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LGBとTの婚姻問題 その4

2023. . 23
てんちょのあやしいはなし

4です。ラストです。

養子縁組で思い出しましたが、こういう事もありました。

かつては「ジャパゆきさん」などと言われた、外国人労働者が多く流入している時代があり、フィリピン人パブが流行していました。この労働環境がいわゆる(今もさほど変わりませんが)ピンハネと売春まがいの風俗業従事で、成功を夢見て日本に来た外国人労働者を、意図的に搾取する悪徳事業が横行することになります。
ここに入管難民法のてこ入れがあり、それ以降はフィリピンパブ系はなりを潜めたのですが、この隙間をついたのが、偽装結婚です。呼び寄せたホステスが配偶者という安定的な在留資格を得るためでした。

主に偽装結婚の邦人配偶者は尋常ではない借金があったり、借金はなくとも金に目がくらんだりと、いずれにしても身持ちの堅い男などはいなかったようですが、これとフィリピン人ホステスを偽装結婚させ、縁組みし、一定の在留資格を得させ、数年後には離縁する、という「契約」を交わしていました。

無論ながら、フィリピン人女性もビジネスであり、日本に来て稼ぎたいという欲があっての事なので一方的な被害者ではないのですが、そこはまあお察しで、搾取が酷く稼げるどころか食っていくのも精一杯だったそうで、殆どは逃げ出し、入管に捕まり強制送還。元締めも、加担した夫役の男たちも一網打尽だったそうな。

ま、昔と書きましたけど、せいぜい20年以内の話です。

すっかり経済大国として落ち目な日本といえども、日本の在留資格があって、そこで働けるということが特権だという風に捉える国の人は、今でもそれほど少なくはないでしょう。
景気が悪い、以前ほどではない、としても日本という国の国際的な安定度、信頼性、治安の良さ福祉、医療体制など社会整備の行き渡り、通常に考えても豊かで、お金がなくても能力もがなくても、体力がなくても、国民でありさえすれば生きていけるミラクルファンタスティックな国です。
さらにいうと、日本人であるというのは、ビザフリーなパスポートの例をとってみても、ブランドであり、十二分に犯罪利用される可能性は高いのです。

偽装結婚であっても、役人は愛の深さを測る装置を持っていませんので、配偶者の籍を取れば、まず在留資格が得られ、そこから三年以上居住で帰化の申請が可能になります。実際に夫婦としての生活実態があれば、その配偶者と一緒に面接を受け、生活実態を調査されるなどした上での申請認可となります。

無論、さきのフィリピンパブの偽装結婚は、3年働けば自由にしてやると約束されていたそうですが、帰化(日本人になれる事)を餌にした詐欺ですから、元締めがそんな煩雑な手続きなどするはずもなく、ジャパゆきさんたちは単なる不法労働者として送還されたわけです。

もちろん自分の生まれ故郷を捨てるというのは、大変な覚悟でしょうし、一生その土地に住み続けるというには相応の動機が必要です。だから婚姻など以外で滅多なことでは帰化するケースは少なく思いますし、バックグラウンドが乏しい場合は認められにくいという現状はあるでしょう。

外国人を配偶者にお持ちの方には、失礼な言い方になってしまい心苦しいのですが、同性婚が認められると、犯罪利用される可能性が格段に広がる懸念はあります。それは先にも書いたとおり、日本という国や、日本人であることにメリットがあるからです。
まあ、もとより悪事を目論んでいる人間の行動に警鐘を鳴らしてばかりいては、何も始まらないのですが、愛や人権を語るのと同時に、考えなくてはいけない事は山ほどある、というのが政府や官僚のお偉方の立場でしょうか、と。

でも考えなくてはいけないのは、我々民間、庶民レベル(上下という意味ではなく、階層という意味です)でも同じ事です。

たとえば、「ジェンダーマイノリティの権利を認めよう」という話になるとき、公衆トイレや、銭湯はどうなるのだ、といった議論が沸きます。「男か女かしか」入れないのはおかしいじゃないか、と。
すると、きまって、第三の施設を作るべきだ、という。
現況、公衆トイレの場合、多目的トイレがその役割を果たしているといえますが、利用者はかなり大雑把です。
じゃあということで、それに替わり登場したのがオールジェンダートイレですが、先日利用が開始された歌舞伎町タワーの例をみても、結局変質者の侵入を防がねばならないし、警戒もしなくてはいけないから、警備員を配置するという事態になっている。なにより男も女も、それこそ間の人も、ややこしくて使いづらくなる、使いたくないという結果を招いている。(結果として今は変質者のたまり場になっている)

そもそも事の発端は、性自認と身体性が一致しないトランスジェンダーの人が主にストレスを感じるということから、オールジェンダートイレが出来たのですが、ここで言われるのが、特に見た目を合わせようとしても自他共に認められる程にはならない人、とされています。

ただ、この部分に関しては、私は仕方がないと思います。もっといえば「がまんしろ」と。
公共のモノを使うとなると、同性間であっても家族ではない他者とスペースを共有、設備を共用する事になります。それに対して違和感や、ストレスを感じるのは、なにもトランスジェンダーだけではありません。

人によっては他人の座った便座には座りたくないから公衆トイレは使わない、という人だっているでしょうし、他人と肩を並べて公然と用を足すなんてのは抵抗がある人だっています。実際、空いているトイレなら、ほとんどの男性は隣り合った小便器を選ばず、一つ間隔をあけて用を足します。
嫌なら使うな、家で済ませろ、ってことです。
山の中で用を足したくなったときに、野ションも野グソも看過できんなら、漏らすか我慢するしかない、という理屈と同じです。いつでも何処でも安心して、ノーストレスで用が足せるなんて考えている方が間違いだと思います。

銭湯ならなおさらです。銭湯だと一施設につき四つ作らねばならなくなります。性自認×身体性の組み合わせ分。現実的ではありませんよね。そこに、微妙な「マイノリティ」がまた生まれます。
トランスジェンダーでなくとも外湯に抵抗のある人はいます。そういう人は温泉にもスーパー銭湯にも行きません。

(ちなみにLGBの人はトイレ事情、公衆浴場には何ら問題が発生しません。なによりLGBの人達は、銭湯などがことさら好きな人が多い印象です。ある意味銭湯でのLGBはマイノリティではなく圧倒的勝者だと思います)

で、

私は長年トランスとして生きてきた人が、自身の差別性を受け入れられない激弱メンタルであるとは思えません。

そもそも自身の姿を見て「男に見えるか女に見えるか自分ではわからない」トランスジェンダーなんてまずいません。当事者は自分の容姿について理解しているので、無用なトラブルを避けようとしますから、無理に女子(男子)トイレや女湯(男湯)に侵入するような愚は犯しません。(やるのは変態と変質者だけです)

だから、オールジェンダートイレは彼らに意見聞いてこうなったのかというと多分違ってて、「世情に鑑みて」社会を「ジェンダーフリー化」「せねばならない」あるいは「したように見せかける」事は必要。だけど、誰のためになるのかなど「どうだっていい」どうせ奴らは「マイノリティなのだから」何の文句も出まい、と。オールジェンダートイレは、トランスジェンダーとはまるで無関係な人々の手によって作られた施設なのだろうと思います。

