2022.
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30

車検場はパトカーも車検に来ます。同じく救急車や、消防車も。
こういうのって、身内でやりそうなもんですけど、外部の民間委託業者に車検頼んでいるみたいです。オン・ザ・ロードで遭遇したら距離を置くパトカーも、車検場ではケツにベタ付けです。
カブ、回収。トランポとして大活躍してます、タント。

インスタントラーメンにお湯を注いだら、お客が来る、というお店あるある。
というか、このどん兵衛、安売りしてたんだけど、ニンニク入れすぎ、これはアカン。これは売れへん。
なんだかんだで一月も終わりに、なんとなく今月は長く感じた。
特に規制もなかった秋から冬にかけて、そこそこ飲み屋さんも調子が戻ってきた気もしますが、実質コロナ以前に戻ることはないだろうなという気はします。
ウィズコロナかゼロコロナか、どっちでもいいですけど、世界を書き換えるか、入れ替えることにはまあ成功したのかも知れませんよねぇ。
感染爆発とか、まあ、その、なんですか。最近どうでも良くなったので舌鋒が鈍いんですが、
いままで毎年のインフルエンザの感染者数とか数えたことないと思いますけど、たぶんコロナの感染者より多いと思います。
そんなことはもうわかりきっているんでしょうけども、でもブースター接種を勧めたい政府としては、不安をできるだけ煽ろうと腐心しているわけで、まあそれが日本国のためになるんならいい事なのかなぁ、とかとか。
で、ちなみに国から見たときの国民ってのは、個人ではなく数であって、大事なのは誰が死んだではなく何人死んだか、であって、オリンピックでも誰が金メダルを取ったかはどうでも良くて、何個金メダルを取れたかが大事なことだし、誰が、どんな人間が生まれるかではなく、何人生まれるか、人口が増えるか増えないか、ということだけが重要なんですね。
だから、連日数字だけは大々的に報道されます。だいじなことですから。
私からするとどうでも良いことだし、つまんないことだなって思いますけどね。
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2022.
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25

最近、山グッズを手に入れる度にうずうずしている。
今回は、マチェット。山刀やブッシュナイフなどとも呼ばれていますが、それぞれその境界線は曖昧な感じですね。初めての一本なのでお安めのものを。でもGERBER。
めちゃめちゃかっこいい!
ブッシュに入って薙ぎ払いたい!
で、山に行く。
いつものマイフィールド、マチェット振るいながら道なき道を分け入って谷に向かって降りてゆくと、開けた場所に出てくる。雑木が邪魔でよく見えなかったのだけどなんだか向こう側が白いなとは思っていた。まさか雪? なわけないし、なんだろうと近づいてみたら、残土の投棄場でした。
誰も入らないような山というのは、しばしばこういうコトをされます。(ちなみにこの土嚢袋みたいに見えるのは、ひとつが人間の背丈くらいの大きさですからね!)
山の持ち主には「資材置き場として借りたい」などと説明しておきながら、実のところタダで不法に残土を投棄する場所として使うような(熱海の奴はそれ)ことがあります。
この山が何処の誰のモノで誰がやっていることなのかは知りませんので、違法かどうか不法かどうかなど私にはわかりませんし、妙な言いがかりを付けるのもよろしくないので、場所の特定は明記しませんが、これはヤのつく自由業の人々のしのぎとなっている「残土ビジネス」の可能性もあります。
残土ってのは、産業廃棄物とちがって、扱いが曖昧で、かつて我が国で公害が問題になったとき、1970年、廃棄物処理法が成立、その中で残土は土であり、「廃棄物ではなく資源である」、という位置づけをされたため、国が強く規制する事が出来なくなったそうです。
この残土ビジネスが成立する過程は、建設業界が伝統的に多層の請負構造を持っているためで、元請けが下請けの業者にどんどんと仕事を投げていった結果、どこかで残土処理の行方が曖昧になるのです。最終の運搬業者が不法に捨てる場合もあるし、処分場が不法に捨てる場合もある。また土地所有者が自身の利益のために自分の山に捨てる場合もある。
ただ、先にも書いたように、「捨てる」というのは少々語弊があり、「土は資源なのだから、保管している」という言い訳が何処までも通じてしまうのが今の建設業界で、そこが規制の厳しい産廃とは違う。かつては産廃ビジネスこそヤのつく人達の資金源で、廃棄処分場はその他の都合の悪いモノも処分できちゃうパラダイスだったんですが、国の規制が厳しくなって今はもっぱら残土になったと。
これは私の邪推ですけど、当時残土を「資源である」などとして廃棄物扱いから外したのは、ヤクザの資金源を残すためだったのではないかなぁ、と。
その筋の議員が、当時の法案成立に強く関わっていた、としても別段驚きません。こういうのもシビリアンコントロールというのですよ。
まあ、何れはこれらも分解されて、山の一部にはなるんでしょうけど、これ、谷に捨ててるので長期的には水源が汚染されます。その側面から見ただけで、良くないことであることはたしかなんですけど、ねえ?
