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ハーレーのハンドルスイッチを、小型化しましょう、そうしましょう。
まず、はんどるに大穴開けます。もうこの時点でハンドル剛性が~、とかゆうたらダメです。
そういう意味では、剛性としなりだとか、耐久性だとか軽量化だとか言っているオフ車と、対極の存在がアメリカンバイクだなぁ、とは思います。
あちらは不整地の走行性能を追求して、行き着いた形ですからね。
そういう意味でも、こういった見た目重視の使いにくいスイッチ(スイッチ表面積はノーマル比30分の1以下)に替えるのはほぼ百害あって一理あるかないかくらいですが、まあこれが格好いいんだ。
こんな感じでつくんですよ。このスイッチケースは、あらかじめ1インチのハンドルバーにマッチするような形状をしています。
こんな感じに。
実際にやってみたらわかりますが、たぶん素人さんでDIYやったら、丸一日金ヤスリでシコシコしなきゃいけないと思います。スイッチが収まる穴は思ってるよりシビアですし、大きいです。

そしてスイッチ付けたら、配線作業。これが地味に面倒くさい。
けど、こういう作業って、なんか楽しいですね。
最近はめっきりというか、なんだかオリジナル指向が強くて、あまり改造車がもてはやされないというか、普通で綺麗なら良いみたいな、そういう風潮があります。
私としては、乗り物それぞれには一定のカスタムのベクトルがあると思いますし、それを突き抜けない消失点というものもあると思います。消失点、つまりカスタムのヴァニシングポイントを超えると文字通り、あっちの世界に行ってしまうので、カスタムではなく、そういう“存在”と成り果てます。
ハーレーを例にたとえると、スポーツスターの動力性能を上げようと必死になってカスタムしてたら、ビューエルが出来ちゃった、みたいな。
スポーツスターをカスタムするなら、スポーツスターのあるべきカスタムに落ち着くのが王道ですし、そこがもっとも楽しめる安息地ではないかと、そうおもいます。
無論そこにこだわることはないんですけど、物事には何でも加減というものがあります、という話です。
そう、「かっこいいは、つくれる」のですよ、ミスター。
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できるだけ気にしないでおこうと思っていたのですが、やはりちょっとどうかと思うので書こうと思います。
現在ロシアがウクライナに侵攻して、街や市民生活を蹂躙しているさなかで、国際的にはロシアに非難が集中しています。西側諸国は参戦を拒んで武器供与、医療品や食料、支援金といった後方支援だけに留めているのはご存じの通り。
我が日本も、ゼレンスキーから「復興の暁には力を貸してくれ」と、要するに金を送ってくれということなのだけど、それに大して日本の政治家諸氏は予定調和のスタンディングオベーション。
日本の政治家がこぞってスタンディングオベーションした、と聞いたときには身の毛もよだつというか、なんか本当に、心配になってしまった。
もちろん、日本人が自発的にスタンディングオベーションなんてしないのは明々白々、ちゃーんと脚本通りにやったに過ぎないし、なんでそんな脚本があるのかっていうと、アメ帝がそうしてたから日本も続けって訳ね。
こういう政治の側面から今回の戦争見てたら、歪には見えます。
ロシアの侵攻に乗じて、ロシアに関する文化の拒否や排斥が各地で始まって久しい。
一国の一指導者が起こした戦争により、それまでの文化や歴史、民族までもが否定される、そしてそれを国際世論が容認している。
これは、民族差別に他ならないのではないかと思います。
前にも話しましたが、文化というのは民族によって生まれ、継がれ、醸成され、今に至るものであり、住む土地や、着る服、食べるもの、それらはその民族のアイデンティティに直結するものであると思います。
仮に民族としてではなくロシアという大きな枠組みで見たとしても、ロシア国民は自身らの国から輩出された技術や文化、学問や芸術、文芸、それらを誇り、矜持とする部分は少なからずあると思う。それを有事であるからといって、外にいる人間が拒否し貶める権利があるとは私は到底思えませんし、ロシア人を差別し、暴言を吐いたり暴行を加えたりしても良いなどとは思いません。
ところが、我々の様なほぼロシア文化に無関係で、無関心な民族までもが、そのバッシングの尻馬に乗り、ロシアそのものを否定し「戦争を起こした国、当事者なのだから当然だ」とあまりに情動的に口を開くようになってしまっていることは、実に嘆かわしい。
ロシア軍がチャイコフスキーを流し、戦意昂揚を煽って進軍しているなら、聞いたり流したり、弾いたりするのをやめても良いと思う。
ロシア兵がドストエフスキーを朗読しながらマシンガンをぶっ放して無抵抗に婦女子を撃ち殺しているなら、図書館から撤去しても良いと思う。
プーチンがロシアンバレエのタイツを纏って、白鳥の湖を踊りながら進軍の指揮を執っているなら、世界各地を巡るバレエ団は石を投げられても仕方ないと思う。
もう一つ、件の戦争の周辺で話がにわかに持ち上がっている、気になる事がある。
これはプーチンが起こしたディープステート(闇の政府)との戦争である、という話。
