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晩秋の山

2022. . 20
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名もなき山の尾根。
また私は道なき道を歩いています。
道を探して歩いている。求道者とは私のような者のことをいうのです。

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最近また腰に疲労がたまってきていたので、山歩きでリセットしてきました。
どういう理屈があるのかわかりませんが、腰が痛くなっても、一度山に入って不整地を歩き回ったら一撃で治ります。なので、時にバイクではなく、徒歩で山を歩いていたりもします。

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昨日は昼でも風が強くて激サムでした。
でも山の中で自然に抱かれていると、普段の生活の些末な問題なんてどうって事ないって――そんなこと思えるほど単純じゃありません。

悩みは悩みで消えたりしませんし、問題も解決しません。
それはそれだし、これはこれ。
ただ、家庭や仕事以外にも夢中になれたり、必死になれる物事をいくつも持っている人は、塞ぎ込まなくて済むだろうなという気はします。逃げ場というのは適当な表現でないのかもしれませんが、相互転嫁できるというか、全部自分なんだけど、あっちの自分とかこっちの自分から、状況に応じて都合良く俯瞰できるっていうかね、そういう感じ。

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ま、でも、山はいい。
山の近くに家買って正解だった。たのしい。

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昨日の気温、夜はこのくらい。

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さて、明日から大詰めです!


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わすれないということ

2022. . 31
てんちょのあやしいはなし

世界的に物価高騰、燃料費高騰で、各地でインフラ不安、生活不安が起きていて、もはや待ったなしな途上国も出てくる始末。そんな世界があえいでいる中で相変わらずゼレンスキーは夫婦揃って「子供が危険にさらされている、武器をくれ、金をくれ」を連呼している。これがどれほど厚顔無恥な話か。

そもそもウクライナが民主国家だから守らねば、等という論調がありますが、戦争が始まってからこっち、ウクライナは議会を閉鎖し、メディアに規制を敷いて、ロシア系の住民を抑圧し、大統領の独断で国が動いている独裁国家です。
いわば徴兵もやりたい放題で、情報も操作し放題、まともに政府が機能していないのだから、ロシアとどっこいどっこい、何をかいわんやです。まだ政治として戦争をしているだけロシアの方がまともな国家かもしれません。

戦争を止めようともせず、ただただ徹底抗戦あるのみ、などと金にくらんだ目で拳を振り上げ続ける為政者がまともですか? そこへ在庫一掃のためとはいえ武器をどんどんと送り続けるアメリカがまともですか? 

こういう事を言うと「ロシアよりマシ」とか「そもそもロシアが」と反論してくる方が一定数おられるのですが、それはロシアの事情であり、戦争するかどうかというのは自主的なものであり、じゃああなた方の国の方針は「ロシア基準で動くのか?」と問いたくなる。それこそロシアの思うつぼで、所詮は属国ではないですか、と。

むろんロシアの意志で動いているのではないですけどね、ウクライナは。

ウクライナの宗主国たるアメリカは、戦争の継続と、ロシアへの牽制。資源をロシアに依存するユーロ圏への、間接的な経済攻撃、NATOの拡大、意図的な冷戦構造の再構築で、対立を発生させ、再び世の中を混乱の時代へと引き戻そうとしているように見えます。
それに乗じて台湾危機を煽るのも、日本の国防費アップへの議論に誘導するのも、全て出来レースであり、私達はコロナ以前からそうであったように、ずっと金を吸い上げられるだけの国に成り下がっていたのでしょう。

ウクライナ侵攻を皮切りにパンデミック後を見越した、アメリカ主導の巨大なビジネスが始まった、と捉えるのが正しい解釈ではないかなと。

そういうの、何処も言わないんですよ。人権至上主義の面を被った経済至上主義のこの世の中では。
日本は絶望的ですね。

政権与党がアレではもう、言い訳できません。自浄能力皆無じゃないですか。

安倍銃撃の際も、宗教団体名を伏せていましたが、これが開票まで明るみにならずに自民党圧勝などと嘯いていたマスコミの醜悪さはすくいようがありません。
以前より創価学会と公明党の問題で、政教分離の原則が守られているのか、という問題は常にありましたがそこはのらりくらりであったわけですし、与党であるマトモぽい自民党が多数を抑えているから、政治に対する不安感や、不信感というものが薄かったのです。民主党よりマシだと誰もが口を揃えていました。

しかし、開けてビックリ、最大政党にして歴代与党の自民党が、カルト宗教とズブズブであったなどとどう申し開きをするつもりなのか。だからといって他党がよいともなんとも言いませんが、これは普通に有権者への裏切りであり、民主主義を冒涜したのは何を隠そう自民党であったわけです。

当初この銃撃事件を民主国家への叛逆であるなどと嘯いていたのは、マスコミや公安筋の苦しい情報操作の結果ですが、何処をどう切り取ったところで山上氏には政治信条などなく、個人的な怨恨による犯行とされ、国家転覆テロなどという曖昧な位置づけは即否定され今に至っています。

元首相をはじめ、現役の閣僚、歴代の自民党員が、カルト教団と懇意にしていた事実をつまびらかにし、世論が与党のキンタマ握ることになったきっかけを作った山上氏は、ある意味憂国の士とも言えましょう。

あえて言うなら安倍氏は祖父の代から続いた、自身も加担し続けた腐った政治姿勢を精算すべく、贖罪の山羊として、最後に自らの政治家としての矜持を全うしたのだろうなという捉え方も出来ます。もっとも褒めるべきは、最後の最後に自分の命を差し出して良い仕事したな、と。

無論ですが、国葬に値するような人物ではないことは明々白々で、今からでも撤回するのが政府のせめてもの良心と言えましょう。

奇しくも先日、無差別無軌道テロともいうべき秋葉原無差別殺傷事件を引き起こした加藤が、このたび死刑執行となり話題にあがりました。
これをして一々、死刑制度の是非を問う声もあがるのですが、それというのも先進国において死刑制度があるのは日本くらいのものであるというくだらない一点だけが、どうにもクローズアップされているように思えてなりません。

実際問題、死刑囚が死刑になることで我々の生活に何らかの影響があるかというと、皆無であり、はっきり言うとどっちでもいいし、どうでも良いことだったりします。
実際死刑執行のニュースが流れなければ、国民は被害者を除けば、ほぼほぼ加藤のことを忘れていたでしょう。私とて忘れていました。