大阪駅、時空の広場。
昼の11時30分、だーれもいない。
すばらしい。山の中のように静かだ。
2022.
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22
最近、ブッシュクラフトなる動画をよく見ています。
ブッシュクラフト、というのは森林などの自然環境下における生活、あるいは智恵や行為や技術、全般を指していいます。
しばしばサバイバルなどと混同されがちではあるのですが、サバイバルの場合は生き残り帰る、という目的であり、ブッシュクラフトの場合は継続的に定置し生活する、といった違いがあります。
もう少しわかりやすく言えば、サバイバルは生命維持のため、植物から補給したり、雨水を集めたり泥水の上澄みを上手にすする方法で、ブッシュクラフトは飲むための水を継続的に確保するため水源地から定住地に導入したり、または使用に適さない水質の水を濾過する仕組みを造り、あるいは飲料水を確保する方法、といった感じ。
いずれも機材等は最小限で、道具を限定する事に一定の意義があり、キャンプとは一線を画します。
動画のブッシュクラフトは大抵何もない森の中や川辺、雑木林などにほぼ単身(あるいは数人、あるいは犬と)乗り込み、整地から始まり、穴掘りや、現地で倒木から切り出した丸太などを利用して、住処の基礎作りをはじめます。
これは本格的なログ調の家を作る場合もありますし、半地下壕のようなダグアウト、ハンター小屋のような避難壕、あるいはビバーク用のツェルトのような簡易的なものまで、様々です。
ざっくり言えば、隠れ家、秘密基地って感じですかね。
何れも資材は現地調達で、外から持ち込まないのが原則です。あったとしても釘や紐などの最低限。
作れる建造物の規模はその山の植生にもよりますし、立地や人数や、道具、時間や状況などに大きく左右されます。
動画などは大抵何日にもわたって作られているので、なかなか立派なものが出来上がりますが、実際の所一人で山の中に家のようなものを建てようともなるとそれはそれは、資材の量だけでも大変です。
(ブッシュクラフト動画を見ていると、いかにも一人で何もかもやっているように見えますが、実際はカメラマンやアシスタントがいて、安全確保もされるし、食料供給や作業の手伝いは随時行われていると考えるのが適当かと思われます。でなきゃ、三脚をあっちこっちに据えて撮影しながらなんて無理ですし、そんなことしてたら全く作業進みません。)
力と持久力があればいいというものでもなく、やはりそこは斜面や不整地でモノを運んだり、石や岩や、粘度質が混在しているような地層を掘ったりするには、それなりの技術や経験が要ります。
先に「道具は最小限」と書きましたが、ちゃんとした道具を揃えていたとて、しんどいもんはしんどいです。あんなにサクサクキビキビ動けませんし、上手いこと作業が進みません。それに、つねに頭と身体と小手先を使いながらですから、そこのところもめちゃくちゃ時間がかかります。丸太一本を不整地で運ぶのも大変なら、山肌を人力で掘るのもクッソしんどいです。一日フルでやったら次の日なんて元気に動けません。
ですので動画のブッシュクラフトというのはファンタジーであり、視聴者をその世界の夢に誘うには充分すぎる魅力がありますが、現実にこんなに簡単にできるなんて思っちゃあいけません。
(無論、動画に登場する人物(ユーチューバー)はそれなりに自然の中での生活に慣れており、技術や知恵も兼ね備えておられる方々で、けしてキャンプ好きタレントがにわかで野外生活をしてみた、的なものではございません、第一ほぼ喋りません。私はごちゃごちゃ喋りながら作業してるユーチューバーあんまり好きじゃないので丁度良いです)
ま、そんなことを踏まえて、私はキャンプよりもこちらのブッシュクラフトのほうに魅力を感じるんだなぁ、ということが最近よくわかった次第でして、そもそも私自身、ブッシュクラフトという世界を知る以前に、似たようなことは既にやっているよなぁ、と。
