2020.
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皆様、大方の予想はされていたと思いますが、来る4月12日開催の予定であった春のVWイベント、「オレンジバグ」が中止となりました。会場は屋外の海辺であり、これ以上はないといった換気状態ではありますが、やはりこういった全国規模のイベントになると広範囲の地域から大勢の人間が移動すること、またそれらが一堂に会し濃厚な接触の可能性を経て、再び散ってゆくという感染拡大のリスクが横たわっており、日を追うごとに感染者、死亡者が伸びてゆく現状を目の当たりにしたとき、やはり開催は中止にせざるを得ないと判断されたようです。
何ヶ月も前から準備なされてきたイベントが中止になる悔しさは、筆舌しがたいものがあるでしょう。
各所各地のイベント主催者の方々は、常に苦渋の決断だと思います。
実際莫大な資金を投入して、開催により利益回収を見込んでいた方も多くおられるでしょう。
プロでもアマでも同じです。誰のせいでもなく、中止にすることが最良の選択であるという決断。
普段、平時なら当たり前に行われること、あってしかるべき事、当然のように置いているもの、そういった我々の普段の常識が崩れていこうとしてます。それを見て我々は愕然と、呆然と、頭を垂れるのは構いませんが、是非今一度、エラそうなことを言うようですが、どれほどのモノや事、人が、当たり前にあって、やってくれていたのか、ということを実感する、よい機会でもあるでしょう。
近くに来たので、ちょっと嵐山を見物。さすがに桜の季節だけに人はまあまあ多くいました。
不要不急の外出している自分が少し罪深くも感じますが。結局観光地ってのはイベント会場みたいなものでして、本当は観光地こそ封鎖しなきゃイケないんですがそうはいきませんよね。

嵐山でも普通に土産物屋や飲食店は営業していますし、人力車も元気に走っています。
これを海外メディアが観たら、日本は暢気だ、バカなんじゃないかと言われるかもしれません。
仕事を続けなければ生きてゆけない人々は大多数です。
コロナは怖いけど、辞められないし、仕事しないわけにはいかない。
命よりも仕事をとるのか? と問われてそうだと大声で言える人はいません。

そんな中で、「コロナ被害が怖くて仕事を辞めます」、的な書き込みがSNS上に増えている。
(私はこの様な書き込みは、ほとんどロビー活動だと思っているのでコメントするときも当の本人の(架空)人格をひっくるめてクソミソに叩くのですが、マジレスすると、これ以上続けてたら命取られる。ここまでして続ける仕事じゃない、って論調は、要するに身体の安全を確保して仕事をさせてくれという意味なのか、職場を閉じて給与保証をしてくれという意味なのか、客や周囲の環境のマナーや衛生観念を非難しているのか、ととれるのですが、なんでそんなに被害者ぶれるのかが私には解りません)
辞める寸前になって、あれがダメだからこれがダメだから、だから私が辞めることは正しい。これを引き留めるような行為は人権侵害であり、なんなら犯罪幇助で訴えるべき案件である、と。
であるから私は本当の被害者になる前に、職場を去ります。
と。
おりこうさんだね、とおもいます。
別にそんなこと世間様に公言しなくても、勝手に辞めれば良いのに。
ま、そんくらい人の心が荒んでるって話です。誰かのせいにしないとやるせない。誰かを攻撃しないと気が収まらない。

さて、それはさておいて
都市封鎖のデマが、昨日あたりからLINEなどで流れまして、皆さんも目にしたかと思います。
四月一日からだとか、一週間後だとか、情報の正確さを補強するべく、首相官邸筋だとか、民放プロデューサー発だとか、ソース発信元が添えられており、日用品や食糧が不足する懸念ありなので、今のうちに買いに走ることをお勧めします、といった文言が綴られておるのですが、もちろん嘘ですので踊らされないでください。チェーンメールです。
仮に都市封鎖(ロックダウン)した場合でも、日用生活品や食糧が不足する事はあり得ません。そんなことになったら、疫病以前に餓死します。
いま、買い占めに走っている人は、恐怖心に駆られているのでしょうけども、なんとか思いとどまってほしいものです。
こういった時にいつでも被害を被るのは、身体が不自由な障害者や病人、高齢者です。健康な人は流通を乱すような行為に加担せず、普段通りを心がけてほしいものです。
まあ、大阪が都市封鎖されたら、独立宣言出して、「ネオ大阪興国」を名乗りましょう。
ネオ大阪内の乗り物は空冷式内燃機関を動力源とするもののみ。主食はお好み焼き、たこ焼き、焼きそば。
通貨は東大阪のネジで、笑いをとれる人間が国王となる。国民の義務として一日二十人以上を笑わせなければいけない。
なんか笑えるようなこと、もっとあればいいのにね。
笑うと免疫力アップします(これはマジです)
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2020.
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29
すっごい久しぶりに、仕事っぽい記事書くぜ!

写真は54年のオーバル。
低年式の車はもとより、高年式、あるいは現行車両でも軽などのグレードが高くない車や、貨物なんかには、ドラムブレーキという内接式のブレーキが装備されています。構造としては原始的と言えるんですが、ブレーキ誕生から長らく愛されて百年。今も構造はほぼ変わっておりません。
利点としてはコンパクトに作れることと、簡易な構造で自己倍力作用が生み出せるため、装置のブレーキとしての使い勝手がよいため広く普及しています。
ちなみに、効きだけの話をするとドラムブレーキの方が強いです。
ただ、コントロール性や放熱性、ばね下荷重などを加味すると、結果的にはディスクブレーキの方が優れているという結果となります。ワーゲンの純正ディスクレベルなら、ドラムブレーキと良い勝負だと思いますが、以前にも言ったようにハブに負担がかかりベアリングを痛めるのと、最適な効きを得るには常に調整が欠かせないため、ディスクブレーキの方が一歩くらいはリードしているかなといったところです。

これも同じ車両なんですが、違う年式のシューが組まれていました。
というのも、54年までのシューは手に入りにくい時期があり、しばしば55年以降のシューを加工して使用していることが多くありました。今でもあけてみると今回のようなケースがよくあり、よく私もそのまま組んで間違えます。(要するに間違えた写真。一枚目の写真が正解です)

で、これもよくありますが、年式違いで長さの異なる、ホールドダウンピンが使われていたりして、この様にドラムに巻き込まれて破損していたりします。正しい長さのピンを使いましょう。

空冷ワーゲンと一括りにいえど、なにせ歴史が長いのでブレーキもそのたびに変わっており、ここは機能部品ですからやはり高年式の方が合理的な形になっていっているなという実感はします。
特にオーバルのサイドブレーキなどは、ケーブルがわざわざ180度曲がって後ろからバックプレートに刺さっていますし、何故か調整がフロントのアクスルビームの間にあるという、謎な構造してまして。なんでこうしたのかは正直なところ解りません。とにかくワイヤーをできるだけ長くしようとしたら最高のレイアウトですけど、設計段階で、ワイヤー業者への忖度があったのかな? とでも思いたくなりますね。
そうそう、国会発の流行語としての「忖度」なんですが、あれ以来様々なメディアや、または映画やドラマの台詞なんかに使われるようになり、我々も日常的に耳にするようになるほど使い勝手のよい言葉です。
しかし「忖度」は別に新語ではなくて普通に辞書に載っているので、皆さんが今更「忖度」を連発するのは変なんですが、じゃあ
それまでどうしていたのか? ってのがよく判りません。
いまドラマの台詞で「忖度」があてがわれている部分は、過去、「忖度」が流通するまでは、なんという単語が使われていたのか。
気になります、が、もはや調べる術はなし。
どうでもいい話ですが。
2020.
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28
この世の終わりが来たかと思うほどの腰痛に苛まれ、歩くこともままならなかったのですが、例によりセルフメディケーションして一日でほぼ回復した。
酷い腰痛の時って、上半身と下半身が生き別れになるような錯覚を覚えるものですが、じゃあ実際のところ、上半身として生きるか、下半身として生きるかって選択肢を問われると、私的には肩こりとか、頭痛とか、そもそも考えることすらめんどくさいので、圧倒的に下半身として生きていきたい所存であります。気持ちいのは下半身ですし。
それはともかくとして、なんでいきなり腰痛になったのかはよく判らない。寄る年波には勝てずということなのか。
まあ、人体も機械だから、壊れもするし、修理不能になったら廃棄されるわけですから、それはそれで仕方のないことだと、エコキュートに悪態つきながらも、渋々この原発社会を支える善良なる世界市民としての自覚を改めたわけです。

