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表現の不自由

2019. . 03
てんちょのあやしいはなし

物議を醸している、あいちトリエンナーレにおける企画展「表現の不自由、その後」

これ、物議を醸しているといっても、「あいちトリエンナーレ」という、巨大な芸術祭の中のほんの片隅の展示スペースにおかれた、企画展の内容が問題になっているだけです。さほどのことはありませんが、デリケートな話題をはらむということもあり、政治運動家きどりの左派右派然り、ネトウヨ民が声を荒げているのが現状で、例によってマスコミは面白いので報道して焚き火を煽って延焼を目論んでいるといったところでしょうか。

この問題を知って少し考えました。久しぶりに開いた思考回路なので上手くまとめられるか解りませんが、これらの問題について少し私の考えを書き留めたいと思います。


たとえどんなに政治的であり、創作者側に悪意、叛意、その他の意図があっても、表現の自由は侵されることはあってはならない。

ただしそれにより他者の精神的、肉体的健康を損なう事や、持ちうる各種の人権を侵すことがあってはならない。

大体表現の自由の大枠はこういう感じです。

ただ、これは綺麗事であり、理想論です。実際は、過去に展示を不許可とされた経緯がある作品群を集めて今回のような企画展が催されたことからしても、表現の自由は保障されていないことにはなる。それは多分に当時の世論や政治情勢、民意や国体が影響しているのであり、現実は「表現の自由がなければならないものであろう」ということであります。

それは、「ヒトは健やかに生きる権利がある」というのと同じです。じゃあ地球上の人類皆がそうであるかというと、そのように生きられているヒトはほんの極々一握りなのであり、現実は理想にほど遠い。「ヒトは健やかに生きられれば良いのになぁ」という呟きに近いステイトメントでしょう。

今回のこの「表現の不自由展、その後」というのは、2015年に行われた「表現の自由展」に端を発しているらしく、今回のが2019年版だから「~その後」と銘打たれている。

私はこの展覧会について詳しくは知らないし、実物も見ていないのでエラそうなことは言えないが、概略としては各種の展覧会で不許可とされ展示を禁じられた作品群を集合させたものであるそうだ。
不許可認定を受けた表現物といえば大抵はエロやグロだが、政治的や犯罪的、または不法行為を助長する恐れのあるものや、法律に抵触するもの、人権を著しく傷つけるもの、他者他国を侮辱する内容を含むものなど、まあ基準はそれぞれで、観る者によっては差別的である、侮辱的であるなどとクレームがつくこともしばしば。

また時代が時代なら、反社会的、反体制的、敵性国家的、国家侮辱的、非国民的、等々社会体制によって理不尽な抑圧が行われ、表現の自由は侵されてきていますから、そういったものを体制崩壊後にあえてクローズアップするムーブメントはどこでもあるようです。

ですから今回の展示でも、主催者側はある程度の批判は覚悟していたようです。
ただ、かなりお門違いの意見が目立ち、アートとは、表現とは、を表面上でしか解さない愚民達によって当の展覧会自体が肉便器に処されたといってもよいでしょう。

各作品がどのような経緯で社会から抹殺の憂き目に遭わされたのかは解りませんが、ただ一つ言えるのは、この愛知県という巨大な自治体を上げて、巨額を投じて興された美術展として、この様な表現物は相応しくはないということであります。
後述しますが、結果的にそうなっているから、もう断言しちゃっても良いでしょう。

だからこれ以上延焼して、マスコミの格好の餌になる前に引き下げた方が良いでしょう。
主催者側が、「ちゃんとした説明」が出来ないのならこんな展覧会封鎖した方が良いです。


とまあ、ここまでは言っておきます。


しかし、私が思うには、「表現の不自由、その後」という企画展として一つのまとまりを得ているのであれば、それら不許可物を包括的に俯瞰することこそが正しい鑑賞スタイルではないかと思います。なぜ展示不可となったのかその経緯や理由も明記されているというのだからそれはそれで興味深いではないですか、そして挑戦的ではないですか。

