ヘルムのバーベキュー。忘年会兼ねて。そういや、今年は一度もやらなかったのかも。
ということは最初で最後、新年会でありながら忘年会という。
いや、それに何の意味があるのかと申しますと何もないわけですが。
来る12月28日金曜日 夜八時より 激サブのこんな冬場にやるんかい?
いいんす、いつでも思い付きです。てい良く暇な人はぜひご参加を。
今回参加費は無料です。その代わり
食材は持ち込みです。炭火で焼ける食材を最低一品は持ってきて参加してください。自分の分ということではなくシェアです。飲み物も自分の分は用意してね。
飛び込み参加歓迎!!
まーどうなるかわからんですが。みんながもちこむ食材次第って感じですかね。
あ、ヘルムからは
鹿肉供出しますー
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とかく空冷ワーゲンは「趣味の車」のように言われることが多いのですが、実際には私が見る限り趣味で乗っている方というのは皆無で、皆実用車として常用されております。まあ、四輪車を趣味に据えおくにはもう一台車を持つという意味合いからして経済的余裕がなければ成り立ちませんので、自ずとそのようなことになると言えます。特に日本においては駐車場や税金の関係からしても、車を複数台所有するということは年間の経費に大きく影響してくるだけに車やバイク好きな人々にとっては悩ましい問題なのではあります。
と、まあそうい話から、今回は人と車、あるいはバイクといったパーソナルコミューターの関係性といいましょうか、立ち位置について考えてみたわけです。車とは現在においてもある程度道具の中でも個人性を表す道具であるといえます。故にこだわればこだわるほど趣味の車、好きで乗っているといわれることが多くなります。
まず車を原点からひも解くと、原動機付き三輪あるいは四輪に端を発して前進、旋回、後退といった操作が搭乗者の意思のもとで出来る自動車へと発展してゆくわけです。車という乗り物が生まれた当時、そのものの存在が既に個として確立するくらい台数が少ないものであった背景は想像できると思いますが、当然この時点で趣味の車という概念は存在しません。
それがやがて多数になればAとB、あるいは1号と2号といったように区別する必要が出てきて、個人が所有するころにはカラーリングを変更するなどして他車との区別化をしなければ見分けがつかなくて面倒事が起きたと思われます。
そのうち物好きが自分なりのアレンジで形を変えたり、アクセサリーを追加してゆくことでカスタマイズされパーソナリティが発生したと思われます。
これは世に製品として多数輩出された結果がもたらす副産物ですが、扇風機やテレビをカスタマイズする人はめったにいません。ではなぜ乗り物だけはパーソナリティを主張する必要があるのか、あるいは主張しなくともあれこれと自分を着飾るようにアレンジしてゆくのかという疑問が生じます。
だらだらと理屈を並べるのもあれなんで、答えから申しますと、車に始まる乗り物という道具は「自分の手足の延長」であるからということにつきます。そういうものでない限り人は道具を道具としてしか見なさないのでそれ以上の愛着を持とうとはしません。
ですからそれになぞらえて言いますと、工具などもまた使いやすさに影響のない程度のカスタマイズを施す人は少なくありませんし、身の回りのものであっても自身が大切にして毎日使うものにおいてはやはり何らかの形で手を加えています。これだけだとパーソナリティ性のある道具というものに、はっきりとどこに線を引くかという点においては釈然としないかもしれませんが、つまりはその道具が自分にとって能動的か受動的かというあたりに落ち着けるかと思います。いいかえれば「私の」という言葉を頭につけてしっくりくる道具か否かが分かれ目ということです。
話を車に戻しますが、そうやって車社会は各家庭、各所有者にとって「私の車」という主張を続けてきたわけですが、市場社会の発達とともに選択肢が増えたことと経済的事情、使用用途により必ずしも全員が望んで好きな車に乗るということはなくなりました。つまり車を自分の延長線上に考える人とそうでない人、能動的に車を選択し所有愛用する人と受動的に購入し所持使用する人に分かれていったということです。
そういった前提の上で、近ごろはカーシェアリングという流れもありますが、これはまさに車を単なる便利道具としてみなすことを選択したことになります。もちろん我々のような人種はそういうのはまるで受け入れられないのですけど、それでもよい、その方が合理的だという方々も多数おられるでしょう。あるいは経済的な事情もあるでしょう。