今月というのはどの業界もすっかり景気落ち込みシュン太郎で、もはや売り上げなんてないぜ! 的なお店もあることでしょう。
まだ自殺者は出ていないようですが、そんな折に定額給付のお話が出て参りましたが、未だに決定していないというアホンダラな状況で、最悪なのは特に落ち込んでいる水産畜産部門を活性化させるために「お魚券、お肉券」の発行を考えているなどと言ったものだから、そりゃあ炎上するだろう。
このボケさ。万死に値する。
そうそう、その自殺って話で思い出したけど、どっかのお笑い芸人が、政府の対応の遅さで自営業が逼迫して、店主が首吊ったら政府が殺したってことになりますよねぇ! みたいに非常に強い口調で言っている奴がいたけど、んな訳ねーだろ。
自分で自分を殺す奴が悪いに決まっているじゃないか。そんなこともわからんのか。
というか最近は、お笑い芸人だろうがえらく生真面目で攻撃的なコメントする奴が増えたよな、と思うのだけど、そういうこと言いたいなら評論家か研究者か総会屋か右翼にでもなれば良いんじゃネェの? と思います。
どうして本職がお笑い芸人なのに、面白おかしく批判をし、冗談めかした問題提起をし、ふざけ半分でコメントしつつも、最後にキリッと鋭いオチで人々をはっとさせ、楽しませることが出来ないのか。 ま、そりゃね、お笑い芸人とそうでないタレントを分け隔てるのも難しいかもしれませんけど、普段あなた方がやってるバカや、所属している業界に比べたら、あなたの批判対象ってのは割に常識人だと思いますよ。
脱線しましたが、世間の声としては「同情するなら金をくれ」じゃないですが、お魚券もお肉券も、期間限定商品券もいりません、とりあえず現金ください! とまるで乞食並みの要求をしておられますが、私としても全く同意します。
政府が金を配ろうとしているのは、金を使わせ、経済回して経済破綻が起きないようにという、社会維持のための施策なのですが、国民からすると求めているのはそこではないというのがありありと見受けられます。
そもそもお魚券お肉券をもらって、じゃあ高級マグロ食いに行こう、松阪牛をたべようぞ! などと誰が思いますか。
この閉塞した環境下で、しかも首都はそろそろ閉鎖の流れになっているというのに、不要不急の外出を自粛しろといったのはどこの誰か。
期間限定の商品券にしなければ、皆が貯蓄に回してしまう、それでは経済は回らない。
おっしゃることはごもっともだけど、商品券にして配るまでに一体どれだけの時間とお金がかかるのか、そこをよく考えて欲しいのと、店舗単位でどのように使用のルールを定めるのか、その通達に非常に手間と時間がかかる。
さらには、その使用の可否を巡る煩雑さから、自ずと市民は商品券を使いづらいとして、商品券そのものの転売行為が始まる可能性はある。仮に給付するのが10万円だとして、10万円分の商品券が9万円の現金になったとしてもその方が良いという人間はいるだろう。
私は給付金を貯蓄に回すということがそれほどダメとは思いません。
今目の前で10万円がもらえなければどうにもならないという日本人はほぼいません。むしろそういう人は給付金があったとしても受け取れる状態にはないだろうし、10万円ごときが自分の貯蓄から捻出できないような人はまずいません。
むしろ10万円ごときでは現在の状況を打開できない状況の人たちもふくめて、給付金現金10万円なんてのは国民生活にそれほど大きな影響は与えません。
というのは、日本くらい成熟した社会になると、金銭は物品の対価と考えるよりも、自分の人生におけるパッケージングの一定量の割合を埋めている物質と捉えます。つまり、自分の持つ有形無形の価値を一緒くたにして、トータルパッケージとして人生を俯瞰しているのが現代日本人といってもいいでしょう。
こういう考え方を専門でどう言うのかは知りませんけど、あるんでしょうか? ありそうですけど。
だから日本人は、漠然と「金がない」「先行きが不安だ」という言い方をする。「生きてゆけない」という言い方をする事もありますが、これは先一週間の食糧が手に入らない、という意味とはまた違います。もっと社会と繋がった一個人として落伍する事をいっています。
ですから日本人にとっての10万円の価値というのは、人生におけるトータルから見た、もしくは自身を取り巻く環境から相対的に判断した価値でしかなく、10万円で何が買えるか、どう使えるか、などと考えるのはせいぜい高校生までの子供です。
私の言っている事が全く意味が解らないとおっしゃるあなた、大丈夫、私も解っていません。
もう一度いい直します。
日本人で、今すぐ給付される10万円が必要な人は、いません。
断言しても良いです。
もしそんな人がいるなら、平時でも死にかけてるはずです。すぐに生活保護申請してください。
しかし、だからといって、給付するのは商品券ではダメなんです。
日本人にとって、お金は資源(エネルギー)なのです。
金がなければ人心は荒む。それすなわち、衣食足りて礼節を知るというそのままの意味です。
貧乏で食うに困るような地域は自ずと治安が乱れます。それはあまりに近い未来に、既に不安が見えているから。
当然そんな世界には何の保障も保証もなく、ましてや慈悲などもなく、常に食うか食われるかの非情な現実が横たわっています。
日本国内にはそんな世界はほぼないと言ってもいいでしょう。これは本当に素晴らしいことなんです。世界中探してもなかなかこんな国はありません。
ですがそんな日本人でも、この社会の中で生きてゆけないことは、それすなわち死と同然。
そのために、ある程度の金銭を持っておかなければ死ぬしかない、という自明が横たわっているから、一生懸命貯蓄をする。命を取られるからではなく、社会的に死亡することを日本人は恐れている。成熟した市民とはそういうことです。
10万円は大した金ではありませんが、日本人の心に10万円分の心の余裕が出来ます。10万円分の寛容さが生まれ、10万円分の優しさが持てるようになります。
それが、有形無形の価値をトータルで考えられるということです。(そういう考え方ができないような人もいるでしょうけど、それが良いとか悪いとか言うことではありません)
だから、現金給付は必要なんです。
心を消耗し、荒んでゆくのを抑えるために、目に見えるエネルギーである現金という共通価値を手にすることが大事なのです。
無論ですが、貯蓄する人も当然います。
ですが、10万円をもらった、という事実はその人の心からは消えませんから、おのず財布の紐は緩むものです。10万円の力なりに。人間なんてのはそういうものです。
庶民の感覚や心理を巧妙に計算して、大胆かつ繊細に人心を掌握する、それこそが政治経済ではありませぬか。
この不況下、不安と不満でストレスを抱える人を前に、まず政府として国民に対し何をすべきなのか、よくお考えになるべきではないかと。不可能なことをしろと言っているのではなく、今は損得を考える時ではない、出来ることはやれといっておるのです。なんなら現金10万円の上にお肉券とお魚券をつけて、消費税も5%とかにするくらい大盤振る舞いしたらよろしかろう。
ともあれ長々と書きましたが、私は経済学者でも社会学者でも何でもないので、先に某お笑い芸人を非難した手前、最後は車屋らしくそれになぞらえて、まとめさせてもらわねばなりますまい。
体は車、心はドライバー、金銭は燃料、人生はツーリング。
ガソリンがなきゃ車は走らないし。
走らない車を抱えていればドライバーの心は荒む。
ドライバーの運転が荒けりゃ車は傷むし壊れる。
よい運転とよい車と、燃料が必要量にあってこそツーリングは楽しめるもの。
だから、こんな時こそ、こんな時だからこそ、普段の消費社会に慣れきった自身と、そうしなければ維持できない社会を見つめて、あえて一言、自身に問いかけてみようではないですか。
―― ところであんたは、その車に乗って、どこに向かっているんだい? ――
と。
2020.
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26