端的に言えば、プーチンは正義の側にあり、我々は世界に欺された「目覚めていない人々」なのだと。その哀れな民を解放すべく闇の組織に立ち向かっているのが、トランプ前大統領を筆頭とし、プーチン、習近平、金正恩、などといった、いわば我々が想像しているのとは真逆の対立構造を裏社会の事実として情報展開しており、現代の社会を統べる全ての団体や指導者、国家元首は悪の手先、あるいは爬虫類人類だとか、地底人だとかいう、ああもう、な論調で、人類の恒久的な支配と家畜化を目論んでいると語られる、壮大な陰謀論です。もちろんコロナ禍騒ぎやワクチン詐欺もここに含まれるので、今の時間帯は余計に論が肥大して、元気いっぱいに暴れ回っています。
ま、この事に関しては否定も肯定もしませんが、この論を展開する人は、本当にフルチンで突っ走ってる感じがして、もう、誰の声も届かない感じがします。
そういう陰謀論というか疑惑がムクムク沸き上がる温床、マスメディアの杜撰さもあるのですが。
例えば、戦闘の惨状は映画の一場面の切り取り、爆撃の様子はCG、怪我人はクライシスアクター。
実際ウクライナは何の被害も受けていない、とか。
ま、ゼレンスキーはいつも身ぎれいに髪も髭も整えているなぁ、という印象は受けるので、あんたホントに戦場にいるのか? と思わないでもないですけど。
ちなみに、日本で首相とか責任者が災害時にこぎれいなスーツで、髪も髭もこざっぱりしてたら(それこそTシャツなんて着てたら)怒濤の非難に晒されるので、政治的判断として、おろしたての作業服を着て髭を伸ばし放題にするのが慣例です。
たしかに、マスメディアはねつ造しますし、過剰演出もします。
外の人々が想像する、最高、もしくは最上級の状況を演出して放映します。そうしなければ想像以上のインパクトが与えられないからであり、視聴者の満足が得られないからです。
解りやすく言えば、住んでいる地域から離れた場所でひどい地震があったとしましょう。そうすると人はテレビでその惨状を確認しようとするわけです。これは情報取得の側面もありますが、おおくは好奇心、野次馬根性に他なりません。
震度7とか8の地震があったとしましょう、なのに映像に映る景色は、建物の倒壊もなく停電も起きておらず、人々がほがらかに過ごしていたらどうでしょう。
テレビのチャンネル変えてしまうでしょう。
人はひどい地震の惨状を期待して、テレビを点けるんです。
期待通りであって欲しくないと願いながらも、期待通りにビルが倒壊していたら安心するんです。
私の住む地域も数年前比較的大きな地震がありましたが、表向きの被害というのはそこまで大きくなかったんです。死者も殆どいませんでした。
でも内部的には大変な家も多かったんです。家の壁がひび割れたり、屋根瓦が落ちたり、食器棚が倒れてきたり、断水、停電、ガスも当然止まっていて、普通の生活をするまでに数週間はかかっていました。
でもマスコミは、見た目的に派手に激しく損傷している建物の箇所ばかりをピンポイントで撮影していました。わざと、そこ以外を撮影しないようにアングルしているのが手に取るようにわかりました。
さも、全域がこれほどの被害なのだといわんばかりに。
だから今回の事も同じく、ウクライナ全域が廃墟になっているなどとは私も思っていません。まだ平和に過ごせている都市も街もあると思います。
ですが、普通に爆撃や砲撃で家や道路が吹き飛ばされて、子供や老人、非戦闘員の市民が巻き添えを食らっている。
これをして、ジュネーブ条約に違反をしていることが明らかであるから、良識ある世界は彼らを弾劾すべきだ、などといいたいわけではなく、普通に考えて戦う意志のない、ただ逃げることしか出来ない人間の頭の上に爆弾落としたらダメでしょう、ってだけです。
命令されてもそれはやっちゃダメです。
それが守れなかったら、ダメです。
太平洋戦争時もアメ帝は無差別に日本の都市を焼いて、あげく原爆まで落としましたけど、条約違反で裁かれる事なんてなかったんです。だから条約なんて無意味で、人は人としてあるべき法を見定め、その下に集わねばならないと思います。
人間同士が私利と私欲の元に生み出した譲歩案なんて、力ですぐに踏みにじられる。
私の友人の店の従業員にロシア人の女性がいるんですけど、この戦争が始まって幾度か心ない言葉をかけられたそうですし、実際に親族とは連絡が取れない状態にあるようです。
その方の話によると、たしかにロシア兵は欺されて戦場に連れて行かれることがあるそうです。彼女の叔父も軍隊に入り、訓練だと偽られ一年間音信不通になっていたと思ったら、還ってきたときには遺骨だったということがあり、それはロシアではさして珍しくない話だそうです。
ロシアでは普通にそういうことはあるのだ、と。そう受け止めていたそうです。しかし、彼女は日本に来て、それが異常なことだと気づいた。
そういった不幸を、悲しみを、憤りを知ってか知らずか、まるで森林を間引くかの如く行える為政者がまさか高潔で神聖な指導者とか、正義の使者だなんて、私は思えませんけどね。
しかし、だからといって、日本が積極的に肩入れする義理はない。
西側諸国、(おもにNATOの意向)に跪いて、尻尾を振る必要などない。
だから、日本の政治家が、脚本通りにスタンディングオベーションなんてしたのが、ほんとうにやるせない。