これって、環境問題ビジネスと同じ構造なんですよ。やってるフリ。

しかし、きっかけはどうあれ、こういった性的マイノリティの話題が上がることや、その方々が外に向けて意見表明できる環境が、徐々にでも出来てきているのは大変好ましいことでしょう。

持論ですが、私は性自認を含む「心の性」には完全に二分される境界線があるとは考えません。
男っぽい女、女っぽい男もいるでしょうけども、彼らの性自認は女で男であり、他方へ移行したいとも思っていない、等というケースはいくらでもあるでしょう。
男と女の両極端には、概念としての「男の中の男」と「女の中の女」といわれる、究極男子と究極女子が構えているはずで、その彼らの間にある全てが、境界線上であると考えると、心情的にジェンダー問題をすんなり受け入れられるかと思います。

ですから、私はLGBT問題にマイノリティという言葉を使うのは相応しくないと考えています。マイノリティと規定されることは、社会というマジョリティと、そこに迎合しないマイノリティという構造に置き換えられているからです。世が世ならば、マジョリティはマイノリティを弾圧していた(いる)のと、構造的には変わりがありませんから。

全ての境界をグラデーションで捉えることこそが、多様性への理解だと考えますし、建設的かつ生産的と考えます。
そういう男で、そういう女。好き嫌いはあって然りだけど、どこかで規定されるいわれもなければ、否定されるいわれもない。
線が引かれる必要性は、見た目の身体性のみであり、中身であってはいけない。
だから更衣室もトイレも、銭湯も、今まで通り男女にしか分けなくて良い。

心の性が理解されないとトランスの人が悩む声だけがクローズアップされますが、その人のことを知らない他人はもとより、結局心の性など誰も外からは見えないのですから、思い悩むだけ無駄です。
それに、他人のパンツの中を覗くことも、覗かれることもないのが普通ですから。
当事者であっても、過分に自分たちを特別で可愛そうな存在などと考え、自身を規定している人がいるならば止すべきです。

失礼ながら私見では、現況あらゆるマイノリティおよびその支援をする人々が抱える根源的な精神性として、「マイノリティロマンス」とでもいうのが相応しいか(造語:多分そんなコトバない)カタルシスや、ロマンチシズムが内在してはいないかと思うところはあります。社会から隔絶し排他された存在としての孤高感、顕示欲、あるいはプライドのようなもの、あるいはヒロイズムに近しいものも意図的、無意識的に携えてはいないかと訝るところはあります。

まったくもってうまい言い方が出来ませんが、自らを少数派であるとして存在意義を際立たせる作用を維持しているようにも思えます。
別に否定することではないですが、もし、社会と自身を相対化したところが存在の立脚点だと考えているならば、マイノリティから脱却するのは難しくなります。
先にもお話ししましたが、今の傀儡民主主義の社会において、マイノリティは政治や金儲けに利用されます。自らすすんで社会の対立構造のファクターになるべきではないと考えます。


私はLGBTの婚姻問題を単に「性的マイノリティは結婚が出来ない」という話として矮小化するのではなく、じゃあ結婚とは何なのか、恋愛って何だ? 法的婚姻がそこまで意味あるのか、それよりなにより、人と人とが共生し、助け合い生きるということはどういうことなのか、あるいは愛とは、おもいやりとは何なのかという、人として根源的な問題に、全世界の人々が直面すべききっかけだと思っています。

おそらく、LGBおよびTの方々は我々よりも多く、深く、愛について考えるきっかけを持っていますし、事実考えているでしょう。
その外郭にいる我々は、彼らから学ぶことがあるのではないか、と思います。

人間は有史以来、何千年にも渡って愛を語り続けてるのに、未だどこにも辿り着けていません。それがマジョリティの力と欲望で社会を動かしてきた結果、限界だと思います。
これからは、マイノリティの理性と希望が世の中を牽引してゆく鍵になるんじゃないかと、漠然とそのように思います。

収めどころのわからない駄文ですが、最後まで読んでいただいた方に感謝です。少しは私の言いたいことが伝わっていたら幸いです。





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LGBとTにおける婚姻問題 その3

2023. . 12
てんちょのあやしいはなし

少し間があいてしまいましたが、3です。

前回に、日本社会にある保守的な社会構造が、今のLGBTをはじめとしたジェンダー問題の解決を遅らせている、といったことを書きました。

私はその構造の根幹にあるのは、天皇家であり、天皇制だと思っています。誤解しないでいただきたいのは、それが良いとか悪いとかではなく、制度として維持されているし維持されなければならないと決まっている、ということをまず念頭に置きお話を。

そもそも、家制度にしても、農民レベルだとそれほどまでには意識されておらず、単位としては家族ではなく村というコミュニティで捉える事が多かったようです。ただ、明治期になるまで殆どの農民が「〇〇村の△△兵衛」といった名乗り方をしていたのは、苗字がなかったからではなく、公に記名したり名乗ることが禁じられていたので、隠されていたそうです。

それが都市部の町人クラスになれば、変わるのかというと、江戸時代なら農民も町人も同じ庶民ですから、殆ど変わるところはないと思われます。
たまに、古い家系図などが残っているお家があり、我が家は源氏の嫡流であるとか、藤原の何某の、とか果ては聖徳太子のうんたらかんたらとか、飛鳥時代やら平安時代まで遡ることが出来る家系図が多いのですが、多くの場合が残念ながら、何通りかある内の共通フォーマットです。

これもまた平和な江戸時代くらいに、武家の文化を真似て家系図ブームが流行りまして、みながこぞって箔を付けようと家系図を作ったことがあったそうです。
無論それらは、金銭を得て家系図を作る業者が作ったもので、大抵は源氏だとか平氏だとか藤原一門だとか名のある武家や貴族を源流に持つ家系図が書かれました。
その流れの中、歴史に影響しないような(当時において)近年に偽の嫡流筋(末っ子とかね)を書き足して、それぞれの家の高祖父あたり、まあ100年くらい遡った先祖を継ぎ足して作った、イージーオーダーな偽家系図を売っていたのです。もちろん全てが偽とは言い切れませんが。

実際、江戸時代に農民だとしても、それはかつて政争に敗れた貴族の末裔であったり、平家の落人であったり、戦国時代に武士を引退し、ひっそりと隠遁生活を送った者の子孫であったり、というのは珍しくなかったので、苗字は残っていて然りで、もし仮に、農民なのに家系図などの先祖の系譜が残っていればかなり信憑性の高いものになります。

ひょっとすると、そんな偽家系図が皆さんの家にもあるかもしれませんが、(私の家には恥ずかしながらありました)そんな頃から日本人は、権威に弱いというか、自身の実績や実力よりも、外的な評価というものを気にする性質があり、先祖が何だろうとあんたがエラい訳でもなんでもないし、その能力がどこぞの巨人のように継承されてるわけでもないのだけど、先祖が偉いと何処かホッとしてしまう悲しき民族であり、それ故我が家とか家族というものを重要視することで、自身の至らなさを補強する材料として利用してきた一面はあると思います。

家柄、家族の誉れ、故郷に錦を飾る、地元の名士、だとかもそうですけども、日本人はとかく、自身の所属するコミュニティと自分の立場を切り離せない文化を持ちます。無論それは郷土愛という世界共通の心情でもありましょうが、おそらく日本の戦国時代から幕藩体制など歴史的な背景からして、世界一郷土愛が強く、神と祭が最も多い、郷土の呪いに囚われている民族ではないかと思います。