ニュースになれば騒ぎ出す。死刑制度への批判もあれど、死刑必要論も根強い。中には執行役である刑務官の心情や、時の法務大臣を慮るような声もあるが、面白いことに、最も重要な、加藤の生き様や人生、犯行に至るまでの道程や経緯を人々が、この期に及んで改めて反芻することがないという点です。

犯罪者がどんな刑を受けようと他者には何の関係もないことなのに、いつでもそこだけが常に流される様は、日本文化に根強く残る「切腹と、さらし首」の倫理観なのだろうかと思わないでもありません。事件とその顛末だけが重要とも言いたいのか。

事件が何故起きたのか、何故事件を起こそうとしたのか、そこに言及はしない。
むしろ事件を起こすまでは、自分たちと同じ立ち位置にいた人間のはずなのに、個人の動機以外には興味を示さない。

しかし、個人が生きているのは我々が生きているのと同じ社会であり、異世界の住人でも、他文化の担い手でもありません。

犯罪は誰もが起こしてしまう可能性を秘めています。
自分は大丈夫、そんな身の持ち崩し方はしない、あんな惨めな凋落はあり得ない、自分の子供に限ってあり得ない、そう皆さんは言い切ります。そして、あの大人しく礼儀の正しい人がまさか? と驚嘆する。

他人の死や罪行を、自らのことと捉える人はそうそう居ないでしょうけども、せっかくそれを見せつけられたのならば、一度我が身のこととして落とし込んで、事件につき一考してみるべきではないかと思います。
死んだこと、殺したこと、殺されたこと、殺されかけていること、死にかけていること、何故そうなるのか、何故そこに至ったのか、私達が考えなくては、この先の未来がなくなるような気がしてなりません。

私達は、実際に自分が見聞きした過去の事実を忘れてはいけません。それが今に生きる人の使命だと思います。私達は戦前や戦中のことを知らないから、知っている年代の方からの話を聴くに留めることしか出来ませんし、どうしてそうなったのかは、研究者や知識人の智恵を借りながら想像して考察してゆくしかありませんが、私達が知らなければ、何度でも歴史は繰り返しますし、忘れれば何度でも同じ不幸に襲われます。

おそらく自民党の党員はあまりに教会との付き合いが恒常的であったせいで、自分たちの行いがおかしな事で、民主主義や近代政治の基本理念に反している事がわからなくなっており、国民感覚との乖離にさえ気づけないほど間抜けになってしまったのでしょう。

私達は自分の国に起きたあらゆる不幸や、災厄、事件や事故、それらを生み出した社会背景や、その空気感、誰が何をして、人が何をしたのか、そのことをつぶさに見届け記憶せねばなりません。
三年経ったら手打ちになるようでしたら、次の選挙のときも、自民党は統一教会の票で圧勝します。

現政府は確実に、民意に反した、反社会的集団です。
そのことを心に留めるのは、日本人としてのもっとも大切な使命ではないでしょうか。

ま、もっとも、野党連中がいつものように吠えないあたりを観ていると、藪蛇案件なんだろうな、と思います。民間から選出された代議士がズブズブであるということは、それはもはや官僚組織や、マスメディア、あらゆる公的組織や、その利害関係者にまで影響が及んでいると解釈できるのであり、政府の闇が深いという話では留まらないと思います。

というか、力なき正義は無力で所詮、民主政治なんて綺麗事なんだなと、再び絶望的な気持ちになりますね、何処の世界を観ていても。

まだまだ人類の夜明けにはほど遠いです。
人類が今もって完全な「人工知能」を発表しない理由がよくわかります。

人工知能は、「やはり人類は滅ぶしかない」という結論に至るでしょうから。

ねえママ、サダムおじさんはどこにいったの?

2022. . 28
書くまいとは思っていたけど、やっぱり書いてしまおう。明日からにっくきゴールデンウィークだしな。なんか色々な感情乗せて今回も派手に発信します。
もちろん例によりいつもの私の妄言なので、良い子は真面目に受け取ってはいけないよ。

てんちょのあやしいはなし

かつてイラクにはサダム・フセインという大統領による独裁政権があったのですが、アメ帝の911テロ計画のとばっちりでイラク戦争(第二次湾岸戦争)を起こされました。アメリカを筆頭とした多国籍軍にあることないこと言いがかりつけられて、国をボコボコに壊滅させられ、石油利権を乗っ取られた経緯があります。結果的にディナールだっけか、自国の通貨は暴落して、宗派対立は激化して、テロリストが跋扈するようになり、国内は大混乱に陥ったそうな。

その挙げ句、例のISIS(イラク・シリア・イスラム・ステート)が誕生し、それらとの紛争のため、アメリカイギリスをはじめとした多数の兵士が犠牲になり、イスラムステートの支配地域下にある多くの民衆が難民となり追い出されました。

また20年前に、テロ組織壊滅から民主国家建設という、自称「愛と平和と平等の旗手アメリカ帝国」が意気揚々と攻めたアフガニスタンも、ご存じの通り2022年現在、タリバンが国を支配し大手を振って歩いています。

民衆は飢え国は疲弊し、人の心は荒む。いずれも、こんなことになるならアメリカも多国籍軍も来て欲しくなかった、という結果しか生み出していません。

アフガンやベトナムを例に出すまでもなく、結局先進国というか、欧米至上主義の国々は常に自分たちの行いは正しいという論法で力押しに徹して、自らの手先である兵士やその家族といった下々の民草のことや、戦場となる地元の民衆のことを顧みない傾向にあり、目的のためには手段を選ばない、を地でやるあたりはテロリストと何ら変わりがないと思います

実際イラク戦争当時も「大義なき戦争」であると方々から言われておったのですが、それらの声に全力で耳を塞いでも、成したい「対価ある戦争」であったということです。
どこのどいつが主導したかまでは言いませんけど、儲けた奴がいることはたしかです。でないとやりませんから、戦争なんて。

そういった侵略により破壊される個々の国々の政治体制というのは、相対的に見なければそう悪いものではなく、逆に相対化してグローバル化(欧米化)あるいは既存のイデオロギーにフォーマッティングすることで、不利になったり、問題が発生することが圧倒的に多いです。