元は我々の国も、国家存亡の危機であると煽りに煽り、天皇陛下という一個人を神輿に担いで神であるなどと国民を欺き、同調圧と懲罰という恐怖で世論を操作煽動、支配し、多くの国民と若い命を損耗して、挙げ句、文字通り国土が灰になるまで戦争をやめなかった。
それを後世の歴史は戦前戦中の日本を「狂った指導者に支配された恐怖政治国家」であるとした。そして戦後の日本人は自身らの思慮思考を失い、あるいは自ら同調圧により封印し、民主社会が差し出す甘露を目の前に口を噤んだ。
今この二十一世紀において、かの時代の日本人および日本の軍隊は高潔であり誇り高かった、不正を嫌い厳格であった、全ての動機に正義があった、などと祭壇に据え、担ぎ上げようとする声が高まっている。それは世代が塗り替えられ、ある程度「戦勝国が用意した洗脳プログラム」が薄れかけてきているせいもあるが、なにより、日本という国が情報や知識の制限を設けない上、宗教的戒律や、イデオロギーに支配されにくい、世界的に見ても非常に自由な国だからでしょう。
結果論ではあるのですが、そういった世界が醸成されたのは、かつてとことんまで散った過去があったからなんです。民主社会を獲得するため、当時の首脳陣、指導者、権力者も(見える部分は)軒並み排除されたから。
だから、日本人はIFを語ってはいけない。失敗もした、欺されもした。調子にも乗ったし、非道いこともした。やることはやって今がある。
今我々日本人は世界の全てを知ることが出来るのに、またあの時代に戻ろうとしている。
どちらかの正義に肩入れして、破戒を容認しようとしている。
ウクライナを応援することは、平和を志向して、人命と人権を至上としながら、世界が一丸となってシュプレヒコールを上げているようにも見えるかもしれない。
だけど、やっていることは、自分勝手な大義名分の元に容認する破壊と殺戮行為に過ぎない。戦争など互いの勝手な言い分が通らず、利害が一致しなくなった末に起こるものに過ぎないのだから、何処の国であれ何れなり衝突の危険性はあるし、当然戦争はなくなることはない。
戦争の問題点は、ごく少数の人々が実行した戦闘行為における結果如何で、国民全体(個人の人生)の運命が決定してしまうことにある。
戦争は外交の延長であり立派な政治的手段などと高説垂れる者もいるが、おおむね外交に失敗したから戦争になる、というのが現代の常識といえます。
労働をし、税金を払って、いうとおりに法律に従って、憲法の下慎ましく生きて、国のことは政治家や役人に任せていたら、いきなり他国から宣戦布告され、徴兵、戦闘と。
外交で収拾がつかなくなったら結局国民のマンパワーをあてにして、じゃあその外交失敗の責任をお前らはとるのかよ、っていいたくなります。
多くの国は国籍を自由に選ぶことも出来ないし、無能な政治家や役人を合理的に国民の力で引きずり下ろすことすら出来ない。亡命や選挙がその手段であるなどというならば、「辞職投票」という制度を作るべきでしょう。
「立てよ国民!」、と威勢が良いのも結構ですが、結局のところゼレンスキーは国土と国民の命と財産に犠牲を強いなければならないまで追い詰められた、外交に失敗した政治家でもあるのです。
無論プーチンをして、隣の狂人かヤクザに見立て、相手が悪かった、と言うことも出来ますが、それならなおさら慎重にゆくべきであったでしょう。
だから日本の政治家が立ってまで拍手して、彼を称えるのはどういう了見かと、そう思うわけです。
日本には、国土が灰になり、国民が屑になるまで戦った歴史があります。
それはもっとも愚かな選択だったかもしれませんが、勝てるはずのない相手に楯突いたのは、国家としての矜持、国民としての矜持がそうさせた面があるでしょう。一億層玉砕の覚悟で全ての国民が立ち上がり、竹槍でB29を堕とせるとまで信じることが出来たのです。
ま、出来たというか、無理矢理信じさせられたというか、たぶん殆どの人は「無理じゃね?」って感じながらエイエイオーしてたと思います。
これね、今のウクライナの情勢と比べたりするのはちょっとアカンのかもしれませんけど、というかどっちかっていうとロシア側なんですね、日本人のやってた事って。
竹槍でB29が堕とせないってことは、訓練教官が一番よくわかっていたけど、そういうファンタジーで現実から国民を遠ざけることしか出来なかった。だって本土決戦が迫ってきたということは大本営の嘘がバレはじめていたから。
かつてのシベリア抑留で捕虜を奴隷のように扱うあたりなどから見ても、ロシアの兵士損耗率の高さは、人命軽視の結果とも言えるのでしょうけど、実は戦略戦術において現実を見ないで力押せばなんとかなるというあたりがお家芸なだけなのではないかと。
スターリンの時代から「ソ連の兵士は畑でとれる」と言われているくらいで、一万発の弾が飛んでくるなら、二万人の兵士を用意すれば、一万人は生き残る、という理論(?というか引き算レベル)がベースで、人材を育てたり、大事にする、ということにかの国の指導者はとても疎い気がします。