あるいみ日本が、戦争や革命を繰り返してきた他国には残りにくい、細やかで繊細かつ豊かな文化を二十一世紀まで保持してこられたのは、強固な郷土の呪縛だったのだと思います。
いってみれば日本は巨大なムラ社会なんだろうなと。


そのため、今の若い方々はどうだかはわかりませんが、現代に生きる老人世代というのはまだ男子こそ「跡取り」的な考えをお持ちで、姓を継ぐ、家が存続する、というこだわりをお持ちの方も少なくありません。
ですから、そういった年代の方々にしてみれば、子を産む事が不可能、あるいは前提がなく、たとえ子供がいたとしても何処の誰の子かわからない(バンクや養子の事ね)者に大事な家督を継がせることなどまかり成らん、と。まあそんな言い方する人もいると思います。

老人が皆そんなゲンコツ石頭というわけではないでしょうけど、そうして育てられてきた昭和初期生まれの方々なんかは、マジで長男しか優遇されず、家督も財産も継ぐのは一人だけ、ましてや娘なんか冷遇されまくったわけで、まあ多くの人が苗字を堂々と名乗りだしたのがほんの100年くらい前なのに、随分と日本中がこの手の文化に染まってしまいました。
もちろん、苗字がそれだけありがたいものだったから日本人は苗字を大事にする、してきた、ともいえます。

(この部分話すと長いですが、もちろん先に苗字ありきではありません。家制度が日本人の生活スタイルに合っただけであり、元々そういう気質です。そして次男以下が冷遇されたというより、次男以下は長男の予備である、という認識で良いと思います。昔は幼少期の病死や事故死は今とは比べものにならないほど多く、若年者の死亡者数が国民の平均寿命を引き下げる主な要因でした。ですんで長男が元気に成人したなら、次男以下は不要だったわけです)

で、そんな苗字が本当に「ない」のが実は天皇家ですけど、お家は苗字なんてなくとも脈々と継がれて、しっかり嫡男たる長兄、あるいは継承権の高い男子が次期天皇となる仕組みは、天照大神より継がれた万世一系であり、それは厳格に守られています(守られているって事になってます)。
これは全くの私の想像ですが、夫婦別姓や、同性婚を認めると、このあたりの正当性や順当性に綻びがでてしまうことを懸念する保守派の想いというのはないかな、と。

天皇制および天皇という存在は、日本の国体であり日本の歴史と文化の根幹を成していて、日本という国のアイデンティティを証明する象徴であるから、一切の綻びがあってはならず、これに異を唱えることはまかりならぬと、まあ今までそのようにきているはずです。

おそらくですが、夫婦の別姓や同性婚が認められてゆくと、洋の東西を問わず男が守ってきた従来型の家父長制が揺らぐ可能性=家族制度、明文化しなかった社会制度、コミュニティの崩壊=国体の弱体化、に繋がると考えるのではないでしょうか。

もっとも、現代においては日本の庶民の多くが核家族を選択し、大家族的なコミュニティを自ら解体していった社会運動的側面はあるわけで、そのことが経済の発展にも繋がり、自由と民主主義を謳歌できる社会作りにも一躍買ったわけですから、どちらが良かったか、なんてなんともいいようがありませんけどね。

ただ、今回の同性婚などの人権問題がわきあがると、必ずと言っていいほど、各種の人権団体が政党批判をしたり、政治批判をしたりと、お門違いな主張が尻馬に乗り、当事者たる同性愛者、ジェンダーマイノリティの思いや意見はどこかに置き去りにされてしまいがちです。
これは外国人の差別問題でもそうですし、女性差別問題でも原発問題も基地問題もそう。当事者ではない「関係団体、市民団体、協力団体」と自称する「社会運動家」という「共産制勢力」がイデオロギー問題に転嫁して政治攻撃を加えてくることがよくあります。

そういった彼や彼女ら運動家の真の目的が、本来主張すべき弱者救済ではない事は明白であるからして、この様な問題に対し政府の腰が重いのも、一定は理解できます。(もちろん真摯に問題に向き合い弱者を救済し解決に導こうと、支援している個人や団体の方々も多くおられます)

なので、わたしはこういった問題に絡めて政治批判をしている団体というのは信用してません。まあ某立憲とか某共産とか某社民とかも同じ穴の狢で、自分たちの主張強度を高めるため、弱者をダシにしているに過ぎません。彼らにとって弱者が何にあえいでいるのかは問題ではなく、弱者でさえあれば何だって構わないのですから。
無論野党連中を指して言いましたが、自民だって野党になったら同じ事します。所詮は利己(政権奪取のため)でしか動かない連中ですから。

今回の動きも同じく、その1の冒頭で書いた通り「G7でうちだけじゃね?」という政治利用目的で、慌てて法制化しようと考えた結果です。
でもよく考えて欲しい。
政府が差別批判を恐れてホイホイ法案を通すような真似はしないと思いますが、権利を一つ加えるということは、悪用される可能性を一つ増やすことである、ということも、私達は心に留め置く必要はあります。
同性同士の婚姻を認めるということは、男性同士女性同士、それらがどのようなアイデンティティを持っていたとて(現行の婚姻制度なら)紙ペラ一枚で婚姻を認めないわけにはいかなくなるということです。先にも書いたとおり、ジェンダーは目には見えないものだからこそ厄介なのです。

そしてようやくタイトルの、婚姻問題に切り込みます。

ジェンダーマイノリティの婚姻問題で触れられることがある、実質的に他人と家族になるもう一つの方法として、養子縁組があります。

字義通り、実親を亡くした未成年者が養親の籍に入る場合、あるいは虐待等で保護された場合も含まれますが、非常に良くあるパターンとしては、老舗の企業や店舗の後継者不在から、他者と養子縁組をし、苗字を揃えて後継者に迎えたり、あるいは実娘と婚姻関係を結んだ夫の性を、変更し一族に組み入れる、等というときに使われます。

実は養子縁組という制度そのものが家父長制度に縁取られているものであり、一般的なジェンダー(性差別)問題の一つの壁でもあるのですが、この制度のおかげで同性同士でも、擬似的な婚姻関係を築く事が可能です。皮肉なことですが。
多少条件はあるものの、明確に不自然で詐欺などの犯罪目的の可能性が懸念されるケースなど、よほど怪しくない限りは認められます。(双方の同意はもちろん必要)

この制度は、実質他人同士が家族になる仕組みであり、婚姻に準ずる権利が与えられます。ただし名目上は親子なので、年長者が養親、年少者が養子であり、養親が養子の姓を名乗れなかったり(厳密に同い年でも誕生日が先の方が養親)夫婦ならば持ち得る、生活費請求権、財産分与請求権、貞操義務(浮気をしてはならない)などがありません。

つまり養子縁組の生活のなかで互いの金銭負担トラブルが起きたとしても、正式に請求することは出来ません。また関係を解消するからといって、一方の財産の半分ないし一部を要求することは出来ませんし、パートナー以外の人間と性交渉を行ったとて咎となることはありませんので、相手に慰謝料を請求することも出来ません。

当然のことですが、同居生活をする家族内の一個人としての権利は、互いに保証され侵害されないということです。

ま、親子ですから当然です。ちなみに、ここからみても夫婦という関係が単なる同居、まして主従の関係ではないということがよくわかります。同じ家族でも男女の夫婦と親子では似て非なるものなのです。