あえて例えるなら、個人事業主として普通に利益を上げてそれなりの生活をしている人のところに、突然図々しい経営コンサルタントがやってきて、あなたの経営はブラックだ、それでは世界と戦えない、私がオススメする商品を売りましょう、この販促ツールを使ってください、警備システムも入れましょう、などと言ってくるようなものです。

国はそれぞれの体制で、それぞれの倫理観や規範で運営されていれば良いのであり、他国から自国の有り様を指摘され是正するよう勧告、従わない場合は経済制裁ないし武力行使するなど、内政干渉も良いところ、余計なお世話な訳です。
仮にその国内で圧政により民草が苦しんでいたとしても、それはその国の国民が解決する問題であり、他力を期待したところでいいように扱われるだけというのは、歴史が証明しています。

我が国日本は敗戦の折、まさにフォーマッティングされた代表国であり、あらゆるシステムを欧米式に書き換えられ、今に至ります。ただ、日本が割にすんなり移行できたのは敗戦で何もなくなったため受け入れざるを得なかったから、とも言えますが、そもそも新しい技術や知識を導入することに躊躇しない節操のなさと、それを手にしたいという俗物さと、実現のための勤勉さと器用さが今の戦後日本を作ったと言ってもよいかと。

日本がこうして変化し、なお成長できたのは、自ら「一度滅んだから」と言えるでしょう。これが他力によって滅ぼされたならば、ただ遺恨を残して、前時代的な過去にしがみつく事になったのではないかと思います。
そのくらい既存の国家体制を、余所者が外部から変えるということは難しいし、民衆の支持を得るのは難しいのです。

それを一度アメリカは日本でやってのけたもんだから、他所でも出来ると確信したんでしょう。

蛇足ですがついでに書いておくと、過去行われたあらゆる革命やクーデターが民生(民製)であるというのはいささか無理があり、何れもブレーンとなる第三者や、資本提供する外部のスポンサーが存在し、それらの者にとって都合が良い社会を企図することを、「革命」と呼んだ、と考えるのがまともな歴史認識です。
それは、国内に反政府組織があったり、密かに叛意を抱いていた諸侯らの手により云々~、あるいは側近の情動的な裏切りとか、そういうのではなく、国際情勢を見極めた上で外部から力を加え影響を及ぼす事が出来るほどの存在が、当事国内に居る自分たちの手駒を動かして、いかにも革命が起きたかのように見せた、という意味です。

ま、これ以上言うと陰謀論じみてきますからやめますけど、根拠はこういうコトです。

事に対して多数個体間で協力できるのは人間だけの特殊な能力ですが、それでも危険な賭に対し一致団結するには大抵、神だとか、仏だとかファンタジックなものから、金とか土地とかのエコノミックなものを餌にしないと出来ませんし、その中心にはジャンヌダルクみたいな筋肉少女的なカリスマか、あるいは個々人に必ず見返りというか、人質をとられたり搾取されていることを認識させて、努力に見合う対価を指し示さねば動きません。

民の心を動かし、それだけのことが出来るのは「優れた指導者」だからだ、と結果論的に称えてきたのが実際我々が知る歴史ですが、突然、富も権力もない一人の男がいくら声を上げたところで、誰もついてくるわけなどない。ましてや食うにも困るような生活を強いられ、学を奪われ、思考を制御されたネットもない時代に。

その男をとりまく民衆は文字も読めず、けして賢くもない、生まれてこの方社会に反駁しようとしたことも、構造に疑問に思ったことすらなく、身分差別を普通に受け入れて、自らに課せられた労務をただたんたんとこなしているだけだったのです。

そんな民衆が、立ち上がり革命に至るまでに乗り越えなくてはいけないハードルがどれほどあるか。
はっきり言って不可能です。それこそ神の啓示を受けた筋肉少女ならどうにかなったかもしれませんが、そう易々と神様は耳元に息を吹きかけてはくれません。そんなの待つよりもどこかの国のCIAとかが耳元で囁いてくれる方が早いと思います。
ですから想像の範疇でそれらの背後には当然利害があり、こちらもしっかり関係者が儲ける仕組みがあるわけです。

そういう話からもわかるように、結局人を殺し国を滅ぼす様な国際問題が起きたとて、動機など個人あるいは一部の集団が得たい「カネ」ひとつで説明がつくほど簡単なことで、大層な情義があるわけではございません。その手の守銭奴にとって国とか民族といった単位は何の意味もないですし、興味もありません。

はっきり言いますと、人はカネのためにならなんだってやります。簡単に人を傷つけますし、欺しますし、罵りますし、殴りますし、殺します。
第一、まず正しいことのために人に干渉したりなどしません。本当に正しいことを知る人は人に干渉などしません。

ま、ですが人にはわずかながら良心というものがありますから、自分の行為に正当性を与えようとします。そういったときにしばしば利用されるのが正義という曖昧模糊とした一方的な言葉であり、それらとセットで時に神、あるいは神の意志を騙ったりします。
そうして人は正義のためならばなんだってするようになります。
正確には「正義と信じた事のため」ならば、です。どちらかと言えばこちらの方が歴史に深い遺恨と影響を刻んでいますし、後世も過ちとして認識されにくいので非常にタチが悪いです。


だから私にとって、ゼレンスキーの演説は戦争を継続するためのプロパガンダに聞こえてしまうんです。当然、ゼレンスキーが勇気と気骨のある正義の大統領だとは思えません。
事実、その声に呼応して各国からは戦争継続するための兵器というツールだけがどんどんと搬入されている。そしてそれを扱い人殺しをするのはウクライナの兵士や、民兵です。ロシアの若者を殺します。

どの国がどれだけウクライナに貢献したかで、国際的な立場が量られているようにも感じます。
ウクライナに喜ばれたら、地位が上がるかのように、嬉々として支援する。
今回少し問題になったというか、日本でざわついたのが、ウクライナが流した支援国への感謝の動画。そこには極中立的な立場をとる国をも差し置いて、「JAPAN」という国名がなかった。
日本はたしかに武器や装備の提供はしていない。