毎日こんなに天気が良いのに、世間の話題は暗い。
日本ってさほどに警戒感がないせいで、海外からはなんでだ? 的に見られているとか。
まあ、日本って国は、強く国民を規制しなくても、自粛するからでしょうか。
いよいよもって深刻なのは、基礎疾患のない若者でもちらほら死んだりしている現状。罹っても死なねーよ、って笑っていられないよなぁ、と。
しかし、目下それより深刻なのは、経済の方でしょう。
日本人の経済活動は輸入に頼る部分が多いため、やれ部材や部品がはいらないと生産が出来ない、品薄になる、供給できない、需要がなくなる、といった悪循環が発生してます。
で、うちの自宅のエコキュートが壊れまして。うち、オール電化なんです。
修理を頼むと、10年以上経ってるので修理できない。仮に交換するにしても納期が読めない。
ときた。
あちこち見積もり依頼だしてみたけど、なんか歯切れの悪い答が返ってくる。
そんな中で、複数社と話をすると、悪い業者もいるってのはよく見えます。
ウチの家は高台にあるので搬入に手間がかかるんですが、「ユニック必要ですね」というところと「人力であげますよ」という業者がいる。それ自体は価格にそう大きな差額は出ない。
でもある業者に、ユニック必要かも、と口頭で伝えたら「ユニック使うなら、30万かかりますね!」とおっしゃる。
聞き間違いか、と思ったので、もう一回訊いてみたのだけど、30万だった。それプラス設置費用と商品代金。100万は降らんな。
ここ、「正直」を売りにしている(とデカデカとHPに書いている)エコキュートの激安販売店で、欺しなしの正直価格ですよ! と高らかに謳っていて、その屋号もそのままで正直ダセぇけど、正直ならちょっと印象良いかもって思っていたんですが、「正直にぼったくる」んだな、と。正直この時代にそんな判りやすいぼったくり方してて、正直私のようなブロガーに書かれるとは、正直思わないんでしょうか?
あとは「奥様はなんておっしゃってますか?」とか「3月一杯まではこの価格」とか、「在庫なくなるかも」(これは深刻だけど)とか、「他の激安業者は悪い噂がホニャララ・・・」
とまあ、妻にせっつかれてるだろう? とか、You、早く決めちまえYO! とか、うちは他と違ってここまでやるぜ、的アピールとか(普通に交換するものをあえて強調) と、いらぬお節介というか、いらぬ心配はして頂かなくて良いですし、とにかく契約を急かすので、それだけで「ないなー」と。
そんなわけで、しばし自宅はお湯なし生活です。
そして風呂は銭湯通いです。
不便だ。
そして、国内のエコキュート在庫が品薄で高騰したら、どうしよう。
私はここに来てようやく、関西電力に欺されていたんだなぁ、と思う次第。だって10年しか保たない装置が総額50万円は降らん上に、オール電化している限り、その家に住み続ける限り、買い直し続けなければいけないという無限消費のループ。死ぬまで何台エコキュート買わなけりゃいけないのだろうか?
そもそも、修理できないとかおかしいし。今だって構造なんて全然変わってないにもかかわらず、メーカーは補修部品がないとか言ってる。
あんな単純なもの修理できないわけがない。意図的に買い換えさせるための方便に過ぎない。
と、少し愚痴です。価格も資源もエコでもキュートでもない。

越冬していた蜂を保護して三週間。
ついにこの陽気で目覚めて、ふたたび春の青空に飛び立ってゆかれました。
越冬した蜂ってこの一年どうするんでしょうか? 詳しい人、いたら教えて下さい。
2020.
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22
すーぱーえすえっくす、と読みます。
元は普通の、スズキ SX200R だったんですけど、もはや原型解らないので、ドイツ語で「それ」を表すESをあて、試作機である旨のXをあてて、2020年式で SuperEsX2020R。
Rはなんだと? 令和の頭文字に決まっているじゃろう。
というわけで、仕事もしないでバイクを触る。

さてこの画像何が変わったのか!

アンダーガードを付けた。
オイルクーラー保護も兼ねて、かなり大きめのスキッドプレートともいうアルミ製のガード。

これにより、無理に取り回していたオイルホースを自然な状態に。

おまけに付いてきた部材で、オイルクーラーの取り出し口もついでにガード。
変な形してますけど、これどうもはスクバーナー用らしくて、見切りで購入、ばっちり装着できたので満足しました。
見た目、機能的にも最高の収まり感。
そしてそれに気をよくして、イグニッションコイルも変えた。

ノーマルの五倍くらいデカい。なんか汎用品らしいから仕方ないけど。取り付けに苦労する。これ普通にDIYじゃつかんよ。
私は加工とかなれてるから良いけど、最近安くで売ってるものって汎用品がすごく多いなって気がします。そのぶん、金使わず頭使うって感じなんでしょうけど。

で、どうなのかっていうと、始動性よくなりました。トルクが太くなったような気がする。キャブはチョイ濃かったのだけど燃やしきっているのか、結果的にジェッティング詰めなくて済んだ。

お山で一人、コーヒー。

こんな所を走ったり。

こんな所に遭遇したり。
山を走るのは楽しいですね。
というわけで、とりあえず思いつく限りのやることやって、林道専用車の完成。
人から見ると訳分からんパーツの組み合わせで、なんじゃこりゃ? なバイクになってますが、実際に走って使って、考えて出来上がった形というのはなんとも美しい。これぞ機能美というか。
ま、いいや。
仕事すっぞー
2020.
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22
春ですね。

ええとついつい先日まで知らなかったんだけど、きくちゆうきって人がSNS上であげてた「100日後に死ぬワニ」って四コマ漫画がありまして、リアルに毎日更新、(12月12日~3月20日)100日間続けるという企画。(実際は毎日ではないのかな?)
これが題名のインパクトもあり、数日でバズって、先日ついに100日を達成したんですが、私も一応全部読みました。あくまで物語として、「100日後に死ぬって言っているんだから、絶対死ななきゃいかんだろ」、って思いながらでしたけど。
100日目、あ、ふ~ん・・・・・・そうなん、だ。

漫画自体は何の変哲もなく、面白くない。我々庶民の人生くらい面白くない。
ただ、読んでいる人は「100日後に何が起きるのか」という不安とか期待に胸を膨らませて読み進める。
中にはワニに共感して、死んで欲しくない! って心から思った人もいるんじゃないだろうか。あるいは、こんだけ引っ張ってるんだからどんなオチがあるのか見てやろうじゃないか、って意地悪な読者もいただろう。
オチをいうと、死にます。
しかも、特に何の変哲もない死に方。

私も、この作品のことはほんの一昨昨日にお客さんから教えてもらったんです。18日に。つまり現作品の中では98日目。
100日間の四コマ漫画。何の変哲もない生活を送ってきたワニに死は、予告通り訪れる。しかしその死さえもけして特別なものではない、他人から見てみればただの風景くらいに収まってしまう程ささやかで密やかな死だ。
この作品を読み終えると色々と思うところはあると思う。
けしてメッセージ性の強い作品ではない。
読んだ人が、感じる、作品だ。
と、
おもってた。
その後・・・・・・関連サイトを覗くと、4月頭に書籍化、その後映画化という発表があり、4月後半には展覧会が開催、グッズまで売り出される始末。これ、完結と同時にですよ。
確かに10日目くらいでバズって、テレビなんかでも話題にはなったそうです。100日っていうと3ヶ月ちょいですから、そのくらいあれば企画も固まるけど、まさか結末知らないで企画すすめてたわけじゃないよなー、と。
ここまで素早く金儲けの話が食い込んでくると、さすがに冷める。
いや、これ、最初から、100日前から企画してたステマじゃねぇのか、ってのがネット民のおおよその感想。
やり方があからさますぎて、そして各種のコラボの連携がよすぎる。「100日後に炎上するワニ」って名言垂れてる人もいた。
だって、皆が結末知るのは昨日か一昨日くらいなんだよ。
普通に考えたら、そこまではどんな結末やオチがあるかは知らないのだから、企画も立てようがないはずなんです。
ってことは、もうかなり最初の段階かで、商売の話はあったはずで、企画の話も、ストーリーの展開も決定していたはず。それを作者は公言しないで、純朴に、素朴に、無言でXデーまでを書き綴っているフリを続けていた。
もっと最悪なのは、このSNSで漫画を描くというの自体がマーケティングの一部で、最初から企図されていた商売だったとしても不思議に思えない、むしろ自然に感じてしまえることだ。読者は人工的な社会現象に、まんまと丸め込まれたのではないか。
というのは私だけでなく誰もが感じる感想なようで、実際に記事のコメント欄は非難で埋め尽くされている。
人気の或作品にやっかみはつきものだけど、これは根本的に違う。
なんでここまで言われるのかっていうと、
これは、物語への冒涜であり、人の死を利用した金儲けだからだろう。そのように多くの人が感じてしまうやり方だからだと思う。
漫画を描いてるだけならそれでよかったのに、最後の最後で舌を出し、尻尾を出した。
悪魔が。
というわけで作者はどう考えてるのか知らないけど、最低な作品になってしまったよね。
ざんねん。
2020.
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19

うちのお客さんで唯一ですが、トゥクトゥク(TUKTUK)に乗っておられる方が居まして、当然修理も車検もするんで、二年に一度はこうして検査場まで走ります。
車検場から戻る黄昏の中、トゥクトゥクに乗っていると思い出すんですよ、バンコクの街で彼女と出会ったこと。
そして彼女が言っていたこと。いや、彼女が言っていたのか私が言ったのか、あるいは今の私がそのように感じているのか。
「人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと、愛したことを思い出すヒトにわかれる。私はきっと愛したことを思い出す」
――、という一文が大変印象的な作品、
「サヨナライツカ」 辻仁成 著
タイのバンコクを舞台に始まる狂おしく情熱的な悲恋劇。
10年ほど前に映画にもなっているので観た人もいるかもしれませんが、美しい物語です。
ま、ちょっとそういうの思い出したってのは本当なんですけど、

実は、失業したらタイに渡ってトゥクトゥクのドライバー出来るかもなぁ、とか考えてた。
というのも、この乗り物、キビキビと走らせるにはそれなりに技術いります。
ワタシケッコウウマイヨ!