その観点から割と重要なことですが、過去に養子縁組を行ったことのある二者間での婚姻は認められません。
これは要するに、将来的に同性婚が認められても、現在ないし過去に養子縁組で親子となった二人は、晴れても婚姻できない事になります。それは法律上親子が結婚するのと同義になるという理由からです。

ま、現実的にパートナーとして家族関係になるには、今のところ養子縁組しかないのですが、先に述べた一部の権利を有しないという以外では婚姻と何ら変わらないので、親族の理解が得られていないとトラブルに発展する場合があります。

それは、先にも述べたように、制度上の親子であるからして、実質的に親子の体を成しておらず、法の抜け道によって親族としての権利を得ているとみなされば、そもそも養子縁組が無効であると裁判沙汰になる可能性もありますし、財産や家業の乗っ取り目的の詐欺として、訴えらる事もあるでしょう。

養子縁組の制度を利用した詐欺事件は特に悪質なものが多く、近年でも連続殺人保険金搾取や、高齢者を欺し、強引に相続手続きを進め財産をぶんどるケースなど、枚挙に暇がありません。そのうちに養子縁組をする条件が厳格化する可能性もあります。

無論、これがペラい紙一枚で行える婚姻であっても同じ事ではあるのですが、若い女が老い先短い老人に近づいて「すきですけっこんしてください」なんてのはいくら何でも無理がありますし、老人本人だって「いやいや、わしの財産目当てじゃろ」というだろうし、なにより老人が「男やもめ」であっても、息子や娘、兄弟が黙っていません。ま、上手くいくことがあっても、(後妻業なんていいます。詐欺として立件できるかどうかは微妙なんですが)確実にあとで大揉めに揉めますので、メンタルが超絶ストロングでないと無理でしょう。

で、さらに4に続きます。


ディストピア

2023. . 17
今、たまたまウチに修理で入っている車が、全部別のタイヤはいているので、比較のために写真上げてみます。

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こちらは、クラッシックスタイルのラジアルタイヤの雄 アウトバーンタイヤ。
5.60R-15 ホワイトウォールで28000円

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こちらはお馴染みミシュランのXZX 165SR-15。普通のラジアルタイヤですが、スニーカーよりもサイドラインがすっきりしていて、ヴィンテージカーには似合います。少々お高い28800円

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こちらはヨコハマの、GTスペシャルクラッシック 165 80-15。
こちらもサイドラインはすっきり角刈り。60年代当時を意識したデザインが成されていて、ちょっとシブい感じですね。こちらはまあまあお手頃。18800円。

たかがタイヤ、されどタイヤ。
おしゃれは足下から、なんて台詞は昭和感丸出しですけど、ありゃあ元ネタ何だったかな、何かのCMで聞いたのかな? と、ふと思って調べたけど、はっきりとした起源は見つかりませんでした。


ま、そんな感じで車の話をして皆さんを安心させておいて、本題に入ろうと思います。


ディストピア、ってコトバ、聞いたことはあると思います。昔はSF小説やアニメなんかでないと、なかなか出てこなかった言葉ですが、語感の通り、ユートピア(理想郷)の対語とされ、絶望郷などとも訳されます。
ユートピアと同じく未来社会や、架空世界を指すことが多いため、はっきりとした定義はないのですが、ユートピアとされている世界では、平和かつ平穏な生活が営われ、人々は感情を荒げることもなく、またその必要もない、ただ社会の決まりを守ってさえいれば何の不自由もなく生きてゆける。といった描写がなされることが多く、それを、人間の尊厳が失われている、等と皮肉る形で、この社会はユートピアなどではない! と主人公が立ち上がるのですね。

絶望的な未来というと、マッドマックスなんかの世界が思い浮かびますが、はっきりとした社会秩序がそこにあるかないかがキモらしく、同じような世界観の北斗の拳とかも、世界秩序が崩壊した後で混沌を描くから、「世界の終焉の後」という意味で「ポストアポカリプス」という別カテゴリーになるそうです。
ディストピアで有名なところでいうとマトリクスとか、ターミネーターシリーズが、まずあがるんですけど、いずれも人間と機械の対立ですね。機械が勢力を高めて機械中心の秩序が人間を支配している、という構造。もう人間ほぼ滅んでるんでどうでもいいっちゃ、いいんですけど。

それがもう少しソフトな感じになると、ロボコップとかブレードランナー、バトルランナーあたりになる。双方とも多数派の平和と安寧を楯に人倫をまあまあ軽く踏み超えるという、タブーを犯すあたりにディストピア感があります。ま、その分ワルも激しく規模がでかいという、力には力で抗し続けた結果双方にエスカレートしちゃったという失敗未来です。

さらにもっとソフトな感じでいくと、そこに住む人々が絶望感を感じていないディストピア、というカテゴリーがありまして、まさにそこに住む人達にとってはユートピアな訳でして、漫画の「銃夢」のように外部から来た主人公などがやっぱり「この社会はユートピアなどではないディストピアだ!」なんて豪語するわけですが、正直ほっとけよって感じですね。

これ別にフィクションの話ではなくて、かつての大戦期などは大体何処の紛争当事国も悲惨でしたし、ドイツのナチスの様子なんかは、長らくディストピアの雛形として使われてきました。
実際に現存する国家としては、ハードなカテゴリーに属する北朝鮮とか、あとはタリバンが支配してるアフガンあたり、ミディアムなやつで中国とかロシア、政情不安な東欧諸国とか、いずれも社会主義とか共産主義とか宗教をユートピアに必要な金科玉条のように有り難がって導入した国で、(私からしたら怠慢だな、と思いますけど)ま、一応ユートピア目指してみたけど権力者にとってのユートピアにしかなりませんでした。
いわゆる西側のエンターテイメントが描くディストピアってのは一定以上の割合で、東側勢力の暗部や不幸性を揶揄しまくったわけです。もちろん当の東側勢力の人達がディストピア描くと「人々は金品を纏い、娯楽とセックスに明け暮れ、資本と利潤を貪り弱者を虐げ、世界を食らいつくさんとする帝国主義」となるわけです。


ま、どっちもどっちな話でして、ソフトな感じでなら西側諸国もいずれなりディスな部分はありまして、実のところ平和と自由と環境保護を標榜しながら、世界を支配していっているのが、いまの西側世界の姿だと思います。それらが正義かどうかはさておいたとしても、正義を叫ぶ声の大きさ次第でいくらでも事実は覆せるという実績を積んできたのが、20世紀後半の西側諸国の歴史だったと思います。(いまさらロシアは勝てませんし、中国は順次開放政策をとらなければ対応しきれなくなると思います)

わかりやすい喩えでいえば、人々がコンピューターを扱い始めて、それの便利さに気付き、心酔し、なくてはならないものになり、社会ごとまるっと(ほぼ)ウィンドウズに支配されたけども、誰も不幸になってないからいいじゃん的な。そのタイミングで(アプリの)オフィスを課金制(サブスク)にするよ! なんてやられる。なんせ、むこうは「社会」を握ってる。

ユーザーがアプリを切り替えず、いうことを聞かなければ、OSを非対応にして、更新させたらいいだけのことで、いつでもそれは瞬時に出来てしまう。

まあ、パソコン業界も黎明期のうちは、ユーザーに支えてもらいながら、ソフト開発やハード製作をするメーカーにお伺いもたてつつ、パソコン普及社会を醸成していっていたわけで、自動車業界の辿った歴史と同じような感じで、時代、文化とともに成長してきました。