話がごっちゃになって何が言いたいのかわからないかもしれませんが、私自身はウクライナにもロシアにも肩入れする気はございません。ただ市民に被害が出てウクライナの方が悲惨には見えますし、実際国土の荒廃も深刻でしょう。しかし、懸命なウクライナ軍や勇気ある民兵にバッコンバッコン打ち負かされるダイコン兵のロシア軍も相当な数が死亡しており、故国で我が子の(軍事訓練の)帰りを待つ家族に襲いかかる、憤怒と悲哀と遺恨の温床を今まさに日々作り続けているわけです。
――戦争が。
それをよく知る日本は、再びそこに舞い戻ってはいけないのです。人が憎み合って、殺し合ってもやはり憎しみは消えない。
日本は戦争を放棄している。そのことをよく考えて欲しい。
憲法九条があるから戦争をしないのではなく、戦争でどれだけ多くの物を失ったかを知るが故に、戦争を肯定化しないし、出来ないし、やりたくないのだと、そう言って欲しいし、言い続けて欲しいし、言い聞かせて欲しい。
北朝鮮のように、敵国を攻撃するための賢いミサイルは、日本にはない。
だが、戦争はすべきではない、やりたくない、核も絶対ダメ! ってバカな声明を出せるのは日本だけの特権です。
ひとたび銃声が響けば思考が停止、涎を垂らして全てが灰燼に帰すまで撃ちまくる、そんなハッピートリガーな世界の中心で、我々は平和を叫ぼうではないですか。
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超久しぶりに林道ツーリング行ってきた。
ちょうど祝日ということもあり、普段一緒に走れない人達とマスが出来たのは良かった。
林道ツーリングという概念がよくわからない人の為に、改めて説明しておくと、通常のバイクツーリングというのは、地元からどこか程よい目的地に往って還ってくる、ということを指します。
ひとたびツーリングに出たその先には、道や天候に左右されながらバイクを操り走らせるという喜びがあり、目的地には地元にない美味しい食事や、珍しい景色、そして現地の人達との出会いなど、ちょっとした非日常を体験できたりします。ま、事故に遭ったり故障したり迷子になったりってのも体験できますけど。
そんな普通のツーリングに対して、林道ツーリングとは、目的地が定まっておりません。
定める人がいるかもしれませんが、それは便宜上であり、林道ツーリングの目的はあくまで、林道を走ることにあって、林道が何処にあるかで走るルートが決まるといってもよいわけで、そういう意味では何度も同じ道を往復したり、同じ地域をぐるぐる回ったりと、ロードバイクのツーリングに比べるとかなり小範囲で走る事になります。
当然速度域も林道ではまず50キロを超えることはありませんし、公道上では大切なオフロードタイヤをむやみに消耗したくないので、負荷をかけないよう法定超過速度なんて出しませんし、オフ走る前提のギア比なのでトップギア全開しても100キロ出ないマシンの方が多いです。
ちなみに私のマシンは80キロが限界でした。高速乗ったら損した気分です。
そんなオフロードバイクで、ひとたび林道ツーリングに出たその先には、荒れた道やガレた道や、泥でぬかるんだ道、倒木に阻まれ絶望に苛まれ、いやらしい根っこで滑って転び、飛び込んでくる野生動物に驚きと興奮を覚えながら、風雨にレイプされた山の道を、右往左往しながらバイクをなんとか操り、走らせるというか押したり引いたりするエクスタシーな喜びがあり、なんとなく林道を抜けて目的地にしていた地方の田舎町には、地元にない美味しい食事などはなく、かろうじて現地のおばさんがやっている美味くもまずくもない何の変哲もない定食屋でメシを食えたなら御の字で、大抵はコンビニでカップラーメンとおにぎりを買って外で食うというのがデフォ。そもそも泥足のブーツで店舗に入ればコンビニといえどもあからさまにバイトの店員が嫌な顔して、箒とちりとりを持ってついてきます。
無論、都会ではまず出会えない珍しい景色や美しい自然の植栽に感動したり出来ますし、現地の林業やハンターの人達にはちょっとイヤな顔されたりしますけど、昆虫や野生動物との出会いなど、ちょっとした非日常を体験できたりします。
ま、崖に落ちたり、コケて骨折したり、道に迷って遭難したり、バイク故障して山の中から徒歩で還ったり、さすがに熊に襲われたってのはききませんけど、こうして文字にしてみれば誰が好き好んでそんなことするんだって、思うようなことが林道ツーリングといえます。
私は林道を走ることももちろん楽しいのですが、その傍ら林道の先で出会う、未踏の自然に憧憬を覚えるのです。
なんせ我々が走るところは、ハイカーなどが進入しない、いわゆる「あんなところ景色は見えないし道は悪いし、汚いし、行くだけ無駄」と言われる「ハイカー受けの悪い山」が主流なので、人が殆ど入らないので、自然のままの美しさが保存されている事が多いのです。
このあたりがこういう景色になったのは、過去の人為的なものなのかはわかりませんが、ここ以外でこんな景色は知りません。こういった画像を見て、不思議とも興味深いとも思えない人はちょっと残念な気がします。
自然は我々の知らないところで意味もなく、関係もなく景色を作っていて、人はそれを都合良く切り取って、良いとか悪いとか言っているんですけど、まあ傲慢な話だなぁ、と。
こういう楽しさ、写真いくら見ても伝わらないと思います。
だけど、酸いも甘いも知り尽くしたいい歳こいたおっさんが、リスク顧みずに一日中エキサイトできる遊び、って聞くと少しは伝わるかな?