そこで思ったんですが、最近はアウトドアひとつとっても、分類が多様化しているなと。
逆に言うと私のように、以前から自然にやっていたことが、外部の認識によってカテゴライズされてしまうような事が起きています。
無論カテゴライズされるということは一定のファンや、支持層が存在するということですから、私と同じような気質で、以前からそのようなことをやっていた人もまた世界中に一定数居たわけで、それらを世の中に公表するときに表題を付けると「ブッシュクラフト」と相成ったわけでしょう。
ちなみにブッシュクラフトという言葉が初めて出たのは、今よりもずっと不便で下手すりゃ実生活が野外生活みたいな人も居たであろう1800年代だそうです。SNSなどという“自慢装置”すらなかったにもかかわらず、(字面からして)自然の中で何かを作りたい、築き上げたい、という原初的な創作意欲だけで出来た趣味がそのころからあったというのは少し驚きです(もちろん今とは規模や概念が違うでしょうけども)

近頃よく聞く、ソロキャンプ、ソロキャンパー、という呼び名も、“キャンプ”から派生したのは明らかですが、そもそもキャンプはマスで行うものである、キャンプとはレクリエーションである、あるいは野外活動の上で必要に駆られた結果行われる衣食住行為であり、それ単体で論じるものではない、とまあ、キャンプの定義というのもそれぞれといいますか、個人的にも、組織的にも捉え方が違いまして、ことさらキャンプかどうかを論じる必要性はないのですが、えてして業界の人々というのは論じたがることが多いです。
で、そんなキャンプも様々な形態から、山岳キャンプだとか、レクリエーションキャンプだとか、教育キャンプだとか、ファミリーキャンプだとか、オートキャンプだとか春夏秋冬キャンプだとか、サバイバルキャンプだとか、ツーリングキャンプだとか、時に互いに反目し合い、相容れないこともありながら、まあまあ共存共栄して今に至ります。
一見趣味として地味なキャンプは、派手なアクティビティやスポーツの陰に隠れながら、特に爆発することもなく、バーベキューと同列くらいに連綿と人々の行楽日和のお供であったのですが、いわゆる業界で第一次キャンプブームというのがバブル終了後の1990年代にあり、車も四駆がバカ売れするなど、都会っぽいものから意識的に距離を置くかのような流れがありました。
一説によるとこの頃から週休二日制が導入され、人々の間にこれまでなかった余暇が出来たことが原因ともいわれています。
それから2000年に至るとすでにブームは去っており、そこから十余年、アウトドア業界に冬の時代が訪れることになります。ところが2015年あたりから、突如ブームが再燃するのです。
これは一説によると、インスタグラムのサービスが始まったことと関係しているようで、いわゆる“インスタ映え”の筆頭として、アウトドアの様子をアップした画像が一般人を自然のある風景へと誘ったのだとかなんだとか、おそらくはロハス系の画像なんかも影響しているのでしょうけど、IT社会にどっぷり浸かって、疲れ切った人々には癒やしに映ったのでしょう。
また、デジタル情報に織りなされる仮想体験しか知らない子供に、手で触れ、肌で感じる実体験をさせてあげたいというお母さん達の想いや、Amazonに代表されるネット通販で、様々なキャンプ用品が手軽かつ安価に閲覧購入できる環境が、お父さんの悪い癖を助長し、肥大していったようです。
あと、これは日本らしいっちゃあらしいんですが、“ゆるキャン”というアニメ作品が人気を博し、普段外に出たがらないオタクまでをも巻き込んで、第二次アウトドアブームが幕開けたそうです。
さらにここ二年くらいの傾向は、コロナ禍の影響から、密を避けるレクリエーションとして注目を浴び、かなり多くの層にキャンプは浸透し、同時にアウトドアアクティビティ、レクリエーション全般が注目され、登山、自転車、オフロードバイク、釣り、トレラン、沢登り、カヤック、クライミングなどもご存じの通り盛況です。