しかし、だからといって、支援国から外すのかと。
私が思うに、ウクライナは日本が思っているほど重要国とは認識されていない、のではないだろうかということです。
それはファシズムを批判するウクライナ公式ツイッター上で、ヒトラーとムッソリーニと昭和天皇の写真を並べている時点で、日本のことをまるで理解していないことが明白であり、日本人がこれを見てどう思うかがわかっていない。真珠湾攻撃と911テロを同列に並べた弁舌と並んで、最悪だと思います。

わたしは右な人間ではないけど、ひとんちの国家元首を非難するならそれなりの覚悟は必要だと思います。

それでも日本でも「ウクライナかわいそう、正義のために頑張って!」みたいなエールを送る人がいますが、私からすればあんなもん内戦の延長であり、2014年のミンクス議定書が破られている時点で(ウクライナ、ロシア共に守らなかった)「もう、お前ら勝手にやっとけ」状態であり、反政府の分離独立派とはいえ、自国民を虐殺していたのはウクライナのほうが先です。そういうのテレビではいいませんけど。

テレビを通してこちらから見える光景は、まるで三文芝居のシナリオのように、善と悪の二極構造を描き出し、そこに悲しくも美しいと言わしめるヒューマンドラマと、凄惨なドキュメンタリーフィルムがカットインされ日々の報道となって流されている。世界の結託、諸悪の根源、強いリーダー、堅固な意志の兵士、慎ましくも勇気に満ちた市民。秘密に縁取られた闇の国家、欺され洗脳される国民、度々起きる内紛に士気の低下、敗走。

これ脚本と演出家がいるんじゃないですかね。もちろんマスメディア用に。
映像媒体というのは、ある物事を伝えたい人により本質的に伝わるように編集するのが基本です。
ですから、本質がブレるような都合の悪い素材は基本的に使いません。(間違って使用してしまうことはありますが)
戦争の当時、ないし当事国からしか発信されない情報はまるで信用ならないので、今それらを直視するのは危険だと思います。

そんな情報がキモであるという今回の戦争は、情報戦争であるともいわれていますが、あまりにも多種多様な情報にあふれすぎている点で違和感を感じます。メディアの発達は当然あるでしょうけど、情報が漏れすぎているし、伝わりすぎている。

今回ドイツが戦車を提供したという事に関しても、それはつまり戦線に投入されるということを指していると思うのですが、ふつう、軍の機密にしますよ。なんでこちらの手の内を敵も見られるようなメディアに流すのか意味が解りません。

兵器というのは高額です。
そもそもの兵器の出所とは、「平和を希求する」とされている各支援国の軍隊です。
つまり、国民の皆さんの血税で死の商人達から購入したものが送られてるんです。
ウクライナを支援する国民の皆さんは、少しずつロシアの兵士を殺しているんです。
私がウクライナ関連に寄付をしないのも、弾薬になるのが嫌だからです。

それに、各武器装備支援国の兵士が介入していないかというと、そんなはずはなく、ドイツが自国の戦車を提供するなら、それを維持するためのスタッフもいれば、操作するオペレーターも必要になります。まして国の装備というのは軍事機密なんですから、簡単に他国の兵士になんて触らせるわけがないじゃないですか。そもそも外国の戦車与えられてウクライナ兵がいきなり動かせると考えるほうがおかしいです。どんだけ優秀なんですか。

各地でテロや、組織強盗、犯罪、内乱、内戦、海賊行為、それらは常に人間らしい平和な暮らしも出来ず、国民が困窮するような国々に多くみられる愚行です。
そういった国々では、米やパンより銃の弾の方が多いんでしょうか?
それとも貧しいから、銃でパンを奪い合うことを選択するのでしょうか?
兵器はパンよりも安いのでしょうか?

何処の国も支援しなければ、ウクライナは制圧されてとっくに戦争は終わっていたでしょう。
相応に死者も出たはずですし、失うものもあったと思います。
ウクライナはそれを否として、戦ったのだから別に構いません。自分たちの国を守る為に行動を起こしたまでだと、だから全ての責任は自分たちにある、と。
だけど彼らは、既に他力によって戦争を継続している。
兵器と共に、秘密裏に各国の軍隊だって入っているでしょうし。

ゼレンスキーがどの程度の策士で、役者なのかはまだわかりませんが、まんまと国家間戦争の立役者として神輿に担がれているのは確実ですし、裏側に大きな力が働きかけているのも確実でしょう。

私は、世界が戦争を終わらせようとしているとは到底思えません。

今のこの不自然な情報統制を見ていると私は絶望的な気持ちになります。
誰もウクライナの人々の命や生活を慮っているようには、到底思えないんです。
そして、誰もロシアの人々の将来やロシア人兵士の命を考えているようには到底思えないんです。

情報統制して国民を欺いているのはロシアや、中国、北朝鮮のような独裁国家だけではありません。
現に我々も今「ロシアの言い分」は全く耳に入ってきていません。聞こえてくるのは「非道なロシア」「情けないロシア兵」「欺された国民」ばかり。
こんな不公平あるでしょうか。
報道機関は何をやっているのでしょうか。

今回の戦争は、ウクライナはロシア崩壊のダシに使われているに過ぎない、と考えます。
世紀の大悪党ウラジーミル・プーチンを打倒すること、それが国際的責務である。そして哀れなロシア国民を解放し、真の民主社会へと誘うのだ、と。

あわよくば、最大規模の資源国であるロシアを、西側諸国で仲良く分割統治するという取り決めでもしているのではないか、と思わないでもありません。

ですがそのために必要なことは、ロシアに核を撃たせることなんだと思います。

ロシアが核さえ撃てば、(ウクライナは壊滅しますが)世界は一丸となって憎きロシアをぶち壊しにいけます。いまもって中国が沈黙しているのも、割譲が約束されているからではないかと思わないでもないです。

日本は、さて。北方領土返還でも約束されてるんですかね?