無論不許可である意味を考える、というのは公権からの抑圧を問題視するという意味だけではなく、倫理的に、公序良俗的に、社会規範的に問題なのではないかという、考察も含まれるべきでしょう。

今回最もクローズアップされたのが、慰安婦像に酷似したオブジェや、昭和天皇らしき人物の写真を焼く、などの展示です。
これらの設置や行為は、実際に一部の政治運動団体、反社会的団体により常套化されたプロパガンダに酷似している。
日本人であれば、これらの作品が巨額の公費を投入した公的な美術祭に展示されているという条件を聞き及べば、同じような感想と感情を惹起させるだろう。

主催者側がそのような社会思想をもって、展示に踏み切っていると捉えられても仕方がない。
そのくらい、一方的な印象で物事を見てしまう。それらの材料だけは我々の周囲に有り余るほどあるからです。

これを発表した創作者自身が、(慰安婦像や天皇陛下を)知ってか知らないでか、オマージュなのかリスペクトなのか、内的批判のメッセージを込めているのか、全く解らないが、少なくとも創作活動を人生の旨とする人物が、さほどの覚悟も意志もなく扱うには軽率だと思われるし、芸術であるからして、あえてタブーに挑戦したのだとしたら、あまりにユーモアに欠けると思うのは私だけでしょうか。

例えるなら、この少女像の隣に、札束を持った女衒のおっさんが座っていたなら捉え方は180度変わっていただろう。
(無論だからといって芸術的だとも、面白いとも一切思わないが)

単体では美術展覧会の現場で存在すら許されないレベルの作品であるから、その「面白みのなさ」故に、展示は不許可となった、批判を浴びた、そのように捉えてみれば、現在起きている騒動は、納得のゆく反応でしょう。

改めて言っておきますが、これは諸所の事情により展覧会からハブられた作品をより集めた、「表現の不自由展」という企画展であり、いわば「表現の権利はあるが、芸術的価値のない作品」をひとまとめに企画として作品レベルにまで引き上げたという解釈をすべきではないでしょうか。またはそのように捉えることも出来るということです。

こんな面白くもなんともないものを集めて美術展に出す意味は、「過去に、これほどまでに趣旨を曲解、あるいは誤解していた作品があります、皆さん観て笑ってやってください」という声も聞こえてくるような気はしませんか?

大事なことなのでもう一度いいますが、表現の自由は侵されてはいけない。

だが、それに対して我々がどのように反応し、表現するかも自由です。

我々は一つの物事に囚われて、一つの考え方しか出来なくなっている。個々人が意見を発表する機会があるせいで、自己を担保されているように錯覚してしまいがちですが、結局は二者択一の世界に引きずり込まれているだけです。
私は、アートに潜む表現はヒトが持つ潜在的な感受性に直接訴えかける手段だと解釈しています。そういう意味ではイデオロギーに依存したこれらの作品はヒトへの訴えかけとしては悪手中の悪手でしょう。
少女像からは「平和を訴えかけたい」というメッセージよりも、政治的メッセージのほうが伝わってきますから。

ヒトは悪いモノではない。
ただ、素直にはなれない。
人それぞれ、様々な事情があるから。

理想の文言を掲げはする。
だがその通りに事が運んだことなど、人類史上皆無である。

だが、理想は語り続けなければならない。理想は叫び続けなければならない。
声に出して憚る時は声を潜めることも必要だろう。口を噤まなければならない時は文書にしたためることも必要だろう。
文字が読めない者や、文化の違いがある同士、感覚器官が不自由であったり、社会基準の相違が著しかったり。

そういった者達が互いにぼんやりと持っている理想を共有するために、芸術という技術は生まれたのではないでしょうか。

そんな芸術における永遠に等しいかと思われるテーゼ、「表現の自由」を謳わなくても良くなった時、我々は初めて表現の自由を得るのだと思います。

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