そんな猫も杓子もキャンプキャンプで、市街地近郊のキャンプ場は連日満員御礼という状況で、新しく開くキャンプ場もちらほらと。
そんなにキャンプばかりやってどうするんだって感じですけど、実際ハマります。これはキャンプには多くの人の心を鷲掴むファクターが内在しているからに他なりません。キャンプとは、現代の完成した生活を一時的に放棄し、衣食住を再構築する行為と言えましょう。あらゆる人が、どこかに必ず魅力を見つけ出せる行為だと言えます。
逆に言いますと、実生活にある程度満足したとき――というより“欲望が飽和”したとき、人々は一旦自然に回帰しようとするのかも知れない、と考えたりもします。第一次、第二次とブームの興りを見るとそういう気もします。
アウトドアという概念が日本に上陸したのがいつか、私が知る限りでは定かではありませんが、あえて日本のアウトドア・ゼロ年代を定義するなら、70年代に起こったペンション、ハイキング、避暑地ブーム、ジョギング、スイミング、テニスなどの健康ブームあたりが発端と言えるのではないかと。これもまた、60年代の高度経済成長期を経て、いわゆる3C(カラーテレビ・自動車・クーラー)が満たされた後に興っています。
昨今の流れから、キャンプ=自然を愛でる=エコロジー、みたいな図式を思い浮かべがちですが、それはあくまで結果的に発生する思想であって、元々は飽食の末にたどり着いた場所が、たまたま山であったというだけではないかと。
キャンプのような、不便で非生産的な行為を、あえて興じることができる人というのは、とりあえず幸福に到達していると言えるのではないかなと、思います。
同じように、ぼろを纏い、コンクリートジャングルで段ボールとブルーシートで組まれた、簡素な庵で暮らす人々もまた、我々の知らない幸福の一端を見いだした人々なのかもしれない、と思うことはあります。
ブッシュクラフト(英語:Bushcraft)とは、森林等の自然環境の中における『生活の知恵』の総称とされており、その行為や技術をそう呼ぶ。サバイバルと行為が似ているが、サバイバルは『状態』、ブッシュクラフトは『手段』と区別することができる。他に、目的で区別した場合、サバイバルは『帰還目的』ブッシュクラフトは『生活目的』と分けることもできる。ブッシュクラフトで実際に生活している人や、趣味としている人、生業にしている人、継続して趣味等でブッシュクラフトを行っている人を、ブッシュクラフターと呼ぶ。(ウィキ抜粋)
2022.
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19

久しぶりに三台積みした。なかなか活躍してくれます。ふつーにトラックとして使ってますよ。
もう、完成してから10年以上経ってますけど、そこそこにヤレながらも、改良が施されて、当初より随分完成度が上がっています。
まあ、私にしかわからないことですけど。
このタイミングで出すのもどうかとは思うのですが、1976 1200STD とりあえずこんな色になりました。
ビンテージ色とは少し違う、ビミョーな色合い。でも格好よくなりそう。
完成まではまだ先になりますが、買うよ! って人はお早めに~。
マンボーになる前に、呑みに。
居酒屋、換気しすぎで店内寒すぎ。
モツ炒めの油が完全にラードになってるんだが、いくら安いからって激サムの中でメシ食わせるとか、舐めてないか。
コロナに罹らんくても、風邪引くわ。
ああ、もう何が何やら、色んな事一人でやり過ぎて訳わからんくなってます。
一つづつ片付ければ良いじゃないかと、思われるかもしれませんが、ひとつのことに集中していても、部品の関係や、納期の関係で中断することはあるんです。
だからといって待っているのは時間の無駄なので、中断したら別の作業にかかり、それも中断したらまた別の作業、って感じで中途の仕事が並行してどんどん増えてゆくわけです。
だからいつでも作業途中なんですよ。
そう、私は、終わらない夢を見ていたいのです。
うそです。
2022.