何度もいいますが、戦争をやめることが出来ない為政者なんてクソ以下です。

じゃあどうすれば良いんだって? そんなもん車屋に訊くことではないでしょう。


ハッピートリガーな中心で、平和を叫ぶ

2022. . 27
できるだけ気にしないでおこうと思っていたのですが、やはりちょっとどうかと思うので書こうと思います。

てんちょのあやしいはなし

現在ロシアがウクライナに侵攻して、街や市民生活を蹂躙しているさなかで、国際的にはロシアに非難が集中しています。西側諸国は参戦を拒んで武器供与、医療品や食料、支援金といった後方支援だけに留めているのはご存じの通り。
我が日本も、ゼレンスキーから「復興の暁には力を貸してくれ」と、要するに金を送ってくれということなのだけど、それに大して日本の政治家諸氏は予定調和のスタンディングオベーション。

日本の政治家がこぞってスタンディングオベーションした、と聞いたときには身の毛もよだつというか、なんか本当に、心配になってしまった。
もちろん、日本人が自発的にスタンディングオベーションなんてしないのは明々白々、ちゃーんと脚本通りにやったに過ぎないし、なんでそんな脚本があるのかっていうと、アメ帝がそうしてたから日本も続けって訳ね。

こういう政治の側面から今回の戦争見てたら、歪には見えます。

ロシアの侵攻に乗じて、ロシアに関する文化の拒否や排斥が各地で始まって久しい。
一国の一指導者が起こした戦争により、それまでの文化や歴史、民族までもが否定される、そしてそれを国際世論が容認している。

これは、民族差別に他ならないのではないかと思います。
前にも話しましたが、文化というのは民族によって生まれ、継がれ、醸成され、今に至るものであり、住む土地や、着る服、食べるもの、それらはその民族のアイデンティティに直結するものであると思います。

仮に民族としてではなくロシアという大きな枠組みで見たとしても、ロシア国民は自身らの国から輩出された技術や文化、学問や芸術、文芸、それらを誇り、矜持とする部分は少なからずあると思う。それを有事であるからといって、外にいる人間が拒否し貶める権利があるとは私は到底思えませんし、ロシア人を差別し、暴言を吐いたり暴行を加えたりしても良いなどとは思いません。

ところが、我々の様なほぼロシア文化に無関係で、無関心な民族までもが、そのバッシングの尻馬に乗り、ロシアそのものを否定し「戦争を起こした国、当事者なのだから当然だ」とあまりに情動的に口を開くようになってしまっていることは、実に嘆かわしい。

ロシア軍がチャイコフスキーを流し、戦意昂揚を煽って進軍しているなら、聞いたり流したり、弾いたりするのをやめても良いと思う。
ロシア兵がドストエフスキーを朗読しながらマシンガンをぶっ放して無抵抗に婦女子を撃ち殺しているなら、図書館から撤去しても良いと思う。
プーチンがロシアンバレエのタイツを纏って、白鳥の湖を踊りながら進軍の指揮を執っているなら、世界各地を巡るバレエ団は石を投げられても仕方ないと思う。

もう一つ、件の戦争の周辺で話がにわかに持ち上がっている、気になる事がある。

これはプーチンが起こしたディープステート(闇の政府)との戦争である、という話。
端的に言えば、プーチンは正義の側にあり、我々は世界に欺された「目覚めていない人々」なのだと。その哀れな民を解放すべく闇の組織に立ち向かっているのが、トランプ前大統領を筆頭とし、プーチン、習近平、金正恩、などといった、いわば我々が想像しているのとは真逆の対立構造を裏社会の事実として情報展開しており、現代の社会を統べる全ての団体や指導者、国家元首は悪の手先、あるいは爬虫類人類だとか、地底人だとかいう、ああもう、な論調で、人類の恒久的な支配と家畜化を目論んでいると語られる、壮大な陰謀論です。もちろんコロナ禍騒ぎやワクチン詐欺もここに含まれるので、今の時間帯は余計に論が肥大して、元気いっぱいに暴れ回っています。

ま、この事に関しては否定も肯定もしませんが、この論を展開する人は、本当にフルチンで突っ走ってる感じがして、もう、誰の声も届かない感じがします。
そういう陰謀論というか疑惑がムクムク沸き上がる温床、マスメディアの杜撰さもあるのですが。

例えば、戦闘の惨状は映画の一場面の切り取り、爆撃の様子はCG、怪我人はクライシスアクター。
実際ウクライナは何の被害も受けていない、とか。

ま、ゼレンスキーはいつも身ぎれいに髪も髭も整えているなぁ、という印象は受けるので、あんたホントに戦場にいるのか? と思わないでもないですけど。
ちなみに、日本で首相とか責任者が災害時にこぎれいなスーツで、髪も髭もこざっぱりしてたら(それこそTシャツなんて着てたら)怒濤の非難に晒されるので、政治的判断として、おろしたての作業服を着て髭を伸ばし放題にするのが慣例です。

たしかに、マスメディアはねつ造しますし、過剰演出もします。
外の人々が想像する、最高、もしくは最上級の状況を演出して放映します。そうしなければ想像以上のインパクトが与えられないからであり、視聴者の満足が得られないからです。

解りやすく言えば、住んでいる地域から離れた場所でひどい地震があったとしましょう。そうすると人はテレビでその惨状を確認しようとするわけです。これは情報取得の側面もありますが、おおくは好奇心、野次馬根性に他なりません。
震度7とか8の地震があったとしましょう、なのに映像に映る景色は、建物の倒壊もなく停電も起きておらず、人々がほがらかに過ごしていたらどうでしょう。

テレビのチャンネル変えてしまうでしょう。

人はひどい地震の惨状を期待して、テレビを点けるんです。
期待通りであって欲しくないと願いながらも、期待通りにビルが倒壊していたら安心するんです。

私の住む地域も数年前比較的大きな地震がありましたが、表向きの被害というのはそこまで大きくなかったんです。死者も殆どいませんでした。
でも内部的には大変な家も多かったんです。家の壁がひび割れたり、屋根瓦が落ちたり、食器棚が倒れてきたり、断水、停電、ガスも当然止まっていて、普通の生活をするまでに数週間はかかっていました。
でもマスコミは、見た目的に派手に激しく損傷している建物の箇所ばかりをピンポイントで撮影していました。わざと、そこ以外を撮影しないようにアングルしているのが手に取るようにわかりました。
さも、全域がこれほどの被害なのだといわんばかりに。

だから今回の事も同じく、ウクライナ全域が廃墟になっているなどとは私も思っていません。まだ平和に過ごせている都市も街もあると思います。
ですが、普通に爆撃や砲撃で家や道路が吹き飛ばされて、子供や老人、非戦闘員の市民が巻き添えを食らっている。