もちろん車検は無事クリアしました。
いろいろとイレギュラーすぎるので、車検はこの辺じゃ私にしか通せないです。
もう十年以上のお付き合いですからね。
ではまた、イツカ、サヨナラ
2020.
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18

車検帰りに、近所の桜パトロール。
この写真じゃ解りませんが、もう今すぐにでも咲きたいぜ! とでも言いたげな蕾でございます。
さてさて、なんだか例によって、コロナ災害のあおりで景気低迷となり、政府は急遽景気対策に乗り出すそうで、とても大胆な、今までの考え方に囚われない、ダイナミックでエキサイティングかつセクシーな方策を打ち出すと、安倍ちゃんは言っておりました。
が、そこまで言ったのなら、阿呆、じゃなかった麻生のやった定額給付金12000円とか、ガキの使いみたいなはした金ばらまいてお茶を濁すんじゃねぇぞ、っと。
野党は無責任にもこの際消費税を一時的に非課税にしてはどうか? とか、とんでもないことを言っている。
意外と知られてない話ですが、消費税が一体どのくらいの稼ぎ頭なのかというと、全ての税目の中で、今年度をもってトップに躍り出ました。国家予算ってのはここのところだいたい100兆円です。そのうちの30%くらいが国債。あとの残りがその他と税収なんですが、税収部分だけで60兆円超えてます。その中でトップを張る消費税は20兆円を超えています。
これは20年度の会計データですから、4月からの来年度はもっと増えることになるはずです。
で、単純に20兆円を人口でざっくり1億人で割ったらどうなるのかっていうと、20万円です。
我々年間20万円くらい消費税払ってることになります。
就労している皆さんならすべからく感じているとは思いますが、年収の一割ってのは所得税として取られてますから、単純に計算すると、年収300万円に対してなら30万円、その他もろもろの税金や年金、保険料を支払っていることを考えると、だいたい二ヶ月から三ヶ月分くらい、つまり総収入の四分の一くらいは上納していると考えてもさほどの乖離はないのではないでしょうか。
ですから消費税を止めるなんて事は絶対に考えられないのです。
そこで定額給付金を、全国民に仮に2万円渡したとしましょう。
仮に一億二千万人としても、たった、2兆4千億万円です!
たった、2兆4千億万円で、済むんですよ。
これまでにない、大胆でサティスファクトリーでスリリングで、タイトでキュートなヒップがシュールなジョークとムードで景気対策を行うというのであれば、一人10万円くらい渡しなさいよ。ただし、渡すのは20歳以上60歳未のみ。老人世帯は生活保護名目の補助金として一律5万円でよろしい。なに? 子供にはないのかって? 贅沢言っちゃいかんよ。そんな大金は大人になってから手にしなさい。教育によくない。
しかし、あれだね。
安倍ちゃん、コロナで内心ホッとしているのかもしれません。
だって、実は消費増税からこっち、景気落ちてる事突っ込まれても、コロナのせいに転嫁できるからねぇ。
オリンピック目前でガンガン景気があがってゆくはずだったのだけど、まあ仕方なし。
10万ものあぶく銭があったら、結構やりたいこと出来ると思うぜぇ?
正直麻生の時は、12000円やるから使え、って言われてるみたいで、政治家の金銭感覚に絶望的な気分になったもんな。
いくら庶民でも、そんなもんで諸手上げて喜ばんからな。
2020.
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17

今日初めて気づきました。この歳になってもそういうことあるんですね。
これ、67のビートルなんですが、リアリッドはコンバーチブルのものがついています。大変貴重なリッドなんですが。
よく見てください。
左右、非対称です・・・・・・
き、きもちわるい。
ズレ方が微妙すぎて、気持ち悪い。

左はこう

右はこう
ううん・・・左右対称には出来なかったのだろうか。
ちなみにこれよりあとの高年式のスリット付きのリアリッドは左右対称です。 たぶん。
で、左右対称でないといえば、皆の大好きなオッパイですが、人間利き手や利き足があるので、オッパイにも利き乳があるわけでして、それはえてしてパートナーの利き手如何で変化するのかな、とそのようにも考えるわけですが。
今日のお話は、「その胸の内のプライドはオッパイかもしれない」、という話です。
まるで唄のタイトルのように美しい文脈ではないでしょうか。
いやすみません。下ネタじゃないんです。
昨日ふと思いついたんです。温泉はいってて。
オッパイって膨らんだりしぼんだりするじゃないですか。
でも、そういう変化があっても、骨格は変わらないし、生死にも関わらない。
でもあると、とっても自信がつくというか、誇らしい。(ですよね?)
大きすぎると厄介ですが、それなりにあるとほどよい感じで尊厳が保たれるというか。
いやすみませんすみません!
まあ、オッパイでなくとも、男の筋肉とかでも同じなんですけどね。胸板モリモリとか二の腕ムキムキとか、腹筋バキバキとか、そういうのあると、男でもそれなりに自信ついたりします。無意味に、根拠なく。
でも、男の筋肉って、基本的には使うためにあるんですよね。使ってたら勝手についたってのがだいたい普通。
ビルドしている人以外は、仕事や趣味における最適解な肉体が出来上がっているはずです。
ところが女性のおっぱいはそうはいかないのですよね。
使っていたら大きくなるとか言う人もいますが、実際使うっていっても、どの用途がもっとも正しいのかよく判りません。
そして、よいオッパイとは何かと問われても、やはり私たちはその最適解を導き出せないのですね。
皆さんが大なり小なり持っているプライドというもの。主にそれは人に誇示するものであることが多いですが、しばしば内省の根拠になったりもします。相対的であり、根源的であるともいえる。
プライドを盾に憤り諍う事もあると思います。
ですがそれはどこか、互いに向き合いながら、オッパイを手で隠し合っている姿に重なります。
何を言っているのか。
諸君。
つまりだ。
オッパイなどといってみても、所詮は胸である。
互いにそれを認め合ったとき、もはやそれを特別視に値しないものとなるだろう。
そして誇示するものなどではないと感じるだろう。
「僕にだってプライドはある!」
「俺のプライドを取り戻す!」
「あの人プライド高いからね」
「それが私のプライド」
プライドを全部オッパイに言い換えたら大したことないぞ!
頑張ろう日本!
明日から本気出す。
2020.
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15

今日の写真は頂き物です。
アイポン11の搭載カメラ、スゲーですの。この超広角。画的には17ミリとかくらいありそうだなとおもったら、なんと13ミリ相当だという。
普通のカメラならもっと周辺歪むはずだがその辺は補正してるんだろうか。
他の画像も見せてもらったけど、どうやら暗いところと明るいところを判断して、自動的に露出を変えているみたいに見える。だから肉眼では見えない景色が写る。写真でしか表現できない画になる。
今の一眼レフもこのあたりのことは出来るんだろうけど、自動的に処理をこなすと、「撮影者の意思を無視」する事になるため、余り歓迎されないのか、あくまで任意操作となっている。つまり補正を与えるかどうかは撮影者の意志を優先する、と。
しかしながら、正直なところ、このアイポンで撮れる画像ってのを、手持ちの十万越えの一眼で同じように撮れる気がしない、ってのは事実です。どれだけ機械的な補正を加えても、撮れんものは撮れん、そんな気にさせてくれます。
端的に言うと、アイポンで撮られた画像というのは、実に映えます。
というのも、このカメラ機能は実はカメラの目的とは少々違う場所を目指しているからだと思われます。
アイポンは撮影者の意志に的確に応える高性能なカメラを搭載したいのではなく、万人が想像し、求める画像を作り出し再現する、マンマシンインターフェースたらん機能を欲しているのだろうなと。
それに対し従来からある無骨なカメラ機材というのは、確かに求める画像を撮るために技術や機材の精度を磨くわけですが、良い意味で写真としての限界に諦めがつきまとっているというか、写真とはこういうものだよと、どこかで線引きをした上で良否を語っている部分がある。
解りやすく言えば、極めて写実的に細密に描かれた風景画と、写真はどう違うのか? ということを論じるようなもので、極論すれば写真は自動的に作られた点描画なわけですから、わざわざ絵の具で描く必要なんてないだろうと、思われるかもしれない。
ですが、決定的に何が違うのかというと、写真はレンズとイメージセンサー(昔ならフィルムですかね)で色が決まる。絵は絵描きの目が捉えた色が脳で処理され、それを絵の具に変換して描かれる。
同じものを絵と写真という方法で表現するとき、圧倒的に自由度が高いのはどちらか、という事に尽きます。
人間がアナログで作業するものの方が、表現の余地が広いのです。
ですからアイポンの画像というのは、つまるところ、表現者にとっては不自由な機材ともとれるわけです。
と、アイポンディスってみましたが、簡単に撮れて映える写真が手に入り、もてはやされる時代においては、表現者の意志などもはや悪あがきか、オナニーなのかもしれませぬ。アイポンという機械が人に寄り添い、人々の意志を反映しているのは事実。人々の総意がよい写真を作っている、とするならそれはまさに、フィードバックされてカメラとして機能していると言えるのでしょう。
まとめ
結局、見る人を喜ばせた写真の勝ち
2020.
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13
そろそろ考えることが出来なくなってきた。というのも、トラブルの原因が掴めず、修理の目処が立たないという。
今まであらゆる修理をしてきても、それでもやはり解らないことがあります。
車が喋ってくれたら良いのに、ってこの時ばかりは思います。
だからダイアグノーシスとか出来たんだろうけど、あれとて完璧じゃないですし、条件によっては検知しなかったりで、余計に混乱を招いたりもする。
停止状態で調子が良いエンジン、走るとダメ
こういうよく解らないトラブルの時は、いっそ派手に壊れてくれたら助かります。普段は歓迎しないですが、直すべきところが見えるというのは技術者にとっては非常に楽なことなのです。
そんなわけで、ストレス溜まりまくったので