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16

久しぶりに在庫車製作、はいいんですが、だからといって時間的に余裕があるわけでもなんでもなく、とにかく色々終わらせられていない。
お待たせしてしまっている方々、本当に申し訳ない。
海底火山が噴火して各地、津波の被害に見舞われているそうな。
海辺の人はお仕事しばらく大変ですし、海抜低いか、ゼロ以下の土地なんかはいきなり浸水ですから、日常も追いやられるわけで。今回の原因は遙か彼方、訊いたこともない見知らぬ土地で起きた火山ですが、住む場所ってのは人生に大きな影響与えるよね、って思います。
あ、今回の火山でどのくらい温室効果でたんでしょうね! さあ大変、今までの努力がだいぶ水の泡ですよ! 指標見直さないといけないんじゃないでしょうか? ねえ。
2022.
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15
いい加減車の記事を書けと、いわれそうだけど、なんだか気が乗らないので今日も関係ない話をする。
先日、フェイスブックに投稿したコメントで、警告を受けた。
中国に関しての話題だったのだが、私は「中国に対し」、という意味で「建国以来いい印象なんかないよ、チャリンコ乗っているときなら無害だったのに」と書いた。記事に対して全く関係のないコメントだったわけでもない。
結局そのコメントは削除されたのだろうが、何がいけなかったのかさっぱりだ。
最近如実に国際社会で影響力を上げてきている中国。日本なんてあっさり抜かれて今や風前の灯火。結局物量作戦には敵わないというか、安かろう悪かろうが、水は低きに流れるものだから、人もまた安価で手に入れられる仮初めの幸福に手を伸ばす。
「いい印象などない」、というのは国家体制のことであるけども、ビジネスシーンにおいても実際の所、否定的な要素の方が多いのはたしかです。ざっくりいえばルール違反が多すぎる。
ですが肯定的に捉えるならば、今まで先進国が自分たちの作った技術や意匠といったものを特許や商標登録、著作権などで縛り、富を独占し特権階級の形成にこれでもかと与していたところに、中国共産党が革命のメスを入れ、大衆化させ、世界にディストリビュートした、と考えられます。さすが共産国。
正直最近の中国製品は、いわゆる“中華クオリティ”という言葉が揶揄にならないほど、技術や性能が上がっており、さらにはオリジナリティも加わって、既存の同類性品を駆逐する勢いでリリースされる。もちろん純然たる“違法コピー”も健在なのだけど、ロゴが入っていないことくらいしか差違が見いだせず、使用に問題ないならばどちらでもいい、と思えるほどのものを作ってきている。
かの有名なブレンボという自動車ブレーキ部品の老舗ヨーロッパブランドがあるのだけど、それのコピーを作っている会社が台湾にあります。その製品にはもちろんブレンボのロゴが入っていませんが、見た目はそっくりです。ひょっとすると中身も同じ構成かも知れませんが比べた人もいないっぽいので解りません。しかし実際のところクオリティは非常に高く、仕上げは本家ブレンボと比べても遜色ないし、メーカーのパッケージもアフターもしっかりしている。性能はわからんけど。
ブレンボは各自動車部品メーカーにもOEM生産をさせているメーカーですが、もちろん台湾メーカーは純然たるコピーであり、何のゆかりもございません――が、割と堂々とレースなんかにも出ているそうで、版権でブレンボと揉めたとかはないようです。
そんなわけですから、程度や耐久性、性能、に関して全く使えないものではないとは思います。実際に実物を手に取った事がありますが、製品の加工や仕上げを見る限り、20年前のアジア製品とは比べものにならないほどの造りの良さではあります。
しかし、このブレンボもどき製品が、さらに中国メーカーのOEM商品としてコピーが出回っており、無論さらに安価で流通しているのですが、コピーのコピーが作られるほどブレンボが素晴らしいとも言えますが、コピー元になった台湾メーカーもクオリティが高いということです。
さっきから何を言っているのかと思われるかもしれませんが、これは日本製品の危機が始まっているということです。中国のような問答無用な国は、なりふり構わずルールやマナーを無視し、あるいは不正を働きつつも、資材と数にものを言わせる人海戦術でもって、いとも簡単に資本を動かすことが出来るので、結果オーライでビジネスには勝利できる。