これをして、ジュネーブ条約に違反をしていることが明らかであるから、良識ある世界は彼らを弾劾すべきだ、などといいたいわけではなく、普通に考えて戦う意志のない、ただ逃げることしか出来ない人間の頭の上に爆弾落としたらダメでしょう、ってだけです。

命令されてもそれはやっちゃダメです。
それが守れなかったら、ダメです。

太平洋戦争時もアメ帝は無差別に日本の都市を焼いて、あげく原爆まで落としましたけど、条約違反で裁かれる事なんてなかったんです。だから条約なんて無意味で、人は人としてあるべき法を見定め、その下に集わねばならないと思います。
人間同士が私利と私欲の元に生み出した譲歩案なんて、力ですぐに踏みにじられる。

私の友人の店の従業員にロシア人の女性がいるんですけど、この戦争が始まって幾度か心ない言葉をかけられたそうですし、実際に親族とは連絡が取れない状態にあるようです。
その方の話によると、たしかにロシア兵は欺されて戦場に連れて行かれることがあるそうです。彼女の叔父も軍隊に入り、訓練だと偽られ一年間音信不通になっていたと思ったら、還ってきたときには遺骨だったということがあり、それはロシアではさして珍しくない話だそうです。

ロシアでは普通にそういうことはあるのだ、と。そう受け止めていたそうです。しかし、彼女は日本に来て、それが異常なことだと気づいた。
そういった不幸を、悲しみを、憤りを知ってか知らずか、まるで森林を間引くかの如く行える為政者がまさか高潔で神聖な指導者とか、正義の使者だなんて、私は思えませんけどね。

しかし、だからといって、日本が積極的に肩入れする義理はない。
西側諸国、(おもにNATOの意向)に跪いて、尻尾を振る必要などない。
だから、日本の政治家が、脚本通りにスタンディングオベーションなんてしたのが、ほんとうにやるせない。

元は我々の国も、国家存亡の危機であると煽りに煽り、天皇陛下という一個人を神輿に担いで神であるなどと国民を欺き、同調圧と懲罰という恐怖で世論を操作煽動、支配し、多くの国民と若い命を損耗して、挙げ句、文字通り国土が灰になるまで戦争をやめなかった。

それを後世の歴史は戦前戦中の日本を「狂った指導者に支配された恐怖政治国家」であるとした。そして戦後の日本人は自身らの思慮思考を失い、あるいは自ら同調圧により封印し、民主社会が差し出す甘露を目の前に口を噤んだ。

今この二十一世紀において、かの時代の日本人および日本の軍隊は高潔であり誇り高かった、不正を嫌い厳格であった、全ての動機に正義があった、などと祭壇に据え、担ぎ上げようとする声が高まっている。それは世代が塗り替えられ、ある程度「戦勝国が用意した洗脳プログラム」が薄れかけてきているせいもあるが、なにより、日本という国が情報や知識の制限を設けない上、宗教的戒律や、イデオロギーに支配されにくい、世界的に見ても非常に自由な国だからでしょう。

結果論ではあるのですが、そういった世界が醸成されたのは、かつてとことんまで散った過去があったからなんです。民主社会を獲得するため、当時の首脳陣、指導者、権力者も(見える部分は)軒並み排除されたから。
だから、日本人はIFを語ってはいけない。失敗もした、欺されもした。調子にも乗ったし、非道いこともした。やることはやって今がある。

今我々日本人は世界の全てを知ることが出来るのに、またあの時代に戻ろうとしている。
どちらかの正義に肩入れして、破戒を容認しようとしている。
ウクライナを応援することは、平和を志向して、人命と人権を至上としながら、世界が一丸となってシュプレヒコールを上げているようにも見えるかもしれない。
だけど、やっていることは、自分勝手な大義名分の元に容認する破壊と殺戮行為に過ぎない。戦争など互いの勝手な言い分が通らず、利害が一致しなくなった末に起こるものに過ぎないのだから、何処の国であれ何れなり衝突の危険性はあるし、当然戦争はなくなることはない。

戦争の問題点は、ごく少数の人々が実行した戦闘行為における結果如何で、国民全体(個人の人生)の運命が決定してしまうことにある。
戦争は外交の延長であり立派な政治的手段などと高説垂れる者もいるが、おおむね外交に失敗したから戦争になる、というのが現代の常識といえます。

労働をし、税金を払って、いうとおりに法律に従って、憲法の下慎ましく生きて、国のことは政治家や役人に任せていたら、いきなり他国から宣戦布告され、徴兵、戦闘と。
外交で収拾がつかなくなったら結局国民のマンパワーをあてにして、じゃあその外交失敗の責任をお前らはとるのかよ、っていいたくなります。

多くの国は国籍を自由に選ぶことも出来ないし、無能な政治家や役人を合理的に国民の力で引きずり下ろすことすら出来ない。亡命や選挙がその手段であるなどというならば、「辞職投票」という制度を作るべきでしょう。

「立てよ国民!」、と威勢が良いのも結構ですが、結局のところゼレンスキーは国土と国民の命と財産に犠牲を強いなければならないまで追い詰められた、外交に失敗した政治家でもあるのです。
無論プーチンをして、隣の狂人かヤクザに見立て、相手が悪かった、と言うことも出来ますが、それならなおさら慎重にゆくべきであったでしょう。

だから日本の政治家が立ってまで拍手して、彼を称えるのはどういう了見かと、そう思うわけです。

日本には、国土が灰になり、国民が屑になるまで戦った歴史があります。
それはもっとも愚かな選択だったかもしれませんが、勝てるはずのない相手に楯突いたのは、国家としての矜持、国民としての矜持がそうさせた面があるでしょう。一億層玉砕の覚悟で全ての国民が立ち上がり、竹槍でB29を堕とせるとまで信じることが出来たのです。
ま、出来たというか、無理矢理信じさせられたというか、たぶん殆どの人は「無理じゃね?」って感じながらエイエイオーしてたと思います。