バイクにオイルクーラー付けた。(もちろん業務時間外です)
以前、Amazonでスゲー安かったから買ったのだけど、めんどくさいのでやらなかった。三千円くらいだったか。
それでもSXに装着できるという適合表示はなく、同型エンジンに対応しているという部分だけで見切り購入。
案の定めっちゃ加工しなければイケない羽目になる。

そもそもの発端は、オイルラインの取り出し口キットと、クーラー本体を別で購入した。
なんでそんなことしたのかというと、フルセットの奴は、クーラーコアがバカでかくてつける事が出来ないためでした。
で、ミニバイククラスのクーラーコアを探して購入してみれば、バンジョーボルトのサイズが違うときた。

これを合わせるために、取り出し口にわけのわからん加工を施すことに。恐ろしくめんどくさい作業で、徒労感だけがかさむ。

どうにか形になった。

これ、ホースも全然曲がらんし融通きかんから取り回しもまた苦労する。

無理しすぎ感がすごい。
加工はこれだけじゃないんで、ジェベル200とか乗っている人が見ても、もう全然参考にならんと思います。
オイルクーラー付けたいなら、素直にDF200Eとかの純正クーラー付けた方が良いでしょう。(右のケースカバー交換しなきゃならないので)部品代がお高くつきますが。
私は3000円くらいで実現しましたが、実際の工賃は3万円くらいの仕事です。しんどい。
すみません、現実逃避しました。明日からまた頑張ります!
2020.
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11
私などが言わずもがな、3月11日、この日は近年の日本人にとって忘れえぬ日となりました。
どうでも良いことかもしれませんが、タイトルで使った3.11(さんてんいちいち)って呼び方はどうも好きになれません。ニューヨークテロの9.11を想起させるからですが、だったらあの地震も人為的な何かだったのか? なんて考えてしまいます。
ちなみにね、
3.11で検索ってのをやると、10円が寄付金として送られる仕組みです。
「3.11」と検索された方おひとりにつき10円を、
Yahoo! JAPANから復興支援のために寄付いたします。東北をはじめとした被災地域を、これからも応援するために、
ご支援のほど、よろしくお願いいたします。(YahooJapan)今日中です。もう余り時間がないですけど、これを読んだ皆さん、ワンクリックですので暇つぶしでも構わないから押しましょう。

わたしね、おもうんですよ。
東京オリンピックが決定したの、2013年9月。
震災は2011年3月。
被災地の復興も続いてはいますが、東京五輪が決まった当時ってのは、資材も人工も金も、みんな関東地方に行ってしまって、東北の復興に手が回らない、人工代や資材の価格が高騰など、二次被害が発生していました。
震災当時の都知事の石原が「津波は天罰」と失言し、
オリンピック決定当時の都知事はセコイ裏金もらって即辞任。
その次の都知事の時も大会エンブレムで揉め、挙げ句自身の金がらみとか、スキャンダラスに辞任。
とにかく難癖がつく、という印象なのは致し方なしか、オリンピックくらいデカいことをやろうとするとトラブルはつきものなのか。
石原は自らの失言を覆すためか「復興五輪」だと言っていたが、結果として東京五輪のせいで復興は遅れた。
なにより、森喜朗が会長に居座っているあたりで気に入らない。かつて前首相急死のゴタゴタの中、次期首相の座を強引にもぎ取った火事場泥棒である。失言と権力を振りまき、金と利権のことしか頭がない、今日本でもっとも醜い人間だと思う。
そんな2020年のオリンピックは今まさに、中止の危機にさらされている。
中止にならずとも、文字通り非常に空気の悪い大会になることは目に見えている。
これは、天罰なんじゃないか、とも思う。
オリンピック開催は、天の意志からは歓迎されていない。
そのように思ったりもする。
口を開けば金の話ばかりしかしていない、そんなオリンピックに感じる。
いまでも中止になれば何兆円の損失だとか。
今まで使った金を東北復興に回していたらどうだったのだろうか、などと思ってしまう。

こちらも復興は進んでいます。もう塗りも近い段階です。
2020.
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10
京都。
日本に現存する唯一の都です。ですから京都は古都と言ってはいけません。東京は書いて字の如く、東の京でございますので。(ちなみに“みやこ”と打って“京”と普通に変換されるあたりからして、京都は都そのものなんです)
大阪に住む私は京都が隣なので、たまに行きます。近くに住んでいる者ほど用事ではいっても、観光になど行かないものでありますが、私はかなり純粋に観光に行きます。
十年くらい前から、「京都って隣にあるけど行ったことないところだらけだな」と思ったのがきっかけで、ブラブラ歩くようになりました。
そうこうしているうちに、海外の観光客が増えだして今のような状況になったのですが、
確かに十年前は、こんな感じでした。

こりゃ鴨川沿いですね。

そして、普段なら外国人でごった返している先斗町。

祇園花見小路もこの通り。
コロナの影響で、外国人観光客がいないとはききましたが、欧米人は割と、以前のようにいてます。
おそらく完全にいなくなったのが中国人と韓国人なんです。つまりどれだけ多かったかということですね。

人のいないところを狙った訳ではなく、リアルにこんな感じで、本当に静かです。
本来の京都が戻ってきたと言われるのも頷ける話です。

二年坂も混んでいるというほどではなく。そもそも路面の石段が見えるという時点で驚愕。

産寧坂もこんな感じでしたが、意外にも着物のカップルや集団が多いことに気づきます。
それも浴衣みたいな着こなしじゃなくて割とちゃんとした着物(っても化繊でしょうけど)を若い子が着ていて感心しました。
というのも、彼らの多くは春休みを利用した日本人の学生。
着物を着て京都を歩くなんてのは、もっぱら外国人がよろこぶアクティビティだったんですが、外国人の波が引いてみたら日本人もやるじゃんか、と。
今時の子達とは言え、やっぱり着物は日本人の体型によく似合います。
ま、歩き方が全然なってない子達も多くいましたけど。
着物の着方やアレンジもかなり自由度が高いようで、襦袢の代わりにレースとか草履じゃなくてブーツとか、それはそれでなんかコスプレ文化の影響もあるのかなと、微笑ましい。衣紋も結構抜き気味でセクシー、後ろを歩く私のレーザービームがうなじを直撃してました。

今回はリサーチがてらだったので、清水寺の仁王門までで引き返し。
少々あせばみつつも、梅春(うめはる)の京都を楽しんで参りました。

ビルの一角にある名も知らぬビストロで、肉×ビール。
なんか安いランチ食べにきただけなのに、すごく温かく迎えてくださったのが印象的でした。

後半は桜の名所をバーチャル花見。
これは、咲いている花を見てむやみに美しいと感情を発露したり、散りゆく花びらをみて儚い気持ちになるのではなく、「咲いていたらさぞかし綺麗だろう、きっと素晴らしいのであろう」と夢想することで、ただひそやかに心の安寧を得るという、禅に通じる精神修養であります。
うそです。

