色々ですけど、歪んでるよなぁ、とは思います。

なにがって、頑張っている人をみて、苦しい辛い、割に合わない、凋落する恐怖、負傷する危険性、権力の犠牲者、社会のさらし者、金儲けの道具、としてしか見えてないことがです。

でも、スポーツってそういうもんじゃないですか? スポーツだけに限らず見る側と見られる側は違うでしょう。
やっている本人と、観戦している人のあいだには相容れない溝がある。
そこのところに気づかないで、高校野球のあり方を批判する人々がいかに多いことか。

まず、スポーツを通じてお金儲けをするシステムは確立されています。
もしも高校野球がなければ、プロ野球の発展は著しく後退するでしょう。
プロ野球が得ている収益はどれほどのものかを考えても、野球業界が存在する意義は大きい訳です。

人の純粋な思いや行為を、金に換えるシステムが、この社会では成り立っています。
別に綺麗なモノばかりではなく、時には汚らしい暴言が金を生むこともあります。
そういう世界で皆さんは生きている。

スポーツ選手達が金メダルや優勝を狙うのは何故でしょうか?
それは自分がやってきたことへの正当な評価を得る手段が、そこにしかないからです。
ライバルを蹴落として、頂点という高みに立つことでしか自らを認めることが出来ないからです。
そのために全身全霊をかけることは、常に推奨され称賛されています。

ちなみにスポーツの頂点の最たるといって過言ではない、オリンピックの参加年齢に制限は基本設けられてはいません。
小学生だろうと中学生だろうと、競技が許すならでることが出来ます。
じゃあそのために、頑張って努力しているうら若き選手達を指して、「オリンピック出場を餌にした虐待じゃないか」と言うでしょうか。
まあ言う人がいるかもしれませんけど、もはや変態ですね。
しかし、オリンピック出場で身体を故障して選手生命を絶つ人だっています。
足を引きずったり負傷しながらも試合に出たりする選手もいます。だってもう四年後はでられないかもしれないから、と。

それに対して、世間一般的には「負傷していたのにも関わらず、圧倒的な勝利! 痛みに耐え勝ち取った栄誉!」そう称える。実際にそう称えたし、程なくして選手は引退したし、そこに付随する物語も構築した。

誰も、ストップをかけなかった。それでも勝って欲しいと、テレビにかぶりつき見守った。自国のプライドを満たして欲しいとね。

昔々の話ですけども、今だってそうは変わっていないんじゃないでしょうか?
投球制限は勝敗の分水嶺になることはあります。特に高校野球ではありがちでしょう。
天才エース一人に支えられている状態がいびつだとしても、仕方がありません。だって彼らはタダ野球が好きで集まった野球少年達なのですから。プロのような精鋭集団ではありません。

その彼らが、少しでも一歩でも前に出ようとすれば、無理を承知でもやるしかないでしょう。
そこからしか切り開けないものがあるかもしれないと考えるのは当然のことではないでしょうか。
もう彼らには、次がないのですから。プロを見据えているならなおさら、パフォーマンスを示すのに絶好の機会になるのです。そこで温存するなんて考えられる訳がないでしょう。

昨今は小学生でも夜中まで塾に通い、中学高校大学ととにかく高みを目指して勉強漬けの毎日です。その結果学校で受ける授業の意味を喪失するなんてことも当たり前になってきています。
ではそんな彼らが、就職をする際にわがの学歴だけに胡座をかいてパフォーマンスを示さないなんてことがあるでしょうか?

精一杯やることが出来なければ、一生後悔の念は残るんではないでしょうか。
もう一球投げていれば、打ち取られなかったのに。
そんな瞬間だってあるかもしれません。
それも含めて精一杯と思えるならそれでもいいでしょう。
結果論的に、肘を壊さず障害を抱えずにすんで良かったね、そのように言うこともできますが、あそこで頑張れていればプロになれたかもしれない、そんな可能性は競技における高みを志してきた者なら誰もが考えるはずです。

選手自身らは消耗するモノだと自覚している。自らは消費財であると。それがいつまで保つのかは、それぞれでしょう。
プロになっても、戦力外通告をいつ受けるか、戦々恐々とした日々を送る。何がきっかけで選手生命を絶つような怪我に陥るかも解らないリスクを背負い続ける。
役立たずにならないために、あらゆる手段を講じて、身体に負荷をかけて、命を削り、ポテンシャルを維持し高めようと努力する。

「それは仕方ないではないか、だって彼らはプロだから」

そう言われるかもしれない。
ですが、では、プロフェッショナルとは一体何であるか?
プロとは、現在持つ自らの能力や体力、精神力を極限まで引き出し、最高のパフォーマンスを示そうとする人のことではないでしょうか。自分のためにチームのために、あるいは観客のために。

対価として得るものの有無ではない。
そこは将来性を論じるシーンではない。
選手にとってその一時、その一瞬は、たった一度限りなのだから、燃え尽きさせてやってもいいと私は思う。
投球制限をしろと言っている部外の人間、あるいは良識ばった業界人の言葉は、はたして現場であえぐ選手達にとってありがたいものだろうか?

選手生命云々といっている者こそ、選手を消費財だと言っているようなものではないでしょうか。

極論すれば、スポーツを観戦する我々は、誰がどれだけ活躍しようがどうだっていいのです。だって感動と昂奮が出来ればそれでいいのだから。そのために応援して、お金を投入しているのですから。
現にそれは今までのあらゆる業界の歴史が証明しているのです。本当に、誰だっていいんです。自分たちを気持ちよくさせてくれる存在ならどこ出身の何歳の誰であっても構わないんですよ。

甲子園で大注目されて、プロ選手になって、成績振るわず第一線から退いて忘れ去られた選手が今までにどれほどいるでしょうか?
業界では彼らの凋落に心を痛める間もなく、既にその時には新たなヒーローが新たな感動と昂奮を運んできてくれている。

業界にとって選手など所詮は使い捨てなのです。動けなくなれば棄てられる。成績が出せねば棄てられる。
そういうものでしょう。一般企業のほうがよほど人道的ですよ。

結果的にスーパーヒーローが生まれれば、稀代の英雄であると、その行為の偉大さを称える。
そこに至るまでに死ぬような努力があったとて、誰も非難はしない。
選手は、周囲の観客やファンと心を同じにする事は出来ないし、共感も共鳴も出来ないでしょう。
思考の次元は全く違うところにあると、私は思う。

外から、過剰な努力をするな、限界まで頑張るなと言われて、はいそうですかと言いなりになって自分の価値も方向性も能力も制限されることがどれほどの屈辱か、と私が選手当事者なら思います。
私が選手当事者なら、ですよ。

ですけども残念ながら私は嫌らしい人間だから、もっともっとスポーツで悲喜こもごものドラマを生み出してみせて欲しいと思う。
自分はスポーツそのものには興味ないし、やる気など毛頭無いけど、家でビールをちびちびやりながら、テレビに愚痴ったり、感動してみたり昂奮してみたり、自由闊達に好き勝手なことを言いたいと思う。

だから間接的とはいえ、そういう私の歪んだ楽しみを提供してくれている選手諸君、大手メディアの皆様には感謝する。

全ての試合は見ていませんが、今回も感動をありがとう、良い高校野球でした。

ちなみに投球制限をしても私らには所詮解らないことですから、勝手にやればいいと思います。わたしらはタダ観戦しているだけですから。

ただ、

高校球児は皆頑張ったんだから、全員優勝です! とかいって閉会式に皆で手をつないでバンザイ、とかいう時代が来ないことを祈るばかりです。




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