これね、今のウクライナの情勢と比べたりするのはちょっとアカンのかもしれませんけど、というかどっちかっていうとロシア側なんですね、日本人のやってた事って。
竹槍でB29が堕とせないってことは、訓練教官が一番よくわかっていたけど、そういうファンタジーで現実から国民を遠ざけることしか出来なかった。だって本土決戦が迫ってきたということは大本営の嘘がバレはじめていたから。

かつてのシベリア抑留で捕虜を奴隷のように扱うあたりなどから見ても、ロシアの兵士損耗率の高さは、人命軽視の結果とも言えるのでしょうけど、実は戦略戦術において現実を見ないで力押せばなんとかなるというあたりがお家芸なだけなのではないかと。
スターリンの時代から「ソ連の兵士は畑でとれる」と言われているくらいで、一万発の弾が飛んでくるなら、二万人の兵士を用意すれば、一万人は生き残る、という理論(?というか引き算レベル)がベースで、人材を育てたり、大事にする、ということにかの国の指導者はとても疎い気がします。

話がごっちゃになって何が言いたいのかわからないかもしれませんが、私自身はウクライナにもロシアにも肩入れする気はございません。ただ市民に被害が出てウクライナの方が悲惨には見えますし、実際国土の荒廃も深刻でしょう。しかし、懸命なウクライナ軍や勇気ある民兵にバッコンバッコン打ち負かされるダイコン兵のロシア軍も相当な数が死亡しており、故国で我が子の(軍事訓練の)帰りを待つ家族に襲いかかる、憤怒と悲哀と遺恨の温床を今まさに日々作り続けているわけです。

――戦争が。

それをよく知る日本は、再びそこに舞い戻ってはいけないのです。人が憎み合って、殺し合ってもやはり憎しみは消えない。

日本は戦争を放棄している。そのことをよく考えて欲しい。
憲法九条があるから戦争をしないのではなく、戦争でどれだけ多くの物を失ったかを知るが故に、戦争を肯定化しないし、出来ないし、やりたくないのだと、そう言って欲しいし、言い続けて欲しいし、言い聞かせて欲しい。

北朝鮮のように、敵国を攻撃するための賢いミサイルは、日本にはない。
だが、戦争はすべきではない、やりたくない、核も絶対ダメ! ってバカな声明を出せるのは日本だけの特権です。

ひとたび銃声が響けば思考が停止、涎を垂らして全てが灰燼に帰すまで撃ちまくる、そんなハッピートリガーな世界の中心で、我々は平和を叫ぼうではないですか。













キャンプ考

2022. . 22
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最近、ブッシュクラフトなる動画をよく見ています。
ブッシュクラフト、というのは森林などの自然環境下における生活、あるいは智恵や行為や技術、全般を指していいます。
しばしばサバイバルなどと混同されがちではあるのですが、サバイバルの場合は生き残り帰る、という目的であり、ブッシュクラフトの場合は継続的に定置し生活する、といった違いがあります。

もう少しわかりやすく言えば、サバイバルは生命維持のため、植物から補給したり、雨水を集めたり泥水の上澄みを上手にすする方法で、ブッシュクラフトは飲むための水を継続的に確保するため水源地から定住地に導入したり、または使用に適さない水質の水を濾過する仕組みを造り、あるいは飲料水を確保する方法、といった感じ。
いずれも機材等は最小限で、道具を限定する事に一定の意義があり、キャンプとは一線を画します。

動画のブッシュクラフトは大抵何もない森の中や川辺、雑木林などにほぼ単身(あるいは数人、あるいは犬と)乗り込み、整地から始まり、穴掘りや、現地で倒木から切り出した丸太などを利用して、住処の基礎作りをはじめます。

これは本格的なログ調の家を作る場合もありますし、半地下壕のようなダグアウト、ハンター小屋のような避難壕、あるいはビバーク用のツェルトのような簡易的なものまで、様々です。
ざっくり言えば、隠れ家、秘密基地って感じですかね。

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何れも資材は現地調達で、外から持ち込まないのが原則です。あったとしても釘や紐などの最低限。
作れる建造物の規模はその山の植生にもよりますし、立地や人数や、道具、時間や状況などに大きく左右されます。
動画などは大抵何日にもわたって作られているので、なかなか立派なものが出来上がりますが、実際の所一人で山の中に家のようなものを建てようともなるとそれはそれは、資材の量だけでも大変です。

(ブッシュクラフト動画を見ていると、いかにも一人で何もかもやっているように見えますが、実際はカメラマンやアシスタントがいて、安全確保もされるし、食料供給や作業の手伝いは随時行われていると考えるのが適当かと思われます。でなきゃ、三脚をあっちこっちに据えて撮影しながらなんて無理ですし、そんなことしてたら全く作業進みません。)

力と持久力があればいいというものでもなく、やはりそこは斜面や不整地でモノを運んだり、石や岩や、粘度質が混在しているような地層を掘ったりするには、それなりの技術や経験が要ります。

先に「道具は最小限」と書きましたが、ちゃんとした道具を揃えていたとて、しんどいもんはしんどいです。あんなにサクサクキビキビ動けませんし、上手いこと作業が進みません。それに、つねに頭と身体と小手先を使いながらですから、そこのところもめちゃくちゃ時間がかかります。丸太一本を不整地で運ぶのも大変なら、山肌を人力で掘るのもクッソしんどいです。一日フルでやったら次の日なんて元気に動けません。

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ですので動画のブッシュクラフトというのはファンタジーであり、視聴者をその世界の夢に誘うには充分すぎる魅力がありますが、現実にこんなに簡単にできるなんて思っちゃあいけません。

(無論、動画に登場する人物(ユーチューバー)はそれなりに自然の中での生活に慣れており、技術や知恵も兼ね備えておられる方々で、けしてキャンプ好きタレントがにわかで野外生活をしてみた、的なものではございません、第一ほぼ喋りません。私はごちゃごちゃ喋りながら作業してるユーチューバーあんまり好きじゃないので丁度良いです)

ま、そんなことを踏まえて、私はキャンプよりもこちらのブッシュクラフトのほうに魅力を感じるんだなぁ、ということが最近よくわかった次第でして、そもそも私自身、ブッシュクラフトという世界を知る以前に、似たようなことは既にやっているよなぁ、と。