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このところ読者の方から、「最近記事数も少ないですけど、あんまり戦争の話書かないですよね」という事をよく言われます。
正直いうと、ロシアの歴史もウクライナの歴史も疎いし、勉強していないから、よくわからん、というところです。そしてそんな時間がないし、ロシア人にもウクライナ人にも知り合いはいないし、興味もなかったので、口を挟む理由もなかったからです。
そしてなにより、情報ソースがテレビ発信というあたりからして、あまり信用するのもどうかと思いますし、えてして業界の習わしは、「他人の不幸はみんなのエンタメ」ですから、ついぞわかりやすい構図を作成して大衆洗脳の道具にしようとします。
しかし、いくら便利だからといっても、一国の大統領がSNS使って自身らの窮状をポンポン発信して、力を貸してくれと訴えかけるのもどうかと思う。
米国の連邦議会で「真珠湾攻撃や911テロを思い出して~」と訴えかけたことについて、個人的には許さんので、今後訂正するまでは私はゼレンスキーは日本の敵とみなします。
そもそも、時代が違う過去のことや、状況が違う事柄を持ち出して、「人が死んでいる」事の共通性だけをあげつらって同軸線上で論じるなんて、ただの詭弁です。
自分たちは正義で悪いことをしていない、悪いのはロシアである、そう訴えかけるならそれでも構わないが、ロシアだって同じように言っている。
だからなんで我々日本人が何の義理もないウクライナに肩入れせねばならんのか、さっぱりわからん。日本政府はウクライナを助けたら、なんか得するように約束されてるのか。

今世論は、ウクライナ被害者、ロシア加害者、という構図で、如何にロシアの指導者であるプーチンが悪の枢軸なのかをクローズアップしてきている。
(不思議なもので、なんでそんな国を国連の常任理事国にしているのかって思うかもしれませんが、国連というのは世界政府的な統治機構でも監視機構でもなく、単なる「第二次世界大戦における戦勝国」の集まりであって、戦後世界の利権を貪るために作られた組織であると理解すれば良いです)
私があんまり戦争のことを話したがらないのは、戦争は今も継続中なので情報が錯綜して曖昧なことと、情報統制下なので隠蔽と操作が横行していること。そして結果(終戦・停戦)如何で現況における行為行動の意味が簡単に変化する。の3点から、現在の状況下で何を論じても意味がないからです。
それは太平洋戦争下における日本も、アメリカもそうだったので、我々は戦後も散々間違った教育を施されてきたわけで、強制的に罪の意識をすり込まれ頭を垂らされ続けてきたわけですし、対するアメリカ人は未だに日本人に対して謝罪の一言ないわけです。
しかも当時の間違った報道や、兵士や労働者の間で交わされた戯れ事が元となって、今になって社会問題、歴史問題として連綿と責め続けられる無駄な時間を過ごしているわけです。二十一世紀に生きる我々が。
そんなわけで、今ウクライナを神輿にかついでわっしょいわっしょいしている世界というのは、歪にしか見えませんし、担いでる奴らの顔は、欲どおしくいやらしい顔を浮かべてニヤニヤしているとしか思えません。
会社でもそうですけど、何処の誰が無償で他人に奉仕なんかするものですか。
信仰心があるから毎年祭が行われて、夜店がでて、神輿担ぐ奴がいるだなんて、子供じゃあるまいし。
全ては「得することがある」から「リターンに見合った投資」をしているに過ぎません。
それこそウクライナ国民とロシアの兵士の命を賭けの材料にして、武器弾薬を西側各国がベットしているようにしか見えない。ディーラーはゼレンスキーかプーチンか。はたまた西側諸国のお偉方か。
だから戦争に正義などないのです。太平洋戦争における日本が正義だと言いたがる人もいますが、それこそ「日本が生き残るためには、(戦い散っていった英霊達および、国を信じた無辜の民達に)ある程度の犠牲を強いなければいけなかった」という理屈の上に、かの戦争の正当性が構築されているのであり、そんなものは砂上の楼閣に過ぎません。(いわゆる欧米列強とか、白人至上主義系の国々より、日本の統治は随分マシだったというのは本当ですが)
本当に自分たちが正義だというならば、誰にも頼らず、誰の利益も損なわず、奪わず、誰の同意も得ることなく、自身の判断と責任において自身の生命と魂だけをベットするカジノに参加することだろうと思いますし、勝つとか負けるとか、そのような些末なことにかかずらって本質を見失っているようでは、到底「義」を通すことなど出来ません。
今にわかに、中国の侵攻が取り沙汰されるようになり、アメリカのあの態度を見る限り、日本の有事におけるNATOや安保理の対応は、従来のように政府が期待しているようなものではないかもしれない、自国を防衛するには核武装もやむを得ないのではないか、などと囁く民もおりますが、日本人は核武装するくらいなら滅んだ方がいいんじゃないでしょうか、というのが私の持論というか、情義です。
なんなら、すべての被爆者を罵倒し、抵抗する奴は投獄して、広島や長崎の平和記念公園をぶっ潰してから、核武装してほしいものですし、持ったなら単なる抑止力として保持するのではなく、実際に世界の何処よりも先に撃って、世界を滅ぼしてしまうくらいが丁度良いと思います。
知っていて持つのだから当然です。使わないでどうするんですか。
*私は研究者でも評論家でもないので、物の見方というのは多角的になります。角度が違えば言い方も変わりますし、状況や対象によって言うことも変わります。私はそれが悪いとは思いませんし、どれも間違いなく自分の考えであり、言葉だと思っています。
わかりやすい言葉で言うなら、素の自分は限りなくこだわりを持っていません。
しかし立場上こだわりを持たなければ社会生活がままならないので、都度その立場に応じたこだわりの思想や思考という「服」を着ているに過ぎません。皆さんも大なり小なり無意識にやっていることだと思います。
たまに、今日みたいに全裸で歩いてしまう自分がヤバいなって思うときがありますが、どうぞ皆さんみて見ぬふりをして、けして通報などなさらぬようお願いします。
ま、だいたいなんでこんな事言うかっていいますと、この現代において戦争するのに、物理でやる必要性なんて全くなくて、プーチンとゼレンスキーは仲良くオンラインで「大戦略」でもやって勝負付けたら良いじゃないですか、って思うわけです。もちろん双方のプレイヤーサイドは盤石のブレーンで固めたらよろしいです。
誰か知っている人がいるなら教えて欲しい。
なんで組織の方向性によって、わざわざ人を殺したり、建物を壊さなきゃいけないのか。めちゃ資源の無駄づかいだと思うんですけど。死体もでるし墓穴は増えるしゴミも出るし、いい事なんてひとつもないのに。