とはいえ、本当にあと一週間くらいで咲きそうな勢いなので、三月中にもう一度くらい行くかもしんない。こんな空いてる京都はもう訪れることないかもだし。
で、帰り際の四条大橋を歩いていると、鴨川の河川敷で、アコギのパフォーマンスをしていたので、少し聞き入ってました。
お一人で、アンプにつないで演奏していらしたんですが、周囲に観客が囲うという感じでもなく、ただ演奏しているだけといった感じ。
でもめっちゃ上手い。そんなに音楽に造詣が深くないんですけど、真似なんか出来るかっていうくらいの巧みさ。
と、思って近くによっていったらプロの方でした。 この方→
ゆあさまさや https://artist.aremond.net/yuasamasaya/ ご存じの方もおられるかもですが、私は存じ上げませんでした。
で、御仁曰く「この三月はライブが全滅で、こうしてストリートで稼いでいるんですよー、家族にはカップ麺で耐えてもらいます」、と冗談か本気かよく判んなかったですがw しかし実際切実な話ではあります。(写真撮っておけばよかったですね)このところ、ライブハウスもそこで演るミュージシャンも悪、みたいな見られ方しているのは本当に不憫です。
ともあれ、そんな感じで、お互い分野は違いますけど頑張りましょうねと、しばし歓談させていただき帰途につきました。
ちょっとしたきっかけで、ちょっとした出会い。
そこにはそんなに意味がなくても、たぶんその時の自分にとっては出会うべき人なんだろう。
いつもそんな風に思って歩いています。
今日の私を旅人にしてくれる街、京都。このコピー、売れるんじゃね!?
2020.
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08
パンデミック起こして、バイオハザード状態の世の中ってのはこういう感じになるらしい。

雨天の日曜日でこの交通量。
空いててよいというよりも、不気味。
日々更新される感染者数と、クラスター情報。
話題の暗さでは大規模災害レベルです。
しかも、マスコミは死んだ人間しか話題にしないから、余計に不安を煽る。
実際さ、もう既に罹って全快している人だっているでしょうに。そういう人のお話をしなさいよ。そういう人に対してインタビューとかもっとしなよ。なんで悪い方向に行くような報道しか出来ないのかなぁ。
どうもマスコミってのは、悲惨な事があると喜んでいるように感じます。
ブランキージェットシティの曲の一節にある “残酷な事件は、 いつの日からかみんなの一番の退屈しのぎ、残虐性が強ければ強いほど 週刊誌は飛ぶように売れる” ってのをいつでも思い出してしまいます。まんまですが。

トラックってのは何でも積めて便利です。運ぶものがあると喜んでいるように見えます。

整理整頓が上手な主婦の裏技的な画像ですが、こんな風にお片付けされると掃除道具も喜びますよね。
――いや、使えよ。
ってまあ、暗い話ばかりもなんですから、ここらでもうやめにしようかと思いますね。
一週間も二週間もコロナコロナで、こんだけ口にされているにもかかわらず、まさしくコロナビールは売り上げ三割も減ったそうです。
関係ないやん、むしろ呑もうぜ!
オリンピック開催もリアルに危ぶまれている様子ですが、もうそれだけは勘弁して欲しいっすね。
さ、来週からは楽しい話題で盛り上げるぞ、っと!
2020.
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07
少し前に書いたものなんですが、実はこの文書は封印してました。ブーメランになるのもいやだったというのはあります、正直。
ですが、ここ数週間、モラル崩壊している世間をみていると、自戒の意味も込めて言わねばならんだろうと。
少し前の話題混じりで恐縮ですけど、お暇な方は目を通してください。