そこで思ったんですが、最近はアウトドアひとつとっても、分類が多様化しているなと。
逆に言うと私のように、以前から自然にやっていたことが、外部の認識によってカテゴライズされてしまうような事が起きています。
無論カテゴライズされるということは一定のファンや、支持層が存在するということですから、私と同じような気質で、以前からそのようなことをやっていた人もまた世界中に一定数居たわけで、それらを世の中に公表するときに表題を付けると「ブッシュクラフト」と相成ったわけでしょう。

ちなみにブッシュクラフトという言葉が初めて出たのは、今よりもずっと不便で下手すりゃ実生活が野外生活みたいな人も居たであろう1800年代だそうです。SNSなどという“自慢装置”すらなかったにもかかわらず、(字面からして)自然の中で何かを作りたい、築き上げたい、という原初的な創作意欲だけで出来た趣味がそのころからあったというのは少し驚きです(もちろん今とは規模や概念が違うでしょうけども)

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近頃よく聞く、ソロキャンプ、ソロキャンパー、という呼び名も、“キャンプ”から派生したのは明らかですが、そもそもキャンプはマスで行うものである、キャンプとはレクリエーションである、あるいは野外活動の上で必要に駆られた結果行われる衣食住行為であり、それ単体で論じるものではない、とまあ、キャンプの定義というのもそれぞれといいますか、個人的にも、組織的にも捉え方が違いまして、ことさらキャンプかどうかを論じる必要性はないのですが、えてして業界の人々というのは論じたがることが多いです。

で、そんなキャンプも様々な形態から、山岳キャンプだとか、レクリエーションキャンプだとか、教育キャンプだとか、ファミリーキャンプだとか、オートキャンプだとか春夏秋冬キャンプだとか、サバイバルキャンプだとか、ツーリングキャンプだとか、時に互いに反目し合い、相容れないこともありながら、まあまあ共存共栄して今に至ります。

一見趣味として地味なキャンプは、派手なアクティビティやスポーツの陰に隠れながら、特に爆発することもなく、バーベキューと同列くらいに連綿と人々の行楽日和のお供であったのですが、いわゆる業界で第一次キャンプブームというのがバブル終了後の1990年代にあり、車も四駆がバカ売れするなど、都会っぽいものから意識的に距離を置くかのような流れがありました。
一説によるとこの頃から週休二日制が導入され、人々の間にこれまでなかった余暇が出来たことが原因ともいわれています。

それから2000年に至るとすでにブームは去っており、そこから十余年、アウトドア業界に冬の時代が訪れることになります。ところが2015年あたりから、突如ブームが再燃するのです。
これは一説によると、インスタグラムのサービスが始まったことと関係しているようで、いわゆる“インスタ映え”の筆頭として、アウトドアの様子をアップした画像が一般人を自然のある風景へと誘ったのだとかなんだとか、おそらくはロハス系の画像なんかも影響しているのでしょうけど、IT社会にどっぷり浸かって、疲れ切った人々には癒やしに映ったのでしょう。

また、デジタル情報に織りなされる仮想体験しか知らない子供に、手で触れ、肌で感じる実体験をさせてあげたいというお母さん達の想いや、Amazonに代表されるネット通販で、様々なキャンプ用品が手軽かつ安価に閲覧購入できる環境が、お父さんの悪い癖を助長し、肥大していったようです。
あと、これは日本らしいっちゃあらしいんですが、“ゆるキャン”というアニメ作品が人気を博し、普段外に出たがらないオタクまでをも巻き込んで、第二次アウトドアブームが幕開けたそうです。

さらにここ二年くらいの傾向は、コロナ禍の影響から、密を避けるレクリエーションとして注目を浴び、かなり多くの層にキャンプは浸透し、同時にアウトドアアクティビティ、レクリエーション全般が注目され、登山、自転車、オフロードバイク、釣り、トレラン、沢登り、カヤック、クライミングなどもご存じの通り盛況です。

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そんな猫も杓子もキャンプキャンプで、市街地近郊のキャンプ場は連日満員御礼という状況で、新しく開くキャンプ場もちらほらと。
そんなにキャンプばかりやってどうするんだって感じですけど、実際ハマります。これはキャンプには多くの人の心を鷲掴むファクターが内在しているからに他なりません。キャンプとは、現代の完成した生活を一時的に放棄し、衣食住を再構築する行為と言えましょう。あらゆる人が、どこかに必ず魅力を見つけ出せる行為だと言えます。

逆に言いますと、実生活にある程度満足したとき――というより“欲望が飽和”したとき、人々は一旦自然に回帰しようとするのかも知れない、と考えたりもします。第一次、第二次とブームの興りを見るとそういう気もします。
アウトドアという概念が日本に上陸したのがいつか、私が知る限りでは定かではありませんが、あえて日本のアウトドア・ゼロ年代を定義するなら、70年代に起こったペンション、ハイキング、避暑地ブーム、ジョギング、スイミング、テニスなどの健康ブームあたりが発端と言えるのではないかと。これもまた、60年代の高度経済成長期を経て、いわゆる3C(カラーテレビ・自動車・クーラー)が満たされた後に興っています。

昨今の流れから、キャンプ=自然を愛でる=エコロジー、みたいな図式を思い浮かべがちですが、それはあくまで結果的に発生する思想であって、元々は飽食の末にたどり着いた場所が、たまたま山であったというだけではないかと。

キャンプのような、不便で非生産的な行為を、あえて興じることができる人というのは、とりあえず幸福に到達していると言えるのではないかなと、思います。
同じように、ぼろを纏い、コンクリートジャングルで段ボールとブルーシートで組まれた、簡素な庵で暮らす人々もまた、我々の知らない幸福の一端を見いだした人々なのかもしれない、と思うことはあります。







 









ブッシュクラフト英語:Bushcraft)とは、森林等の自然環境の中における『生活知恵』の総称とされており、その行為や技術をそう呼ぶ。サバイバルと行為が似ているが、サバイバルは『状態』、ブッシュクラフトは『手段』と区別することができる。他に、目的で区別した場合、サバイバルは『帰還目的』ブッシュクラフトは『生活目的』と分けることもできる。ブッシュクラフトで実際に生活している人や、趣味としている人、生業にしている人、継続して趣味等でブッシュクラフトを行っている人を、ブッシュクラフターと呼ぶ。(ウィキ抜粋)

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