チベットやウイグルにしても、自治区を無視してどんどん中国人を住まわせて民族の解体をすすめ、実効支配を企んでいるし、アフリカなどの貧乏な国に人や金や資材を撒いて僕にし、かつての柵封体制を構築しようと腐心しているようにも見えます。
何が怖いかというと、中国が自ら「我が国は民主国家である」などと言い出したことであり、為政者の政治が抑圧的独裁に見えるのは、全て国民の自由を勝ち取らんと努力を為した結果である、などと詭弁を弄するに似ている。
まあ、中国のいう民主というのは、共産主義ありきの民主なのだろうし、そもそも対外的に自分のところは民族浄化とか人権侵害とか、監視社会とか、階級社会、企業搾取、政治腐敗、他国への侵略など、そんな諸外国が批判するような事実はなく、我々がやっていることは全て理想の共産社会を実現するために必要なことである、と。
まあそのようにのたまうわけです。
ただ、我々というのは、そういった国を見たときに恐ろしい、不幸だ、不自由だ、人権がない、と戦きます。
しかし、よくよく振り返ってみれば何処の国でも理不尽な縛りや制限、権利の抑制、義務の重課を受けて、国民が国民たるには如何に振る舞うべきなのか、ということを小学校の頃から延々とたたき込まれているわけで、それに準じてちゃんとやってきた子は「名誉国民」として称賛され、国家の枢軸に値する立場を得るわけです。
結局は国家にとって都合の良い人間は評価されるのは何処の国でも同じだということです。
それが、正しいとか正義だとかそういうのは関係がないし、語るだけ無駄。
そういう意味において、中国の思想というのはある程度以上理解できますし評価も出来ます。
国民に人民服を着せ、天安門前で市民を戦車でひき殺し、モロ独裁国家感を醸し出していた自転車操業の閉鎖的なチャリンコ国家が、市場開放して今や経済大国、しかも宇宙にまで進出している。
もはや我々の生活に中華製品は欠かせないものになっていて、日本人ですらMADE IN JAPAN を有り難がる始末。
ま、中国アゲアゲな記事になってしまいましたが、同じアジア人として良き倫理観をもってして白人どもの植民地支配から解放を先導する巨大国家、という夢もなかなか。
日本は骨抜きにされたけど、中国ならやれるかもしれません。
今から50年後はまた、色々変わっているだろうしね。
2022.
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13

メールというものが一般的になって、文章で意志を伝えるということが、重視されるようになったのが2000年以降のこと。日本で携帯メールが生まれたのは1999年。一般の人々が気軽に文字によるコミュニケーションをはじめたのはポケベルでしたが、それよりも浸透率が高く今も標準機能として実装されているのが携帯メール。
とはいえ、いまではキャリアメールだとか言われていますが、SNSのアプリが登場してからはもっぱらSM(ショートメール)がその位置に落ち着いているといいましょうか、私的なコミュニケーションの手段として、キャリアメールは使用されることが殆どなくなったといっていいでしょう。
ですが、仕事や公的に関係するもの、例えば企業やメーカーへの問い合わせの際などは、メールを使用するかと思います。
文章で意志を伝えるというのはいわば国語力なのですが、自分が何を訊きたいのかを伝えることはもちろんですが、相手が何を訊きたくて問い合わせているのか、ということを見抜く洞察力と理解力はむしろ読み手側に要求されます。
ですが、しばしばこちらからの問い合わせに対し、返してきた側の文章がまるで理解できないことはあります。一度でわからないからメールを二往復も三往復もしなくてはいけない。ものすごく徒労感を覚えます。
文章が明快でなく、結局何が言いたいのかよくわからないのです。
それはおそらくこちらの質問の意図が解っていないか、自分が問われている内容に対して答える自信がないか、何らかの理由(面倒くさいなど)で保身にまわっている場合かと思われ、えてして本質に言及しないで曖昧な言い回しをします。
こちら側としては、欲しい答えや、手がかりを得ることも出来ず、それどころか問い合わせの結果が結局どちらなのかよくわからない、といった事があります。
質問に応えた担当者が商品を認識していないだけなのか、本当にその商品が存在しないのか、わからないのです。