「今後の御入店はお断りさせていただきます」という文言をたまに目にする。(たぶん御入店の『御』はいらないし、『お断り致します』と思うんだけど)
これ、珍しい食事や、話題性のあるメニューなどを写真に撮るだけとって、実際には食さずに帰る、あるいは大部分を食べ残したり、テイクアウトして写真だけ撮ったら店外のゴミ箱に棄てたりする行為が頻発しており、その事に店主やオーナーが怒り心頭で、SNSなどに書き込んだ文言です。
いわゆる「インスタ映え」、などと言われてますが、SNS上に自分が遭遇した素敵体験をシェアして、注目を浴び、称賛されようとする承認欲求と自己顕示欲の顕在化ツールであります。
人によっては投稿記事に向けられる「イイね!」の数をあたかも自己の人生の価値かのように捉えている必死な御方もおられますが、視聴率にあえぐテレビ局じゃあるまいし、何にエクスタシーを感じておられるのか皆目見当がつきません。
自分が大したことないってのを自認するが故、アウトソースに頼るってのはブランド服飾と同じでして、現代人の正しくも無難な世の中の歩き方といえばそれまでなんでしょう。
で、この『SNS映え』という文化が根付いた昨今では、まさに何もかもが『ネタ』(タネとも)になり得るが故に、冒頭のような軋轢が各地で生み出されている訳で、直近では甲子園の近くの老舗定食屋がカツ丼大盛りの提供をやめたという話題があがった。これ、高校球児みたいな食べ盛りの若者が、お金がなくてもたくさん食べられるようにって、店主が始めた採算度外視の心遣いだったそうな。
だけど、昨今じゃこの大盛りのボリュームがすごいって話題になり、興味本位で大盛りを頼んで食べきれずに帰って行く人間が続出。それで店主は、食べ物を無駄にするくらいなら辞めにしようとなった。
もちろんお金を払わないで出て行くという訳ではない。ちゃんと払ってゆくし、態度が極端に悪い訳でもない。彼らはネタのために訪れただけなのだから、それこそ食べなくても良かった。写真が撮れて、行ったという既成事実が作れたらそれで良かったのですから。
それとは別の話で、珍しい動物の肉など、一般には食されない食材を調理して提供する『ジビエ料理店』というのも、しばしば『インスタ映え』のターゲットになる。理由は解りますよね。
『ワニの肉のステーキ 『ダチョウの卵焼き』とか聴いたら誰でも、え? ってなりますもん。
で、例の如く、食べきれないほどの量になってしまうと解っていながら、メニューにある目新しい料理を片っ端から注文をして、写真を撮って、一口二口食べて退店する。
店主からしたら、残されたって思う訳。定食屋の親父さん同様、もったいないってのもあるだろうし、せっかく料理した側の気持ちとしては悲しいでしょう。
料理人、サービスマンとしての本質的な部分を否定されたような、そんな気持ちになるのではないでしょうか。
ですから各種のメディアやSNS内でも「マナーがなっていない」、「命を粗末にしている」という店主の意に寄り沿うようなコメントが添えられることが多い。
そんな奴いるの? 信じられない! って思うでしょうか、この『撮影だけして食わない』行為。
でも、皆日常的に目にしていることなんですよ。
メディアの筆頭たるテレビ番組でのグルメレビューなどの現場では「美味しい!」と涙目でタレントがコメントしつつも、殆どが手をつけずに廃棄されてるんですから。そうでなければ一日のロケの中で、一人のタレントが何品もの食事が出来るわけありません。
そういった取材行為を店側は快く受け入れたりする。なぜなら宣伝になるから。ひいてはお金に繋がるから、店側はその茶番劇を受け入れてフィクションに加担している。
このSNS利用者による『映え問題』は、話題の店舗があちこちから非営利な有象無象によって取材されているようなものです。だがそれが口コミという形で宣伝にもなったりする。さらに言えば、それに対する店主の愚痴が宣伝にもなったりする時代です。恩恵を受けている店も人も相当数いるはずです。
この件に関して書こうと思ったのは、私はここのところ毎度こういった記事を目にして違和を感じてきていたからです。
「別に食わなくても、金払ってるんだから良いんじゃネ?」 という声もあります。
これに対して、「金を払ったらどんな行為も許されるという考えは間違っている」と、必ず反論がある。
あきらかに食べられない量のメニューを頼んで、あきらかに残して帰る行為がダメなのだ、という言葉の裏には『もったいない思想』が横たわっている。それに似て非なる『命をいただいている思想』も。
総じてモラル問題、とでも言えばいいんでしょうか。
食べ物を粗末にすると罰が当たるといいます。
命をぞんざいに扱うことも許しません。
古き良き道徳観念ですね。
食べてもらうために狩った、食べてもらうために捌いた。食べてもらうために調理した。
サービスを行うものの側からすればそうでしょう。
ですが、お客は違います。実に様々な目的に対してお金を支払います。
料理店に入ったからといって、必ずその店の料理を味わおうという動機とは限りません。単に夜景が綺麗に見えるレストランだったから入ったのかもしれませんし、意中の相手がどうしても行きたいといったから付き合って、金を払っただけかもしれません。もしくは本当に他に店がなかったから空腹に苛まれて仕方なく入っただけかもしれません。
その中に、ここの料理は見た目が素晴らしいから一度目にしてみたくて頼みました。素晴らしいです、記念に写真を撮りましょう。そういう目的が入っていたって何ら不思議ではありません。
料理を作っている人なら、誰だって『美味しい』『ありがとう』『またきます』、そう言われたいと思います。その言葉がもらえるならお代なんていらない、とすら言いそうになるでしょう。
皆に喜んでもらいたい、幸せになってもらいたい、だから料理をつくって提供している。
そういう思いの方にとって、料理を残されるのは沈痛の極みでしょう。
ですが逆に、『魅せる料理』もあります。味だけではなく、提供するスタッフの姿勢や、サービスのスタイルや、内装や食器類、BGMも含めて、食事行為そのものが総合的なエンターテイメントになっている店も、今時では珍しくありません。むしろ味などどうでもいいというものだってあります。その見た目のインパクトを楽しむという食事方法だってあります。
このように、賛否は別にしても、サービスする店側によっては様々かつ、明確な意図があります。
その意図に沿うようにお客を誘導し、お金を使わせるのはそれぞれのお店の持つテクニックです。
たいしたことの無い料理でも、美味いと感じさせる事も出来れば、最高級の食材を使った料理を、しれっと何気に食べさせ感動させたり、逆に食べに来て損したと思わせることも出来ます。それほどまでに食文化というのは深く進化してしまったのです。たんに空腹を満たしたり栄養を摂取するといった目的すら見えなくなるほど、私たちが食事を食事として意識しないほどまでに。
そのような飲食事業の背景の中で、お店側が自分の意図せぬお客の行為を目にして「もったいない、命を粗末に扱っている」などと綺麗事をたてに憤慨するのであれば、料理を不特定多数の人間に提供する商売などお辞めになってはいかがですかと、私は思います。
それほどまでにもったいないと思うなら、残った料理をご自身で食せば良いですし、命を粗末にしてしまったと思うなら、残った料理をゴミ箱に棄てずに埋葬し、供養すればいいのです。
もしも無為に食事を残され悔しい思いをしたのなら、店側として、お客に要求、アピールしなくてはいけないことがもっとあったのではないかと自身に問うべきです。こんな世の中だからこそ、食べものをおもちゃのように、あるいは金儲けだけのために扱う時代だからこそ、自分がやりたいのはそういうことじゃないと、声を上げるべきなんじゃないかと思います。
自身の信念の元、無条件でお客を排除するのは許されるべき事です。
だって、あなたの店なんですから。
お客の選別、それはあくまで店のエゴだと自覚することですし、エゴは結構です。
だって、あなたの思いなんですから。
大事にしたい思いは貫き通せるなら貫いたほうがいい。
だってあなたはあなたの人生をやっているんですから。
カツ丼大盛りを頼まれたなら「結構量あるけど食べられる? あなたなら中盛りくらいがいいと思うよ」の一言添えてやればいい。それが、美味しく食べて帰ってもらうという自分の使命に繋がるし、お客のためにもなる。頼まれ、お金を払ってもらえるから何でも作って提供するってのでは、金を払ったんだからどう食おうが勝手だろ、って客と同じレベルです。
「大盛りの写真が撮りたいだけなんです」と言われたら「ウチはスタジオじゃねぇ、帰れ!」でも、「撮影料に+1000円」でも、「じゃあ君のアカウントに、このメニューに載ってる大盛りカツ丼の写真送ってあげるよ」でもいい。
それもせずに宗教みたいな変な綺麗事並べて、自分の理想実現にそぐわないお客をこっそり匿名で揶揄、あるいは愚痴を絡めてステマみたいな行為をするのは卑怯だと思います。
金銭の対価は材料と労働、すなわち料理とそれにまつわるサービスです。
普通の飲食店なら、店側が設定した金額とサービスに対し、お客は文句も言わずに適正に金銭を支払う仕組みが成立しています。
私はお客から「よかった、ありがとう、来て良かった」という感想をもらうのは、当たり前ではなく、有り難いことだと思っています。
それはこちらが提供したサービスに対し、本当に満足した人の口から漏れる言葉だから。
誰彼となく好かれようとはせずとも、本当に人の幸せを願っていれば、その思いは伝わると思います。ですが解らない人に解ってもらおうというには、相応の努力が必要だと思います、それは非常に贅沢な望みですから。
私は、美味しい食事を提供してくれるお店をいくつか知っていて、それらは私の人生にとって大事な要素です。
彼らは、お金を払えば快く受け入れてくれます。美味しい料理を提供してくれます。ですから、そのお店がなくなったり居心地が悪くなったりすると非常に悲しい思いをするでしょう。
だから、私もお店の意図からは外れないようなお客として振る舞い、お店にとって気持ちのいいお客であるように心がけて努力しています。お店も私のために努力してくれているから。
ですから逆に、私の事を「売り上げ」にしか見てない店や、対価以上の努力の痕跡が見えない、あるいは対価以下の提供しか為されない、そのような気分を損ねさせるようなお店には二度といきません。
写真を撮られて食事を残される飲食店の方々にとって、今の私は非常に嫌な言い方をしてしまっていると思いますが、無論のこと、出されたものを食べきらないで棄てるなどという行為を平気でする人間を擁護するつもりなどありません。
そんな奴らは、屍肉にたかってただ卵を産み付けたいだけの蠅です。
ですが、そんな「蠅」を、どうにか紙一重のところで「人間」に留めておけるチャンスが、我々サービス業に携わる者の一言にかかっていると思えば、例え注意喚起をその場で実行できなかったとしても、少しは溜飲も下げられるのではないでしょうか。
そのサービスマンとしての矜持が大事だなと、思うのです。
2020.
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06

つんだー。
なんか微妙に寒くて、落ち着かない気候ですね。
ところで皆さん「アキラ」をご存じか。我々世代ないし、我々の業界でアキラといえば、大友克洋の「AKIRA」しかございません。
士郎正宗の攻殻機動隊と双璧を成す、日本のSF漫画でございます。もはやどちらも三十年も前の漫画なのですが、未だこの二作を越えるSF漫画は誕生していないと言いきってもよいでしょう。
で、そういう個人的な思いが非常に強いのですが、このAKIRAの舞台が2019年、しかも2020年の東京オリンピックを目前としているという設定で、これだけでも昨年中は「大友克洋が予言していたのか!」と、ごく一部では噂されておりました。
ところが作中では、「オリンピックまであと147日」という描写があるのですが、これを実際の日付に照らし合わせると、2月28日となるそうです。そこにはそんなに意味はないのですが、この描写の看板の傍らには、「中止を求める」という落書きがされており、作中でもあまり東京オリンピックは歓迎されていない様子が描かれております。
で、実際に作中ではAKIRA覚醒により東京は壊滅、オリンピックどころではなくなります。中止になるというより、世界の危機にまで発展しますね。
これをコロナウィルスの蔓延、世界的大流行になぞらえて、さらに予言的中か? と囁かれている側面もあります。
私はよくある偶然の一致だとは思いますが、ああ、そういえばもう我々はAKIRAの世界の時代にまで到達してしまったのだなぁ、と感慨深くおもいます。
AKIRAが描かれた頃はまだ東西冷戦時代でしたし、第三次世界大戦も大国にとってはやぶさかではない状況であり、平和ながらも常に不穏な空気を纏っていた時代で、SF作家的にはネタの宝庫でありました。逆を返すと、開き直った「萌え」という文化はこの頃はまだひっそりなりを潜めていたのです。
で、パニック作品としてよく使われたのが、放射能汚染だとか、生物化学兵器だとか、昨今に多い自然災害的なものよりも、人為的なモノが圧倒的に多く、人の愚かしさを描く系統の作品や作家がかなり多く輩出されていました。(この時代は本当に名著名作、大作家が多いのです)
そのパニックものの中でもホラーとしてもっともバリエーションが多く、最も長く広く親しまれてきたのがゾンビものですが、こちらはホラー要素と、パニック、時にアクションや、コメディ、SF要素までをも絡める事で大変広い層に愛されて、映画作品の一ジャンルとして位置づけられるようになりました。
作品全体の母数が非常に多いせいでクソみたいな作品も多分にありますが、名作と言われるモノが多いのも事実。私はあの世界観は結構好きで、よくみます。特に新しいにゾンビ映画の幕開けともいえる「バタリアン」は感染源がウィルス兵器かなんかだったのを、さらに隠蔽するために、核攻撃するという筋書きだったかなぁ。当時は演出が秀逸でした。
このゾンビものでお約束なのが、ゾンビに嚙まれる、あるいは傷つけられると、ゾンビになってしまうという描写。従って、ゾンビとの戦いは慎重を期さねばならず、万が一戦闘後に体の一部が傷ついていようものなら、仲間達からソッコーハブられます。場合によっては自害をすすめられたり、問答無用で殺されたりします。それはさらなる被害拡大を防ぐため。
ゾンビ映画の醍醐味は、キモいゾンビが集団で襲ってくるキモ怖さもありですが、なにより誰が感染するか解らない、または守るべき友人や恋人であった人々が感染し、一転殺さねばならなくなるという悲哀や、感染を疑いあわねばならない人間関係描写、どうやって助かるかの頭脳戦、またはそれによる諍いや、裏切りなどなど、どの作品においても、パターンではありますが、常に人の愚かしい部分がクローズアップされており、大抵において救いはありません。
ま、実際には映画ですから、救いがなかろうと、登場人物達の殆どが我先に助けを求め、人を踏み台にするようなどうしようもないクソでも、どうだって良いんですが。
ええと、――――あれぇ?
あ、これって今の日本じゃね?
うわ、リアルにゾンビ映画の中にいるじゃん。
そうか、そういう時代になったんだなぁ。
もうUSJ行かなくていいや。
ホラーもSFも実体験できるなんて、私たちは本当に良い時代に生きているなぁと思います。
2020.
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04
コロナもあれだし、雨だし、花粉も飛んでるし、今日はもう暇だな! 誰も来ないな!
よし、今日はサボろう!
と思っていたら、朝から借りてる倉庫の管理会社から派遣された、営繕係の人々が来て話をする。
やれやれ、よし、改めてサボるぞー!
と思っていたら、取引業者さんが来る。
そしてさらに・・・・・・とこのあとお客さんがちらほらと、例により喋る喋る喋りまくって、気づけば十時。