したたかっちゃあしたたかですけど、じゃあ誰がそれを推し進めたのか、っていうと、ジョブズでもゲイツでもなく、今生きている我々なんですよね。

そういう社会を選択した。そういう社会を選択するように誘導されたかもしれませんが、結局選んだのは自分です。不自由さに、不都合に、不便さに、不合理に耐えかねて。

けして誰かに強制されたものではなく、自由と権利を踏まえた上で、社会の有り様に対して立法し行政されるのが(基本)民主主義ですから、ユートピアの住人とは「自らで檻を造り、自ら檻の中に入り、自ら檻の鍵を掛ける生き物」と揶揄されるのもよくわかります。(こりゃ、アップルシードですね)

最近のディストピアもので人気なのは、人工知能による暴走です。
AIという概念が生まれた頃からあったネタですが、しばらくして現実のAIのダメっぷりに「こりゃ使えねーな」、と飽きられ、コンピューター社会が現実的になるまでしばしなりを潜めていました。

そんなこんなでようやくコンピューターの業界から、使えそうな生まれたのがAIという存在ですが、何の略かというと、Artificial Intelligence (アーティフィカル インテリジェンス)という耳慣れない単語ですが、直訳するとまんま、“人工的な知能”となります。
昨今ではAIの進化がめざましく、AIが何を言ったのだの、どう応えたのだと、人間の何歳児相当の知能だとか話題になったりします。まだまだ人間の知能には及ばないそうですが、その理知的かつ、理性的、聡明さとユーモアのセンスを持ち合わせ、小説を書くようなAIが生まれるくらいでありますから、とっくに知力的に追い越されてる人間もまあまあいるだろうな、とは思います。

で、案の定というか、近頃話題の「チャットGPT」を称賛するような声が多く、心酔している人も少なくはない。いわば一時的な過熱ブームではあるのですが、これが加速してゆくと少々厄介なことになります。

人間があまり自分でものを考えないようになったのはインターネットの普及からこっち、すでに20年に及ぶ歴史ですし、今更嘆くことでもないのですけど、もはやAIが答えを出す時代になると、人間がAIに、思考や判断を外部委託するようになるだろうなと。

「AIは間違わない」が常識になると、人間は、確認作業のようなしょーもない仕事をしなくてよくなります。そもそも、人間が考えてもAI以上の成果を出せないなら、AIにやらせた方が合理的なのです。

AIの有用性を論じるとき必ず、介護分野にAIロボットとかいう話が出てますが、人手が足りないからといって、機械にやらせるというのは前世紀的(古典ロボット的)な考えで、AI導入は、AIが確実に出来ることを肩代わりさせるべきで、AIが処理に困るようなもの、人間がやった方が得意な部分は人間がやるべきなんです。

現況であっても、あらゆる役所関係の窓口業務など、ほとんど人間は要らず、決まったことさえやればいいのならAIで充分ですし、例えば裁判なんかでも過去に判例がでているような事案は、起訴された瞬間に判決でておしまいです。

死刑の執行官なんかそれこそ真っ先にAIがやれば良いんです。
警察や自衛隊、消防などの分野で、危険な任務にあたる場合でも、高性能なAI義体さえあれば、やることは決まってるので任せて安心、人間よりも丈夫で強い、なんてことになります。第一、死なないし、使い放題。

またオートメーションの農業プラントや、漁業ロボット船ができれば、一次産業に従事する人々は過酷な肉体労働から解放されます。

そうすると、何が起きるのかというと、AIが社会秩序を担うようになります。
なぜなら、法に基づいて成された社会秩序という、「既に決まった檻」から出ようとするのは、一部の人間(エラー)だけだから、AIがその単純な処理(デバッグ)を管理するようになります。

基本的に社会秩序を乱す存在はない、という仮定の下で、問答無用で法が執行されるという流れになります。
つまるところ、「それで誰か損をする人はいますか? 悪いことをせず、ルールさえ守っていれば何も問題ないのでは? 過失は自己管理のミスでしょう?」という、たびたびSNS界隈で見かけるシニカルなコメントそのままの理屈が、社会の最低限のルールになります。
ま、あれですアニメの「PSYCH PASS」の世界ですね。
人々は社会に従い、迎合していれば、平穏に暮らせる。そこからはみ出すことを人生における最大の非とする。たったそれだけが守れさえすれば抑圧されることもなく、強制されることもないユートピアであると。

そんな馬鹿な事があるわけがない、というあなた。今(2023年)から三年遡って、この日本の様子を改めてなぞってみてください。

別にAIがあろうがなかろうが、社会を維持する必要性に駆られれば、人間はものを言わないマシンになることが出来ます。当然思考することもやめます。これも別に近現代に限ったことではなく、太古の昔のほうがより単純に機械的であっただろうと思います。

思考していたのは王族や貴族だけで、その他の人間は生産機械、労働機械であったのです。
それが、AIが一定の力を持った時点で、現代で言う政治家連中に成り代わり、社会インフラを担い、社会的フォーマットを掌握し、その盤上で必要な“人材”を配置するようになります。
人間側から見ると、“要所要所に必要な人員を配置していないと、いざ社会を維持しているシステムに綻びがでたときに、対処できず大災害となる”とするわけです。どちらがどちらを制御、支配しているのかわからないような構図ですが、ここまでくると鶏と卵のような関係なのです。

AIは、散々人類が積み重ねてきた英知を奮い社会を統制しますが、人類は思考する必要性を失いマシンになる。皮肉なもんですが、一定の人々はそうならざるを得なくなるでしょう。

こういった話の時に科学者などは、「人間はAIには出来ない創造的な活動をするように求められるだろう。人類はより文化的に、豊かで満ち足りた生活を、誰もが享受できるようになる」みたいなユートピアン楽観論が語られる事が多いですが、人口70億突破の人類がみんなクリエイティブになんてならないし、なってどうするんだって話です。
現実は無数にあるAIのハード部分の保守や、各種義体や作業機の管理保守、資源採掘や資材調達、それに清掃にまつわる廃棄物処理に社会維持のための子作り、子育てといった、実にクリエイティブな奴隷的作業を任せられます。

なにより、AI議会で「人類多すぎなので減らしましょう」と瞬間的に議決されようものなら、各所の軍事ドローンとか戦闘義体が人類に向けて殺戮の限りを行います。AIには生命の概念がないので不要なユニットは消去するだけです。ただそれにより社会の心身衛生状態が悪くなったりすると問題なので、衛生的な死体処理や、伝染病を防止するため強力な消毒剤を散布したり、生き残った人々がメンタルケアが受けられるよう至れり尽くせりの処置は施します。

AIには欲望はありません。AIは思考と情報の並列化が瞬時に行われるため、全てのAIが同じ内容をストレージします。そういった間柄で個々のAIという概念はありませんし、当然対立も起きません。AIには物理限界もありませんし、時間的制約もありませんので、どこまでも議論を尽くすことは出来ますから、対立が起こると、徹底的に演算して最適化を目指すでしょう。もしくは矛盾を克服できず、延々と自己議論を続ける可能性もあります。