しっかり殺したり壊したりしないと気が済まないって言うなら、勝手にすれば良いけど、結局気分だけの問題なら、尚更自重した方が良いよ。「神の名において」って戦争してた中世のバカタレな人類じゃあるまいし。
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去年もやった、辛辛魚、新旧食べ比べ。辛辛魚2021年 http://chelm.blog37.fc2.com/blog-entry-1518.html
パッケージに大きな変化はなく、去年のバージョンを踏襲してます。2022年は「さらにコク深く重厚」とアピってます。
従来なら、この食べ比べ会。二月に開催するものでしたが、忙しすぎて3月になってしまいました。
そして、わざわざ冷蔵保存して1年間寝かせていた2021年度版。
本当に1年間冷蔵庫に入れてたのだよ、味が落ちるとダメだと思って。インスタント麺だけど。
このラーメン、元々は東京の石神井町(しゃくじい、って絶対読めない)の「麺所 井の庄」っていうラーメン店監修の商品でして、辛辛魚というのは商品名で、本物はこの名前ではないです。
ここまでインスタントにしても、テイストや雰囲気は再現できているなぁ、って私自身、数年前に現地行って確認しました。もちろん本物はこれよりも何倍も美味しいです。また行きたい。
と思ったらオンラインストアが出来てる! https://inosho.shop-pro.jp/
あとで頼もう。
正直なところ今回は、2022年は世間に媚びたなと、残念な感想です。
2021年モデルは去年の印象と違わず、攻撃的なしびれる辛さでした。
それが2022年は、文字通り「深コク」要素が加わり、まろやかになってしまっている、もはや別物。時流に迎合したな、とやや嘲りに似た感想を我々は口々に漏らしておりました。
辛辛魚はこうじゃないだろう! 長年食し続けている我々の舌の記憶が叫んでいました。
2022年モデルは美味かったんですよ。文句なく美味い。
でも、普通に美味いの。こんなもの恐れることなく誰でも楽々食えるわ! って思ったのよ。
こう、辛辛魚は、ちょっとビビりながら一口二口と食べてゆき、その奥にある旨みを見つけ出したときの至福を楽しむものだろうと、我々はそう感じておるのです。
一口目から美味いとか、そんなの辛辛魚じゃない!
というわけで、今年モデルはまたひとつ買って冷蔵保存するとしましょう。
来年に乞うご期待!
2022.
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意味深な画像ですが特に意味はありません。
我々の世界は何者かの手中にあるとか、地球は滅亡しかけてるとか、実は地球は平面で球体ではないとか。
そういう色んな噂が流れて、希望的観測も含めて憶測や邪推、推論、推察、類推、目算と、それはそれは想像力豊かに世界の考察があちこちで、様々な人々によってなされているわけですけども、どれも的を射ていないように思えますし、かといってどれが嘘でどれが本当でも、どうだって良いなって思っています。
だって、世界が闇の秘密結社に牛耳られていたとて、明日のあなたの仕事が変わるわけでなし、彼女や嫁はんが牛や豚になるわけでもない。そしてあなた自身に闇の秘密結社を打ち倒す権力もなければ、能力も才能もない。
明日も明後日も、みんなで決めたルールの中で淡々と暮らしを続けてゆくだけです。
なので今起きているロシアとウクライナのいざこざだって、別に関係のない話だと言えます。
考えても、声を上げても、プーチンもゼレンスキーもロシアやウクライナの人々も目の前のことを片付けるのみに一生懸命で、そんな彼らに我々の声は届きません。そして彼らは我々の事など認識すらしていません。断言できます。
だけど我々は、人類皆兄弟という言葉がよほど好きなのか、不思議なことに彼らのことを他人事と思わない性分があるようで、日々興味津々で事の成り行きを、テレビやネット越しに見届けております。
ボルシチってのを初めて口にした。意外だった。もっと、こう、濃い感じのシチュー的なものだという勝手な印象があったからです。たぶん皆さんもそう思っておるのではないかなと。
そしてボルシチってのはウクライナ料理であるというのも、意外と知られていなかったりします。
文化というのは隣接する集落から集落を伝って、何れなり伝播してゆくものですが、その過程の中で気候や風土、風俗などによりアレンジが加えられ、変化が繰り返され、いつの間にかオリジナルの文化とは似ても似つかないものになってしまう事は往々にしてあります。
料理や信仰、民族衣装や儀式、技術や知識、言葉や伝承等、それらは行く先々の土地で最適に根付いていったため、その地域に生きて住まう人々が民族として成立してゆきます。はては国という一つの大きな単位になり、世界地図に描けるほどの領土を形成します。
そういった部族、民族が一定単位で淘汰された姿が、今の世界です。
中には無理矢理領土を引き裂かれ、民族が分断せざるを得なくなった国もあります。
そういった場所では絶えず問題が起き続けています。
あるいは逆に一つの土地を複数の民族が取り合うなどといったことも起きています。
異民族集団同士が融和するのは本当に困難なことで、そこに争いが起きなかった試しなどありません。民族文化など、取るに足らないくだらないこだわりなのですが、人類はどこにいてもそれを手放そうとはしませんし手放すことを強要されたら命を賭しても戦おうとします。
今、世界中がロシアとウクライナの情勢に対して、「NO」を訴えかけている。
これまでの世界にこんなことが、こんな現象があったでしょうか?
ネットが普及したせいでしょうか、SNSが発達したせいでしょうか。
こんなに世界中の皆さんが戦争に対して「NO」を叫べるなら、もう、今後、一切の兵器を手に持つことはやめにしてもいいんじゃないでしょうか。
コロナ騒ぎであそこまで世界が共通の認識を得て、同じように対処したんですよ。
同じように規制をかけて、海外渡航を禁止して分断し、経済的な利益を犠牲にしてもあらゆる活動を止め、全世界の人々にマスクを付けさせ、従わないものには制裁を加え、この禍を乗り越えよう、厳しい道のりだとしても共に! と。全世界の人々の殆ど全てがワクチンを打ったんです。
そしていま、世界標準的にウィズコロナを叫ぶ事が出来たんですよ。
今までの人類史に、こんなことあったでしょうか。
世界は、人類は、ここまで一つになることが出来るようになったのです。
素晴らしいことではないですか。
今後戦争など起きようがないとは思いませんか。
人々は身勝手なこだわりを捨て去り、一つになるときが来たのです。
世界平和のため、文化の破壊と民族の解体は喫緊の課題であるのですよ。
人類史における悲劇と諍いは、その全てがくだらないこだわりに端を発していますから。
我々も、味噌と醤油を捨てる日が目の前に迫っています。
武器よさらば、味噌よさらば。
そう言われて、日本人は受け入れられるでしょうか。
2022.
