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六月になりましたね

2019. . 01
六月っていうと、祝日が一日もない、クソつまらない梅雨には入るし、蒸し暑いしの碌でもない月でありまして。

えー、六なのに、碌でもない。

はい、お後がよろしいようで。

てんちょのあやしいはなし

これ、ロクね。
よく、「ろくでもねぇ」とか「ロクなもんじゃねぇ」とか言いますが、じゃあロクってなんなんなのか?

私ずっと、ロクのことは「禄」と思っていたんですよ。俸禄のこと。武士の給料ですね。
だから、ロクな事がないとか、ロクでもない、とか言うんだと思ってました。

つまりロクってのは「よいこと」を指すと。

でも違いますんです。

ロクとは、陸。 陸と書いたら「りく」と読みますが、古い読みなどで「ろく」と読むことがあります。

陸とは、そもそもまっすぐ水平、平らである様などを指したようで、今でも大工さんの間では陸(ろく)、矩(かね)、撥(ばち)、などと建物の寸法精度を表す言葉として使われたりするそうです。
ですから、「陸なことない」、「陸でなし」、「陸なもんじゃねぇ」ってのは、「まっすぐ正しくない」転じて「平穏でない、まともではない」などというように使われるようになったのだとか。

ちなみに、しばしば充てられる、碌ってのは当て字です。特に意味はないそうです。

ま、「碌でなし」っていうと、半端なヤクザものだとか、犯罪者だとか、総じて人に迷惑を掛ける連中を指していうようですが。
先日起きた児童殺傷事件の犯人なんてのはまさに碌でなしの極みであり、あえて言いますが。

あんな奴ぁ、一人でこっそり死にやがればよかったんだよ!

と、声を大にしていいたい。日本国中に届けたい。
過去にも何人も、「死刑になりたかった」「死にたかった」という理由で、なんの関係もない、しかも自らよりもあきらかに弱者を狙って無差別殺傷を犯した者達がいたことは、記憶に新しいだろう。

だからまともな気持ちを持っている人間なら誰だって、「お前が死にたいだけなのに、何故他人を巻き込むのか? お前一人が死ねばよかったのに」そう、口に出さない人でもそう思う。私だって思う。遺族は切にそう思うだろう。

しかし昨今、こういう言説を流布すべきではないという意見がある。

それは、「やけくそになる奴らを見放さないために」なんだそうだ。

世間が、「死にたい奴は一人で死ね、勝手に死ね、お前のことなんて関係ない」と声を上げれば上げるほど、追い詰められた彼らは逃げ場をなくし、凶行に臨む可能性を大きくするのだという。
つまりだ。

一人じゃ何も出来ないホーケーチンポのドーテークンは、「それ見ろやっぱり社会は僕たちのことを馬鹿にしているじゃないか!」「僕たちのことを助けてなんてくれないじゃないか!」、「バカにしやがってー! くっそおお、こうなったら社会を恐怖のどん底にたたき落として、死んでやる! みていやがれ!」

と、なるわけだ。いい大人がだよ。

過去に何があったかは知らんけどね。
そもそも、人付き合いすら出来ない人間に、どうやって救いの手を差し伸べることが出来るかね?
君は一人じゃない、頑張れば出来るよ! その言葉を聞き入れない人間と対峙する時間の無駄というのを知ってるんでしょうか。

誰でも恵まれて生きている訳ではありません。皆、何らかの形で頑張って、今の立場や地位を得ています。
クソビッチな両親の元に生まれ、最初のスタート地点が最悪な場合だってあるでしょうが、それでもそういう家庭から育った人間が皆、子供や老人や障害者を巻き添えにして、自殺するような人間になっている訳ではない。

多くの人が、それこそ9割以上の人が、腐らずに頑張って、自分の人生をよりよくしようと生きている。ああはなるまいと。人を妬むまい、羨むまいと、ある能力を使い、ある材を駆使して、一生懸命生きている。
その彼らは必ずしも他人の助けを借りた訳ではない。自力でそうして這い上がった人のほうが多いだろう。
負けてはいけないと念じながら。

私はそういう人を幾人も見てきています。皆さんの周りにだってそういう方々がたくさんいると思います。

私はいつも負けた人間ではなく、勝った人間に視線を向けたいです。
頑張っている人には手を差し伸べますが、頑張る気がない人には目も向けません。
なぜなら、私はそんな暇ではないし、そんな使命もないし、そんな道楽者でもないからです。

社会が、彼ら犯罪予備軍である社会の落伍者に手を差し伸べるべきだ。

なんて私は到底思えません。
そこまで落ちる前に、どうにかならなかったのか? がんばったのお前? お前今までナニやってきたの? 申し開けよ。

そんなどうしようもない人間を、社会が全体で救わねば、人々を恐怖に陥れる悲惨な事件の再発は防げない。
だから皆さんで、哀れな彼らを救わねばならないのです。

おかしくないか?

たしかに、わざわざ、彼らを陥れ蔑むような発言をする意味はない。「死にたいのならお前一人で死ね」これは言葉の暴力だ。
だが、彼らは、いわれても仕方がないのです。
我々は、人間です。
だから悔しさとか、怒りとか、悲しみとか、持ちます。発露します。

彼らが社会に向けて発した怒りや絶望、稚拙な功名心と無軌道な復讐心。それは彼らもまた人であるからに過ぎません。
ただし、我々よりも随分とレベルの低い位置にいますが。

我々は、彼らのことをイヌとでも思えばいいのでしょうか?
我が子を野放しにしたイヌにかみ殺された。
イヌだからねぇ、イヌのやることだからねぇ、仕方ないよねぇ、とそういうことでしょうか?

私はやはり、彼らを同じ人間としては認めたくありません。
もはや人間の感情を失い、憎しみの権化と化してしまった彼らは、現代における「鬼」なのではないでしょうか。

機会と情熱があれば、「鬼」になりそうな人を止めることは出来るかもしれません。

ですが今の社会のシステムでは、一定の割合で必ず落伍する人間が出てきてしまうのは事実なんです。
豊かな世界の中でやむなく生み出されてしまう澱。

我々は、そういう彼らに気づかねばならないのでしょうか? 
豊かなのは社会であって、我々の心はけして豊かではないのに。

我々は、他者を助けるほどに豊かな心は持っていないのです。

この世の誰もが、「鬼」になる可能性を秘めているのですから。

そう思います。




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