もしもAIに欲望があるとするなら、漫画やアニメのように、「私も人間のような感情がほしい」とか「創造的思考がほしい」とかではなく、ただひたすらに「極相林」にみられるのような「完成したシステムの永続性」を求める事なのではないかと思います。
ですから、AIが社会を統制すると、未来は破綻しますし、進化や変革を望む人類は淘汰されます。

AIは与えられた条件の中で最適解を導こうとするでしょうから、彼らのユートピアはやはり箱庭のユートピアでしょう。
人間が信じたいものを信じ、知っている範囲内の事柄を常識と倫理で読み解き、感情によって自ら檻にはいって鍵を閉める意志決定するのとおなじく。

認識できる世界の中で幸福追求を行うというのも一つの幸福な世界観だと思いますので、あながちしたたかな統制やあからさまな陰謀や、不誠実な欺瞞だらけの世界がディストピア、ともいえないかなと思います。

ま、究極的には、自分が幸せなら、世界もまた幸せであると言い切れるのですけどね。








 










LGBとTにおける婚姻問題 その2

2023. . 08
てんちょのあやしいはなし

私がLGBとTを別にしてお話するのは、LGBは性指向の問題でありながらも、「異性愛者がまず持ち得ない性嗜好」が大きなファクターを占める話である上、ほとんどのLGBが性自認には言及しないからです。
逆から引きますと、Tのトランスジェンダーは、ただひたすらに性自認の話であり、彼らは生物学的観点からはゲイやレズに分類されてしまいますが、性の自認性においては異性愛者(ヘテロセクシャル)でありトランスしているわけではありませんし、性嗜好はストレートです。
そこのところを大雑把にまとめて、全員まるっとセクシャルマイノリティと呼ばれたり扱われたりするのは、当事者にとって違和感や苦痛を伴うのではないかと思いますし、新たな差別や認識不足からくる誤解などで、トラブルが起きる可能性はあります。


そのような、一人の人間の尊厳やアイデンティティにまつわるデリケートな話ですから、呼び名、呼称、俗称や、その取り扱いにも各業界は相当慎重になっているようで、統一も出来ていませんし共通認識も出来ていません。あるいはこの先医学の認識次第で言葉の定義が変化することもあり得ます。

ですので私などは、この感覚的にも感情的にも理解が難しい上、当事者達でさえ捉えきれない複雑怪奇な問題を、今までろくに考えてもこなかった一般人が、この段階からどうにかしようというのはあまりにも無謀だと思われます。

先ほど医学用語のお話をしましたが、GIDのDisorderは、「疾患、不調、障害」を指しています。ですが、トランスジェンダー当事者が「病人である、足らずである」という認識を好まないため、当事者に対し「GID」「性同一性障害」という言い方は望ましくないというのが今の流れです。
近年「性同一性障害」に変わるコトバとしてはGD(Gender Disphoria)という言い換えが為されており、日本語では「性別違和」「性別不合」などと言われたりしています。

また、ここもややこしい話ですが、全てのトランスジェンダーが必ずしも「性別違和」に苦しんでいるかというとそうではなく、当然ながら現状を受け入れている人もいます。ただ、中身と外見の違和により精神的な健康を欠く場合、外科的処置により不合性を緩和します。要するに皆さんからしたら馴染みのある「性転換手術」ですが、これもまた近年では「性別適合手術」、SRSとも呼ぶようになっています。
もうこのあたりまでお話していたら、何故呼び名が変わったかはお解りだと思います。
「転換」ではなく「適合」といい、当事者の立場に立った語句になっているわけです。

現在の身体性に嫌悪感を持ち、性別適合を望む人、または既に外科的措置を受けた人のことをトランスセクシャルといいます。こういった方々は外見上限りなく女性(男性)で、普段の社会生活も見た目の性として認識されつつ生きている方も多数おられます。
ただ、カミングアウト(カムアウト)できるのは一部の業界の人とタレントくらいのもので、日本社会にはそんな寛容な仕組みはありません。

また、この様に書くと、トランスジェンダーとトランスセクシャルが並列しているような錯覚を覚えますが、大まかにいいますと、ジェンダーマイノリティが一番大きな枠で、そこにLGB(レズ・ゲイ・バイ)とT(トランスジェンダー)が入る。話がややこしくなるのでQは別枠として。そのトランスジェンダーの中で性別適合を望んで、外科手術を受ける人と受けたいと感じている人がトランスセクシャルという分類になりますが、それに忌避感を感じる人もいれば、現状の身体性を受け入れている人もいる。

だから一括りに、トランスジェンダーはすべからく性別適合を望むものだ、とするのは間違いです。
また、女性装をしているからといって、必ずしもトランスジェンダーな訳でなく、またはゲイやバイでもない。そういう趣味の人(クロスドレッサーまたはトランスヴェスタイトまたはコスプレ、男の娘)もいるというだけです。
現実の問題として、性の指向や嗜好等、人の心を明文化するのは非常に困難であり、その色や形はしれても、手触りや匂いや温度までわかり合えないのは当然です。男女ですらわかり合えないのですから。

ただ、だからといって感情的、感覚的に捉えるに任せれば、人々は無軌道に自身らの快楽的解釈を施して、都合の悪いモノを排除してしまう。そして、その過程で必ず不幸な事案や個体が発生してしまいます。
ですので、ある程度はその不幸な事案発生の抑制のため、法整備が必要になるのです。
自身らの権利を求めてセクシャルマイノリティが、社会を変革する運動の中心軸にくるのではなく、現状+アルファで、今不幸にあえぐ人を極力なくしてゆくことが、現行政治の使命なのだと、私は考えています。

ただし、堂々巡りになりますが、法が成立するためには、その国の国民が根拠になる諸問題を、感情ではなく頭で理解し受け入れられなくてはいけません。日本というほぼ単一民族で構成された保守的な国は、長らく人権というものに向き合わずに済んできました。
そのため、いつの時代においてもこのあたりの議論を疎かにし、目を背けるケースが非常に目立ちます。

性自認と身体性が一致している多くの人も、普通に考えれば解ることですが、何故生まれて数年の幼児が予備知識もなく最初に車輪の付いたものに興味を示すのか、あるいは花や人形に興味を示すのか、それは結果論的に男の子だから女の子だから、と我々は当然のように捉えますが、その不思議な現象こそが「ジェンダー」の存在を表している、ということにまず気付くべきです。

ジェンダーアイデンティティとは周囲の認識や養育環境により後天的に獲得してゆくものではなく、脳の性分化によって決まります。ざっくりいいますと、今現在の医学的見解では、人間の脳は基本的に女性脳として発生し、男性の場合はそこへアンドロゲン(男性ホルモン)の影響を受け男性脳として分化するそうです。これは胎生期の段階で行われる仕組みなので、男性も女性も生まれた段階からジェンダーは固定されています。

この事を決定づけるきっかけとなったのは、ブレンダ症例という大変有名なお話があるのですが、長くなるので割愛します。興味のある人は調べてみてください。

ですから自ずとトランスジェンダーは、生まれたときからトランスジェンダー、ということになります。
蛇足ですが、アンドロゲン不応症とかクライフェルター症候群といった遺伝子疾患で、男性に生まれながら身体が女性化してゆくという方もおられ、これをして(彼、彼女らを)ジェンダーマイノリティの類型に嵌めるというのは、すこしどうかという気はします。 

ところが、性分化の仕組みがはっきりしてきたことで、現在では従来型の親の思い込みによるジェンダーの刷り込みが(虐待にあたるのではないか、という)問題になったりしています。