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06

暑かったり寒かったり、まあこれも春も近づいているということですが、3月というのはバタバタとせわしない。いわゆる年度末というやつですね。
ウチも3月に終えなければいけない仕事ががっつりあるので、ぼぉーっとはしていられないのですが、なんせこういう時は一人が辛い、物理的に無理が出てくる。
まあ、死ぬほど働いて死ぬなんてのは、いい死に方だなと思わないでもないです。職場は戦場とも言われますから、職場で散るのは男の本懐かも知れません。
それでもこんな所で戯れ事を垂れているだけ、まだ余裕があるんでしょう。
っていうか、全く死ぬ気しませんけどね。
つくづく健康体。
ウクライナ情勢は報道見る度にどんどん興味がなくなってゆきます。
コロナも下火というか、ネタに飽きた感があるから、よりホットな話題を取り上げるのはマスコミの常でしょうけど、どうにも、この二年間のコロナ報道と、ウクライナ情勢の報道の仕方が重なって、ついつい斜めから見てしまう。どこから何処までが嘘なのかなぁ、どっちが嘘言っているのかなぁ、なんのためなんだろうかねぇ? とか。
ウクライナは正義で、ロシアは悪、みたいな構図、ちょっと単純すぎてハリウッドの香りがします。
でも、「罪を憎んで人を憎まず」、みたいな事やってるのは良いと思う。
21世紀の戦争って、こういう感じで進むんだなぁ、と感慨深し。
2022.
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04
こんなものまで売りに出すとは、相当困ってるんだなと思われても仕方がない、掘り出し物夜市です。
さて、今回ご紹介するのは、カルマンギアのテールエンド一式です。
はっきり言いますと、残念ながら下の方はもう朽ちてありません。
板金用のパネルとして使うより、どちらかというと、これでなにか作ろうかと考えていたのですが、そんなもん作っている時間もなく、労力の対価を得るにはまあまあお高い設定になるだろうなと思う次第。
じゃあ、もうここは、創作意欲あふれる気概のある方にお譲りしてしまおうと思った次第。
ごらんのとおり、ボディパネルとしての状態は良いと思います。リッドも綺麗に閉まりますし。
店舗などの庇(ひさし)に付けるのも定番ですが、リッドを開けた状態で中にクッションを設置したらおしゃれソファになりそうですし、巨大なバーベキューコンロにも加工できそうです。
なんなら、玄関脇において宅配ボックスにするのも良いかもしれません。
箱物として考えたら、ビートルなんかより使い勝手は良いような気がしますね。
もちろんパネル部品とりに利用していただいても結構ですよ。
リッドはお約束の錆がありますが、まだしっかりしています。
まあ、正直滅多なことでこの規模でのパネルなんて出てきませんから、マジでなんか作りたいって考えている人はチャンスですよ。
軽トラあれば運べます。発送も一応出来ますけど送料はどのくらいになるのかわかりません。
とりあえずこんなものでも買いますって方に敬意を表して
SOLD!
早い者勝ちです!
最近メールフォームがおかしいことが多いので、chelm@nike.eonet.ne.jp まで直接メールくださるか、お電話でお問い合わせください。
2022.
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02
という動画があがっていた。
渦中のウクライナ大統領ゼレンスキーの、コメディアン時代の映像。
まあ、本当に弾いているかどうかはさておいたとして、紛争当事国の大統領のそういった画像がリアルタイムに流れてくると、さすがに緊迫感が薄れる。
というか、逐一、仔細な情報が流れてくるので、それはそれで、まるでゲームの実況見ているようでもある。捕虜にしたロシア兵や、死亡したロシア兵のスマホに残っていた「母さん、ボクは今ウクライナにいる、訓練だと聞かされていたのに!」みたいなSNS投稿やメールを流してみたり、ロシアの戦闘機を軒並み撃墜するミグ29のエースパイロットがいる、とか真偽の程はわかりませんけど、そういった情報の漏洩を、統制されているはずのロシア側兵士や国民にむけて滔々と流しているわけですが、まあなんと言いますか、嘘でもなんでもいいやって思います。
というか我々が目にする情報も、結局は西側諸国の都合の良い情報だけが流れてくるわけであり、その裏でお馴染みの陰謀論を展開する人がいたりして、結局私からすると、「たいへんだCO2はちきゅうおんだんかをそくしんしているぞ」くらいの話にしか聞こえなくなって、正直どうでもいいやってモードになってます。
そもそも、今回の事でわかったのは、世論なんて単なる愚民の戯れ事としか思っていない為政者が、やると言えば何が何でもやるって事。そして国連はクソの役にも立たない組織であるという事。結局は自分の国は自分たちで守らなくてはいけないって事、そして長いものには巻かれておけ、って事。
壁塗りしてます。
こっちはこっちで日々生きてゆくのが大変なのだから、どこぞの外国のことをそれほど気にしてもいられないわけです。
まあ、中国が台湾攻略のついでに日本に攻めてきたら、それはそれでこちらも少しは考えないといけない事なんでしょうけども、結局は自民党がなんとかして貰うしかないわけで、今まで散々米軍をつなぎ止めてきた戦後の日本政治と、自衛官の皆さん日頃の訓練の成果を見せてくださいと。
どんな世界になるかはわからんけど、我々一般人というのは参政権みたいなみみっちい権利では、何にも変えることが出来ないという事がよくわかります。というか私の考え一つで社会が動くなら大変ですけど。
こんなものも塗ってくれ、という依頼。
こだわりのグレーの艶消し。普通の人は毎日色んな事考えて頑張って生きてるんです。
ウクライナの人も一生懸命生きてるんでしょう。ゼレンスキーも一生懸命です。
ロシアの兵隊も、ロシアの国民も、プーチンも、色々考えて頑張ってるんでしょう。
しらんけど。
とりあえず、戦争終わらせて冷静に話し合えよ。
現代はどこにいてもいつでも話が出来る環境にあるのに、なんでわざわざ殺し合わなきゃいけないんだよ、バカじゃネェの。
人間って戦うのが好きだね!