このように車が家電並みに扱われるようになったとはいえ、それでもまだ車やバイクを「特別なこだわるべき存在」として据え置きたいのは人の性と申しましょうか。と、いいますのも昨今あらゆるものが合理化され、人は無駄な営みをしなくなってきているようにも感じられますが、実のところ本能的にどうしようもない無駄な行為を古今東西やめられないまま続けているのが人の歴史というもので、逆を返せば「クウネルアソブ」をするために他の必要なことを合理化し簡略化してるだけともいえます。
その人間の歴史が逃れきれない最も厄介で最も崇高だといわれる恋愛などは、合理性とは真反対の遥か数十億光年先にある無駄行為の最高級の存在ですが、面白いことに人類の無駄行為はどれもこれも真理に似たような表現で表すことができるものです。
よく私は車やバイクは男にとって女のようなものだという例えをします。これを女性の前ですると怒られますが、車といっても新車、中古車、事故車もありますが、つまるところ女性に(車であれバイクであれ)惚れて付き合う(気に入って購入する)ならばとことん楽しむ(乗る、触る)べきで、そのためにはある程度の金銭の余裕をもって維持(メンテナンス、修理)に努めなくてはいけないし、そうすることにより双方にとって良い結果が得られる。
もっといえば、恋人あるいは伴侶(愛車)以外の人(別の車体)が気に入った(ほしくなった)場合、自分にはそれを維持管理するだけの愛情や甲斐性があるのかということを考え、なおかつ他方に気をとられて本来のパートナーを見失うようなことがあれば離別になりえる。
まあ、そんな話です。もちろん持っているだけで乗らないなんてのも深刻に調子の悪いことになりますから該当する方はお気をつけた方が良いかと思われます。
もうひとつ面白いのが、車もバイクもけして自分が乗りやすいからそれを選択しているというわけではないというところにあり、無論単に外見を気にいって所有する場合もありますし、高スペックなものが最も人気が高いとは一概に言えません。人それぞれどこか、何か一点をこだわってその愛車を手に入れているもので、その瞬間から自分自身か車両の方に手を入れながら自分と車両のすり合わせを行ってゆく過程なんかも、実に人間関係に近いものがあります。それで取れない癖はもう逆に魅力だと割り切るしかないという点も似ています。
ですから、所有した車なりバイクなりを長年にわたり大事に出来る人はいい男の素質を備えているともいえますので、女性は男性が乗り物に散財している姿をどうか責めないでいただきたい。もうひとつ言えば男性の持ち物の扱い方を見ればその性格がわかるという話でもありますので、まだ独身の女性の方は参考になさればよいかと。
なに?そうやって結婚したが旦那は車やバイクに夢中で家庭をほったらかしで、それは妻からすれば浮気と同じだと?それに女性を馬鹿にしていると?
よござんしょ。
では女性にとって男性とは何かと申しますと、これもズバリ車です。汚い、うるさい、面倒くさい、動かない、無駄にでかい、不細工、臭い、ややこしい、難しいって車は女性は大抵嫌います。それにきっちり動く時に動いてくれなければ不信感と不安感が募りすぐに乗り換えられてしまいますよね。
つまり男性は、女性を快適に安心して乗せられるよう心がけておかねばならないということです。ですからスペックの高い車は高評価ですし満足されます。値段ではありませんよ、けして値段ではありません。低燃費(少ない小遣い?)というのも最近の満足度ランキング上位に上がりますし、広い(心かな?器量かな?)というのもなかなか良い評価を得ています。
勝手なことを申しますが、世の男性は私も含めて心に留め置くべきかなと。まあ、運転される側か乗せる側かというお話はまたいずれの機会にでも。

ハイ、ヘッドはずしました。
予想通り、海水がまわってますな。結局プラグ抜いた時のポンっていう圧縮音は、シリンダーの中でガスがたまっていただけでね、モノが錆びる時にある程度化学反応でガスが発生するわけですよ。
ピストン位置はご覧の通り下死点付近なので吸入行程後か爆発後かでバルブが止まっていたとしてもインアウトともに閉じているに近い状態だった可能性が高いため、密閉状態に近かったと、まあそういうところかな。
どうでもいいんですがね。
さて、このピストン、完全に固着してます。