わからない、しらないなら、解らないとはっきり言ってくれればいいのに。
文章というのはニュアンス(調子、感情、雰囲気)が乗らないから、口語と同じ様に書いたとしても、冷たく感じることはあるかと思います。SNSでのコミュニケーションなら絵文字や顔文字、(笑)などを利用して補完することも出来ますが、公式なメールではそうはいきません。
ですから、私達は元々から文語と口語というのは無意識に分けていたはずなのです。
冷たく感じるのも自然に看過していたはずなんですよ。
それがごっちゃになってしまったのは、メールという文章の羅列がコミュニケーションの手段として使われるようになったからだと思います。
どうにもね、変な時代になったなぁとは思います。
まあ、別に国語が崩壊しているとか、文章がなっていないとかそういう話をしたい訳ではなく、変な言い回しが増えたなぁ、とか変な文章がふえたなぁ、と感じるわけで、それによって要らぬ労力が増えることは好ましいとは言えないのですが、言葉は生き物と言われるように、常に流転してゆくものですから、日々これに対応してゆくことは現代人としての責務であるとも言えるのではないかと思うのですが、だからといって私の文章が良いとか悪いとかそういうことを言いたいわけではないということが、少しでも伝わればこちら側としては幸いです。
2022.
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12

わたしね、もう世の中の色んな事はどうでもいいやって思うことにしたんです。
コロナもオミクロンも、別にそれはそれで、気にする人は気にすればいいんじゃないかって。
今オミクロン株が流行ってるのかどうか知りませんけど、風邪でも重症化する人は居ますでしょ? そういうこと、一々やってたら、どんな感染症でもパンデミックになりますよ。
第一、コロナに罹るよりも、ワクチン打って熱出して倒れた人の多いこと。
もう、冗談みたいな話ですよ。
そんなもんをこれからは子供に打つってゆうてますけど、大丈夫ですかね?
ワクチン打って何か不具合おきても、それこそ死んじゃっても、やっぱり政府も製薬会社も責任とらないんですから、泣き寝入りですよ。だってシロートじゃワクチンと健康被害の因果関係を立証すること難しいから、訴訟すら出来ないんですよ。
子供は元々無症状が多く、重症化や死亡のリスクも世界的に低いのに、なんでリスクを負って打つ必要があるのか、私にはわかりませんね。
でもね、わかりませんね、って言ったところで何にもならんのですよ。
どう足掻いたってワクチンは日常になるし、何の意味があるのかよくわからない薬剤を注入させられるのが普通になる。そこから身体に起きる変化も予測が不可能になる。当然ワクチンのせいなどという“いいがかり”は封殺される。
よく言われている、ワクチンによる人口制御ってのは、なるほどな考え方です。
戦争とかすると大変だから、こうやって静かに、人道的な面をして粛々と進めていく。
本当の話なら、めちゃ頭いいやり方だって思います。
何故人口削減をする必要があるのかというと、地球上には人類が多すぎるからです。
これは本当の話ですけど、我々くらいのサイズの動物で、全世界で75億個体もいる動物種は他に居ません。家畜でももっと少ないです。
いずれ我々は家畜のように、生殺与奪権をしらず明け渡してゆくことになるでしょう。
でもね、家畜にもささやかな幸せはありますよ、きっと。
今までだって、国家に隷属してきたわけですから、今更新世界秩序の家畜になってもどうって事ないでしょうにと。
さて、ではそんな世界で失うものはなんだろうか? と考えたとき、命くらいならどうって事はないですけど、今まで散々「人はこうあるべきなんじゃないだろうか」という古代から積み上げてきた倫理観を人類がこの先も承認することなく滅びてゆく、というのが最悪のシナリオですね。
だから皆さん。
深刻なことを言うようですけど、
死ぬまでに、自分の「大好き」はできるだけやっておしまいなさい。そのことに対して相対価値を求めても、他者承認を求めても無意味です。ただ、あなたが心の底からやりたいこと、そのために生まれて生きているのだと、そう思えることがあるなら、ぜひ、この人生の中でやっておしまいなさいと。
そうしてあなたが笑顔になるなら、たぶんそれが人生の正解だと思います。
笑ったモン勝ちですよ。
2022.