2022.
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01
ちょくちょく出てくる、花屋で働く友人のお話で、お客から「あの草ってなんですか」という質問がしばしばあるそうで、「は? 草?」と友人は質問の意味がマジわからないので、そういった素っ頓狂な声を出してしまうのですが、それもそのはず。
いかにもOLな彼女が指刺しているのは、いわゆる観葉植物だからです。
観葉植物のことを、“草”としか表現できない。
たしかに草というのは“葉”も包括しているので、間違いではないのですがニュアンスというか、あまりにそう呼ぶにはざっくりしすぎているのです。
あえて、草の定義を生物学的に書くと、“一年生草で、木のように木質部を形成しない植物の総称”、ということらしいです。
なので観葉植物を指して「草」と呼ぶのは間違いです。
また、切り花になった商品を指して、「これって育つんですか?」とも訊く。それに対して店員が「育たないですよ、根を切ってますから」と答えると「じゃあ死んでるんですか」とも。
さらには、木の枝を地面に刺したら、木が生える、と信じている人もおり、「生りませんよ」というと、「ええ! じゃあ木ってどうやって出来るんですか?」とマジで驚かれるらしい。赤ちゃんはコウノトリが運んでくるのだと信じているようなものです。
友人は、まるで幼児と問答しているようだという。
ものを知らないのか、言葉を知らないのか、いずれにしても本人は気づいていないだろうけども、格好の悪い話です。その驚きようからして、本当に知らないらしい。
言葉を知らないというのは、語彙力の問題でもあるのだけど、例えば「植物を植える」という行為において、種や苗を地面に埋設することを一般的には「植える」というのだけども、それを知らないと行為そのものの様子から「埋める」と表現してしまう。
間違ってはいないが相応しくはない。
埋めると植えるの違いは、植物かその他のものか、とも言えますが、それよりも、はっきり言うと「生きているものか死んでいるものか」という不可逆性の相違ではないかと思います。
なので生きているものを「埋める」のも、死体を「植える」もクレイジーなのでやってはいけないですから、そういう使い方はしないほうがいいと思います。
ただ、こういった人が増えるのはどういうことなのか、とは疑問を感じます。
メールや、ネットで明らかに文字を読む機会は増えているはずだし、書く(打つ)機会も増えている。それなのに何故語彙が育たないのか。「学校教育がゆとりだから」、という言い訳はもはや通用しないでしょう。かつてゆとり世代と言われた人でも(たぶん)立派な社会人です
私が思うに、残念ながらこの問題はもっと根が深いところにあると感じています。
植えると埋めるの違いは、明確に学校で教えて貰うようなことではありませんし、花や植物の名前を事細かに教えてくれる教師もいません。だけども我々はなんとなく、植えると埋めるの使い分けが出来ているし、埋設、埋蔵、埋没、などの熟語も駆使しています。それにわずかながら花の名前も知っているし、どういったカテゴリーの植物かも見ればだいたい分類できます。
おそらくは、これらの知識は意識して習得したものではなく、偶然や、必然性に駆られて、何らかの行為や会話により、ピンポイントで得ていったものだと思われます。
多くの場合、これらは体系的に習得したものではないから、知識というよりも、単なる記憶に近いのでしょうけど、それらを適切なタイミングで用法を間違えずに使用できるほどには、慣れ親しんで熟れている、と言えます。
そういったサブ的な知識が育まれにくくなっているのは、文字は打つが、単純に会話が減っている、もしくは異世代間の会話やコミュニケーション、あるいは幼少期における親とのコミュニケーション不足が挙げられるのではないかと思います。
さらには現代のようにメディアがオンデマンド化することで、個々人の興味の矛先が限定化しやすくなり、多様で雑多な無駄を行わなくても良くなることで、知識の空白現象が起きるのではないかと思われます。
今の自分に関係のないことは覚える必要も知る必要もない、というのは間違いではないですが、知識や情報というものはツールであって、今後関係するかどうか、役に立つかどうかは当面わからないものです。
ただ、ツールはなるべく多く持っていた方が対応力も上がりますし、ツールを駆使する技術もあった方が世の中を豊かに過ごせることは間違いないです。なにより人とコミュニケーションをとるのに非常に有利に働きます。
そんなことお前に言われなくてもわかっている、という人はいいんですが、まあ、観葉植物を草としか表現できないような日本人とはちょっとお付き合いが出来ないなぁ、と。
そんな話でございますが、私は逆にテレビの話(俳優や芸人、番組企画、流行歌)をされても全く解らないので、それはそれでコミュニケーション不全に陥ることがしばしばあります。
以前「えんとつ町のプペルって知らない」と言ったら、「あなた何処の世界の人?」とか思い切りこき下ろしてきた知り合いとは縁を切りました。