今日喋ってただけで、なんもしてねー! と気づいても後の祭り。
作業途中で止まってたのだけでもやっちまおう。というわけで、メキビーにサウンドボード付けます。
メキビーには元々サウンドボードが装備されておらず、どちらかというとドイツ製に比べるとエンジンのノイズがうるさいです。
なのでエンジン降ろしたこの際だから、付けておきましょうということで。簡単に言ったはいいけど、普通の倍くらい手間かかる。クーラーの配管やら、ドイツ製にはない配線の取り回しなどでいちいち回り道しなくちゃイケない。

鉄板むき出しも格好いいんですが、防音効果考えたらやっぱりボードはあった方が良いですね。
これで少しは快適になる・・・・・・だろう。

ちなみに、いつぞやの記事
越冬隊 で書いた蜂を先日改めてみたら、まだ生きていました。
なので、フードから降ろして瓶の容器に移しました。
気温が暖かくなるとそれなりに動くようでして、いやはや生命とは、というか虫ってすごいなと。だって肉食のくせに冬の間、何にも食べてないんだぜ? どうなってんのか。

キアシナガバチという、アシナガバチの種類で、越冬する固体もいるそうで、その場合は巣を放棄して、木のうろとか軒下なんかに密集して冬を越すそうです。ですからこの様に巣についたまま越冬するケースは珍しいと思います。女王バチはここには居ません。全部働き蜂ですので、オトコです。
なんだか同じオトコとしてロマン感じますので、保護して春になったら放そうかと。
去年はめっちゃ退治してたんですけどね。人間って勝手やわぁ。
2020.
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03
最近本当に車の仕事の記事を書いていないのですが、今日も関係ない話です。
首肩こり由来の頭痛はどうにか治った感じがする。
コレも温泉が効いたのか。

短編小説一冊読み切るくらい粘った。
私は、何もしないでじっとしているのが実は嫌いです。カフェでまったりとか、景色を見て感動に打ちひしがれるとか、人気店の行列に並ぶとか、海辺で日光浴とか、行為のあとに腕枕とか。
なので温泉でぼーっとゆっくり浸るというのは、性に合いません。子供の頃は散髪の時間ですらじっとしているのがすごく苦痛でして、未だに苦手です。
なので、そうだ、本を読もうと。
スーパー銭湯に小説持ち込んで読んだの初めてですが、なかなかよいです。でもちょっと変な目で見られます。

いつものイエネコです。ずっと家にいて暇だろうなぁ、とかたまに思うのですけど、どうなんでしょうかね?

急遽作業に入ったドライブシャフトブーツの交換。いい加減、このドライブシャフトを樹脂製のブーツ(ゴムとか)で覆うって考え方は変わらないものかと思う。なんかブーツが不要なジョイント機構って作れると思うんですけど。潤滑に問題あるのかなぁ?
はるうららで、外で作業です。(中は不動車が占拠しているので)

きれました。
用を足してから気づきました。
お店に買いにいっても手に入らないのは困りものですが、目下お尻を拭く事もままならず、個室で黙考するしかないというのは、本当に困ったものです。
もちろんこの後ちゃんと拭きました。ご安心を。
2020.
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01

昨日は雲の中を走っているような霧の中、帰路につきました。
なんだかもうすっかり春めいてますよねぇ。

注文して届いたレブマスターシングルクワイエット。 マフラーですね。
う、ううん・・・・・・錆びてます。

日本人よ、刮目するがいい! これが世界だ! これが世界標準だ!
新品から錆びてるなんてあり得なーい、というのは世間知らずに過ぎるのです。
と、世間知らずで思い出した。
ちょっと愚痴っぽい話になりますが。自戒の意味も込めてお話しします。
以前、プライベートで、とある同年代の方とお話しする機会があったのですが、その方は自称オタクで「私は何にも影響されない、曲げない、折れない」とかたくなにおっしゃっておりました。それはそれで結構な信念をお持ちだなとは思いました。
「好きなことをやり続けるって事は素晴らしい」「好きなことに対して妥協したくない」と、それに関しては私も同感です。
「テレビは時間の無駄なのでもっていない」「ネットにもつないでいない」情報はどこから得ているのだろうかと不思議に思ったが。
私もオタクですので、ある程度は話が合うかなと思ったのですが、こちらのフリには返してくれるが、向こうからのフリがまったくない。ようするに私が質問して答に対してコメントするというMC状態。
なんだか会話が変だと思ってはいたのですが、相手の話の振り幅が極端に狭いのだなと気づきました。
もしかしてこの方の世界は思った以上に狭くて小さいのではないかと。だがそんなに浅い人間が同年代にいるのだろうかと懐疑的でした。
最初にすごく充実していて、自信のあるような生き方を示されたので、さぞ深いのかと思ったら、なんのことはない、浅い引き出しが3段くらいあるだけだった、という。
なるほど、その浅い引き出しが満タンになるくらいの経験はしてきたんだなと。
でも、その方がそんな自分に自信を持つほど、その方の周囲にいた人々もまた、浅い引き出しの持ち主達だったのだろうと思われ、なんだか私はげんなりして、帰ってきたのを思い出しました。
余り言いたくはないのですが、もう明らかにレベルが違うのでこちらの言っていることが向こうにはまるで伝わらないし、空気読むというか、言葉にしないでも普通解ることがまるで解らないようで、挙げ句「言葉で聞かされなければ伝わらない」と豪語される様に憮然としてしまった。
むこうはそれが当然だと、ドヤ顔で正論を説いているのですが、こっちからしたら直接言わないのも、ぼかして言うのも、相手を慮ってのことであり、なにも言葉にせずに解って欲しいわけではない、そんなことをいい大人同士でわざわざ言わせるな、という事を本当に言いたかった。
結局その方とは物別れにおわり、二度と会うようなこともないと思われますので、今更この事をここに書いても無意味なのですが、
出会いによってお互いの人間性の研鑽を求めるには、双方の意識の差が乖離していないことが前提なのだな、と思い知らされるエピソードでした。
まあ、あえて言うなら中学生と喋っているような気分だった、といえば解りやすいか。
むやみに情報を漁り、情報におどらされるのも愚かですが、情報を全く重視せず、知識も全く持ち得ていないというのも、相当に愚かに見えますし、自分基準でそんなものは必要がないと言いきるあたりは相当痛いと言わざるを得ない。言葉を最後まで聴かない、文章を最後まで読まない、多面的に物事をとらえられない、都合のいい場所だけ抜粋する。
いまだに完全否定されているコロナ対策のデマを意気揚々と晒してくる人もいます。もう、バカなのだから黙っていてくださいといいたくなります。
まあ、同じレベルの人同士なら問題ないのかもしれませんけど、私は無理でした。この人と話していても無意味しか感じませんでしたので。
ただ、ある意味、斬新な経験だった。

本日、すこし遅いバレンタイン義理チョコをいただきました。
ありがとうございます!