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09

宝くじ当たったらなにしよう~ という話はクジを買った者だけが語れる特権であり、年末年始のこの時期くらいは往々にして酒席で飛び交う話題でございます。まあ微笑ましきかな庶民。
また、宝くじ当たったら買うわ~、といった話はクジを買った買ってないに関わらず、さらに時期にも関係なく、巷でよく聞かれますが、要するに「半永久的に買わない、買えない」と言っているのと同義だったりします。
で、自分がもし10億当たったらどうしようかな、と当選番号見る前に考えたわけですよ。
そもそもこのクジ、酔っ払って買った。気づいたら懐にあった。
そういう不慮の宝くじが、なんとビックリ大当たり! なんてこともあるわけでして。
10億かぁ。
とりあえず自分のローン返して、家族のローンも返済してやるかなぁ。
あとは、ええと。割と堅実に駅前の収益ビル買うか。
山一個まるまる買う、とかいうのも夢があるなぁ。
でも、結局金があっても、時間がなかったら意味ないからなぁ。
時間が買えるってのは、一番贅沢なことかも知れない、と最近思います。
だから古今東西の支配者は、究極の望みとして自身の寿命を延ばしたかったのかも。
ちなみに、この中に一枚だけ当たりくじあります
そんな宝くじに想いをはせるささやかな私は、クソ寒い中、豪奢なキャンピングカーの脇に跪いて、FRPのサイドスカートを補修しているのですよ。
扇風機みたいなのは、いわゆる遠赤外線ストーブ。寒すぎて樹脂の化学反応が起きない。
何もこんな日に、とは思いますが、なんせ車体がデカいので、店の前が空いているときでないとできないんですよねぇ。
宝くじ当たったらキャンピングカー、ってのも夢がありますが、まず人生に週休二日を確保できない私にとって、キャンピングカーほど無意味なモノはないでしょうね~。
2022.
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08

正月は何をやっていたのかといいますと、世間様に言わせてみれば何もしていなかった、と言えます。どうにも数年前とは違い、一日中酒を飲んで酔い潰れ、を三が日続けることは出来ないようになってきまして、なんとなく手持ち無沙汰になってきたので、近所の山を一人散策に出かけました。
といっても、ハイキングコースでも何でもなく、獣道や道なき道を辿るトレーリング。(と勝手に命名してそう呼んでいる)当然、人も入らない山の中で、主に谷底なので眺望なんて望めないのですが、そんな深い人が入っていない土地の風景に触れると、敬虔な気持ちになります。
それでも少し人里に近くなると、ちらほらとゴミが目立ってくるんです。
なので、今回はゴミ袋を用意して山に入り、歩く先々でゴミを拾っていました。それがこの写真。瓶とか缶とか、エロ本とか、あとなんか訳わからんモノも混じってますが、どうやってここに? 的なゴミも。
今年の正月は、鯛が手に入らなかったので、マグロのオミクロン。
尾身とはいえ、本マグロが激安だったのでこれとブリで刺身盛り作りました。
皮引きも上手くなった。
相変わらず自分で捌いて盛った刺身にはまるで食欲湧かないのですが。なんなんでしょうね。
山の話に戻りますが
私はネイチャリストではないので、海洋プラッチックとかには興味ないですし、Co2の濃度なんて知ったこっちゃないと思っていますし、温暖化はむしろ歓迎しています。
なので触媒のない車もバイクも大好きですし、ケモノの肉は食いますし、無料レジ袋は復活して欲しいと切に願っています。
そんな奴が思い立ったかのように野山のゴミ拾いして、冥土の査定の点数稼ぎしてるように見えるかも知れませんが、これは自分が歩く道の上に人工物のゴミがあるのが嫌、という大変身勝手な理由からやっていることですので、ゴミを捨てる身勝手な連中とさして動機は変わりません。
ただなんとなく、たまたま、世間様のバイアスにかけた時、私が良い事しているように見えるだけです。
なので皆さんは、こんな身勝手なことをせず、しっかり目的意識をもって、公のために2022年を生きましょう。今年も遅いスタートダッシュで、記事数稼げないかもしれませんが、本年もヨロシクでございます。