どうしてもヘッドライト光度があがらず。
やむを得ずヘッドライトごと交換となりました。

どんより曇っています。メキシコ製ビートルのヘッドライト。
このボッシュのレンズ。何故か絶対曇る。しかも内側から。
で、高年式のビートルにも言えることですが、シールドビームだけで交換できないので、リテーナーごと交換という不経済さ。

今回は小糸製です。普通に光度が出ます。
たまに、ボッシュ製が良いなどという言葉を聞きますが、私はいままで、とりわけボッシュが優れていると感じたことはありません。
むしろブランドがついてるせいで、ダメな製品に当たると悪い印象が残るんですが・・・。
まあ、いいや。
今日は昼から大変なことになりました。京都アニメーションのスタジオが全焼。犯人の手口からして、大量殺戮目的の放火と思われます。知らないヒトは全然知らないし、関心もないかもしれませんが、世界に名だたるアニメ制作会社で、素晴らしい作品を生み出しており、彼らの作品を心待ちにするファンは世界中にいます。
そこに何の因果かこの様な暴虐の嵐が舞い込んできて、多くの命を奪ってゆきました。
人は人を恨んで、憎んで、殺めることも厭わない。
何故か、何故やったのか、社会としてそれを問いただす意味はあるのかもしれない。
だけど、そいつの言い分なんて聴く必要あるだろうか?
「俺は不幸で不遇で、不具合があった」
そんな話を私たちは聴く必要があるのだろうか? 理解してやる必要があるだろうか?
私は犯罪者は自分の意見を通すため、あるいは自分の主張を申し開くために、行為を犯すものだと思っている。
そもそも、罪を犯してまともにいきてなどゆけないことは、本人が一番知っている。
だから、どうしても言いたいことを、行為と現象にして社会に見せつける。
人間なんて、大事にしているものはそれくらいしかなくて、言いたいこと言うために生きているようなものだから。
それができない人、言いたいことを言うための手段を持たない人間は、最後は泣くか怒る。
泣くしか出来ない奴の言い分を聴くほど余裕はないし、憎しみと怒りに縁取られた言い分を受け入れてやれるほど寛容ではいられない。
殺された被害者は、もう一言も言葉を発することが出来ない。
だから、自身の精神の平和の為に他者を殺め、他者を苦しめ、他者を悲しませた人間に、自己主張を語らせるべきではない。
我々は、そんな人間の言葉に耳を傾けてはいけない。理解してはいけない。
昨今、あまりに凶悪で身勝手な殺戮者が跡を絶たない中、世の中はこれらにどんどんと寛容になっているように思える。
口では許せないと言っている。だが心の内では仕方がないと言っている。我々は彼らを理解して受け入れてゆくべきだとまで。
それほどまでに、何の罪もない人々が死んでゆくのを社会現象として認めたいというのなら、学校や会社でサイコパス野郎と仲良く過ごす方法の授業や研修でもしたらどうだ。エラそうなことを言う社会心理学者や精神科医はまずそいつらを自分の助手として雇ってやれ。
「私たちは犯罪者予備軍なんかじゃない!」 「私たちはマイノリティなのだ! これは個性だ、差別すべきではない!」
そもそも、自分たちで言うな。 怖いわ。
まともな人間は、こういうことを言わない。予備軍だと思われないよう極力、偏見の極点から離れようとするものだ。
それをしないで、自己肯定を繰り返す事がもう、既にヤバい。
私はそのように思っている。
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