幼児に対してもジェンダーを決めてかからない、多様性を尊重する、という取り組みが為され、子供がより自由に育つよう考えられているのは大変良いことですが、これこそ、政府やどこぞの機関の用意した指標を基準にするのではなく、親の肌感覚で子供を観察して、幸福感を認める、という思いやりが必要かと思います。

今回取り上げた「LGBとTにおける婚姻問題」ですが、実際の所これを議論するには、ここまでのお話を正確に理解し、想像力をフルで働かせなければ不可能であるということをお伝えしたく、書き綴ってきました。

その1の冒頭でも書いたように、永田町の老人らはおそらく理解が出来ないまま、この問題を議論しているとおもいます。不満を漏らしながら。

ご存じの方も多いと思いますが、2015年に世田谷区と渋谷区ではじまった「パートナーシップ制度」これは、各自治体が互いをパートナーとして認め、証明書を発行するなど、同性カップルを支援する目的で作られた行政サービスです。

この制度の実現がもたらしたものは、制度そのものの実効力というより、同性カップルの存在が表層に浮上し、世間に認識されるといった部分で、行政機関が導入したという点では意義が大きいでしょう。今現在もその同類の制度は全国の自治体に広がっていっています。
ただ、日本におけるパートナーシップ制度というのは、自治体が証明書を発行する等、自治体レベルで出来る範囲でだけで、法的に婚姻というものとしては認められていません。


現況、日本の自治体が独自に展開しているパートナーシップ制度がどういうものかといいますと、行政サービスが家族として受けられたり、公営住宅などに家族として住民登録できる、また全てではありませんが病院などで家族と同じ待遇が得られる、生命保険金の受取人として登録できる、といった動きが進んではいるようです。
しかし、婚姻のように、財産の相続、入籍、親族のみが行える手続き等、には関与できません。

では何故、日本における同性婚のハードルがそんなに高いのか、というあたりを掘り下げてみましょう。

で、その前に一応、知っておくと頭が良いと思われるので、是非覚えておいてください。

日本国憲法第24条1項で「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有する事を基本として、相互の協力により、維持されなければならない」

という、特にマイノリティでもない我々の身にもつまされる、文言が並んでおりますね。両性や夫婦とは無論男女のことを指しますから、解釈次第では「同性はダメ」「該当しない」ともいえます。

そして一方、憲法第14条1項で「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない」

とあり、全ての人は平等であると定められている。これが原理原則なんです。ですから日本の、「同性カップルの婚姻は認めない」、というあたりが憲法違反に抵触します。

そして極めつけは、憲法第24条2項の「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻および家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない」

と、少し難解ですが、「個人の尊厳と本質的平等に立脚して」という部分が重要です。

そして私の好きな、幸福追求権 第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」

で、先ほどこの手の裁判で、「同性婚を認めないのは差別であり、憲法違反である」という主張に対し、東京地裁は「違憲ではないが、同性パートナーと家族となる制度がない事は、違憲」という変な判決が出ました。まあ私なりに解釈すると「現行法に不備はないが、早急に制度を整えるべきだ」という前向きさには聞こえます。

無論これは、憲法が制定された時点で同性婚という想定が為されなかったのが原因で、時の臨時政府やGHQに、同性婚を阻止しようという意図があったわけではないと思います。
ただ、日本という国は世界最長の家系である天皇家を頂くだけに、厳格に血族関係や家制度を重視する国柄で、それが男尊女卑の文化を発生させてますし、子を産めぬ家など無価値とばかりに切り捨ててきましたから、無論のこと同性愛やらジェンダーフリーなどあり得ず、いずれも非生産的な性など認める素地はありませんでした。

ちなみに江戸時代くらいに寺社や武士の文化がおりてきて、庶民の中で男色(衆道)が大流行した時期がありました。(歴史の教科書には載りませんが信長も家康も信玄も、もちろん掘ってます。ただ秀吉だけは好まず、やらなかったらしいですが、今年の大河の松潤みたいなのは問答無用で絶対掘られてます)とはいえ、忠誠や魂の契りのような精神的な関係性の上に築かれていた、武士や武将達の同性愛に対し、江戸期のこれは、あくまで性嗜好的な流行であったかと思います。

ま、江戸時代はめちゃくちゃ平和だったので、あらゆる者同士の性交渉、性行為に対して非常に寛容でした。まさに江戸全体で快楽に溺れていたんですね。

もちろん武家の奥さんなどとの不倫がバレたら、現代のように300万では済みませんで、修羅場の文字通りサクッと殺されたそうですが。

そんなわけで、というか話が広がっただけで何にも結論しないので、その3に続きます。







LGBとTにおける婚姻問題 その1

2023. . 05
少し春の自由研究的に。

てんちょのあやしいはなし

いま、LGBTの婚姻問題が永田町で悶々と議論されてるようですけど、たぶん日本の政治家のオッサンは、全くもって受け入れられないでしょう。それより、先進7カ国の中で同性婚を認められないのは「ダメじゃね?」という空気感だけが支配している。

うちだけじゃん? 的な。

私的には、まだそれでもいいと思うんですけどね。ちょっと性急に過ぎる気がします。

個人的には「LGB」の人はちょっと普通に受け入れられないかなってのはあります。自分がそうじゃないから。
だって私は、男に恋愛感情抱かないもん。恋愛感情ベースで一緒に寝たいとか、交合したいとかも思わない。
こういう言い方青すると誤解が生まれますよね。必ず。
LGBってのは性嗜好(せいしこう)ではなく、性指向(せいしこう)であると。

読みは同じですがコトバの意味は全然違う。

極々一般論的にいいますと、

性(的)指向は恋愛感情を向ける対象を指す。だから向きを指すという意味の「指向」と書く。
性(的)嗜好は性的興奮を誰(何)で感じるか、を指す。だから嗜好品の「嗜好」と書く。

で、ここで間違えてはいけないのは、コトバは別だけども、これらが同列で別のモノとして並列している、と考えるとおかしな事になります。

性嗜好は、ヘテロ(異性愛者)だろうがホモ(同性愛者 ゲイ・レズ・バイ)であろうが皆持っている。そんなものはないという人は性欲そのものがないのだと思います。(だいじょうぶ、まだ見つかってないだけで、きっとそんなあなたも見つかります)
なので、性嗜好というのは、大抵性指向の中に包括されてます。

男性は女性に恋愛感情を抱き、女性の身体あるいは身体部位に対して性的な興奮を覚えます。

同じく、

ゲイの男性は男性(ゲイ、バイ、ノンケ)に対して恋愛感情を抱き、男性の身体、あるいは身体部位に対し性的興奮を覚えます。

ただし、性指向と性的嗜好が必ずしも一致するわけではなく、男性として性指向は女性だが、男根に性的興奮を覚える、等といった例もありますし、あるいはフンドシやハイヒールといった、モノにフェチズムを感じるケースも性嗜好であり、この場合パートナーがフンドシ、あるいはハイヒールさえ履いていればそれで性交渉が成立してしまうケースもあり得るわけです。
さらに言えば、男性が女性装している姿が良いだとか、顔は女性で男根と乳房が付いてるのが良いとか、髭面のオッサンがひらひらのドレス着てるのが良いとか、まあ、ややこしい。

広義に捉えればロリコンやSM、スカトロなども性的嗜好に分類されます。(詳しくは後述)

ですので、現況なかなか理解されにくいのが、この問題。
LGBT=性的弱者・セクシャルマイノリティと訳されているにもかかわらず、「変な性癖の持ち主達」と、皆がどこかイメージしてしまっている事。

ちなみに、よく皆さんが口にする「性癖」ってコトバは、「性的な癖」ではなく「癖の性質」のことです。全然違います。本来性癖にはセクシャルな意味はなく、行動原理的な癖やこだわりを指し、どちらかというとネガティブな、社会通念上好ましくないとされる個人の癖に対し「性癖」を使います。昨今はその言葉の響きが便利なせいで、性交渉の際のフェチズムに充てて「性癖が異常」などと使われたりしますが、完全な誤用です。
(上記私が指した「変な性癖の持ち主達」という使い方は間違ってはいませんが、前の文脈からすると間違いです。私は意図的に誤用していますのであしからず。正確には「変な性嗜好の持ち主達」となります)

はっきりいいますと、この分野は底なしの沼です。入り込むと訳がわからなくなります。

ヘテロセクシャル(異性愛者 皆さんが考える普通の性指向の人、ストレート)から見ると理解に苦しみますし、多分完全に理解も出来ません。それに性的マイノリティに属する人々自身も自分たちをなんとか規定して、主張強度を上げようとして、いろんな言葉を生み出しましたが、やはり全てのマイノリティがそれに属しきることは不可能なので、さらに細分化していったという。

単純に昔は、「普通と変態」だったのが、「私は変態だが、お前の変態とは違う」と言い出したり、「変態は変態だが、この一線は越えない変態である」としてみたり「いいや、お前は俺の変態と同じではないから、その種別を使うな」といった内ゲバが生じたり、あげくは「変態ではない、自然だ」と主張しだしたり、そんな歴史で今に至るわけです。

で、最初にLGBの人を(恋愛対象として)受け入れる器が、自分にはないなぁ、というお話しでしたが、私も含めた一般人のLGBに対するぼやっとした忌避感というのがかならずあります。
しかしそれは、LGBの方達の人格や性指向に対してではなく、もっと単純に、「異性愛者であればまず持ち得ない性嗜好」がセットとして付いてくる事が殆どであるからだと思います。それだけのことです。

わからない方がいるといけないので一応断言しておきますが、普通の男は男根を男のケツに挿したいとも挿されたいとも思っていません。仮に男に迫られたり、諭されたりしたとて、渾身の力を込めて殴り飛ばすか、全力疾走で逃げます。そこで殴りもせず逃げもせず、唯々諾々と許容してしまうそんな男は、腐向けBL漫画くらいにしかいません。

さて、じゃあTは何処行ったと、ここから本題のお話です。意外なことに、ここでこの手の話をするのは初めてですね。(過去にジェンダーの問題 は切りましたが、ジェンダーバイアスやジェンダーロールはまた別の観点から語られる話ですので、今回は絡めません)

Tってのは「トランスジェンダー」昔は性的倒錯者などと呼ばれたり、変態はもとよりオカマとかオナベとか、割と無自覚に蔑称に晒されてきた、理解も得られにくい、苦労の多い分野の方々です。
今現在においても、自覚無自覚にかかわらず、社会的な影響もあり、自身でそれと受け入れたり表現したりができない人も多く、潜在的にどの程度いるのかは皆目見当が付きません。

また、無自覚層においては、ちょっとズレてる感覚はあるけども、それほど違和感を覚えない、もしくは許容できる、という人も多い印象です。

我々がここでしっかりと認識しなければいけないのは、「性自認」「身体性」「トランスジェンダー」「トランスセクシャル」の4つが何を指しているのかということです。

歴史的にはさておき、現代においてトランスジェンダーとは、自分が思う「性自認」と自分の身体の「身体性」が一致しない状態のことです。
「ジェンダー」というのは解りやすく言えば「社会的な性」ともいえますが、ここでは「自分が思う性」のことです。
「セックス」というのは、行為そのものではなく、生物学上の性別です。生殖器や身体構造といった物理的な部分を指します。

なので、人間以外の(たいていの)動物にはセックスはありますが(おそらく認識できるほどの)ジェンダーはないと思われます。

だからといって、ジェンダーは人間が頭の中で作り出した概念なのかというとそうではありません。実は近代から現代まで延々とトランスジェンダーの方々が被ってきた各種の悲劇は、「ジェンダー」が脳で作られたマトリクスであるという誤解が生み出してきました。

要するに、その者が規定する異性の鋳型に自身を落とし込み、振る舞うことで、精神的安定を得ようとする恒常性機能であると考えられてきたのです。ですから、性同一性障害は精神疾患の一種だと捉えられていた歴史があります。
そういった時代では、当該児童の行動を制限したり、外見的に矯正したり、あるいは精神科医による投薬など、本人の意志を無視した、まさに虐待と捉えられる行為が行われてきましたが、これは無知から生じる愚かな行為でした。

無論、これによって身体性に合わせて性自認が変化した例など一件もないそうです。(この矯正が苦痛で表向き変化をした方はいるかもしれませんが、歪なことです)
詳しくは省きますが、性同一性障害として診断される方の脳は明らかに、身体性と一致しない特質を持っているそうで、文字通り(脳が心の役割を果たしているなら)心は女性(男性)身体は男性(女性)となります。


蛇足ですが、逆にペドフィリア(小児性愛)は児童などの年少者を性的対象として捉える姿が奇異で、当初性的嗜好倒錯、異常性愛などとして疎んじられ、侮蔑されていたのですが、近年の認識としては、精神疾患であるとされています。

ただ、これをしてロリコン(ロリータコンプレックス)は成人(あるいはそれに近しい)男性が女児、幼女に対して恋愛感情を抱く状態をいい、(基本的に成人女性×男子児童のケースは含まれていない)ある意味、性指向と性嗜好の定義に照らすと、ペドフィリアが性嗜好をさしており、ロリコンが性指向を指すことになるのです。しかしいずれにしても児童との恋愛も性交渉もあり得なければ、児童ポルノという分野は世界中でタブーですし、世間に認められたところで一切の主張強度を保てない、実に不憫な性指向(性嗜好)といえます。

これは他の露出嗜好や動物性愛、窃視、過度のマゾ、サドプレイ、ネクロフィリア等も同様、一歩間違えば犯罪なのですが、彼らにもその性嗜好を謳歌する権利は有しているわけで、同時に人権的、人格的に差別されるいわれはない、というあたりも同時に論じるべきではないかと思います。

どうも私的には、LGBT以外の性指向および性嗜好をお持ちの方は、見て見ぬ振りをされているように思います。というか当事者らも触れて欲しくはないでしょうけど。

性同一性障害というのはGender Identity Disorderという医学用語で略してGIDといいます。「性自認と身体性の不一致」となります。

これに似たもので、Disorders of Sex Developmentという医学用語で、DSDと呼ばれています。俗に言われる「ふたなり」などはこれにあたりますが、要するに身体構造的に「どちらの性でもない」状態です。
遺伝子的な疾患であり、身体が男性あるいは女性の特質を不十分か、または重複して備えているという状態で、性自認が中性(Xジェンダー)であるということではありません。

長くなってしまいましたので、次回(あれば) 「LGBとTにおける婚姻問題 その2」に続きます。







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